不思議の国の詩織
穴は真っ暗で、底が見えないほどに深い。
詩織はこの穴は何かの拍子で偶然できた程度のものにしか思っていなかったが、彼女が落ちてから、その底への到着の気配を感じ取れるまでの時間が長すぎる。
「うわあああぁぁぁ!」
辺りは暗く壁面を視覚で確認は出来ないが、雰囲気からはこの空洞は広く感じ、とても偶然の産物には思えない。
10秒・・20秒・・30秒・・・。
どこまでも詩織は落下していくが、それでも穴の底へはまだまだ時間がかかりそうで、彼女は悲鳴を上げながら、「死んじゃう!?」と心の中で思っていた。
すると、その時だった。
「あれ?どうしてシオリちゃんがここに居るの?」
聞き覚えのある台詞を耳にした詩織が声のした方へ顔を向けると、そこには真夢が彼女と同じように落下していく姿が見える。真夢は頭を下にして詩織の顔を覗き込んでいるが、その表情には悲壮感も緊張感も無い。
「マ、マム!?」
「シオリちゃんもこっちに来ちゃったの?」
「何を落ち着いてるのだ!?こんな深い穴に落ちちゃったら死んじゃう!!」
すると真夢は奇妙そうな表情を浮かべながら、詩織にこう応えた。
「死んじゃう?あ、その心配は無いよ。」
「えー!?どういうこと!?」
「行ってみれば判るよ☆」
相変わらず落下し続けている詩織。その状態は改善される気配は無い。
真夢は変わらずのんきそうな表情で、慌てる彼女をニコニコと眺めている。
詩織は真夢の言葉の意味を全く理解は出来なかったが、それでも彼女の『心配無いの』という部分だけは耳に残っていて、そのお陰でいくぶんかの落ち着きは取り戻していた。しかしだからと言って落下が止まるわけでも無く、どこか諦めにも似た心境が構築されていく。
意を決した詩織が回りの情景を見ると、そこにはさらに奇妙な光景が繰り広げられていた。詩織と真夢だけでは無く、他にもいろいろな物が二人と一緒に穴の底へ向かって落ちていくのである。
机・花瓶・額に入った絵画・お菓子の瓶・ノート・クレヨン・・・。
そのどれにも詩織の見覚えのある物は無かったが、それらには不思議な統一感があり、また同時に変な安心感も一緒に湧き上ってくる。
半ば「もうどうにでもなっちゃえ!」というような心境になっていた詩織は、それらの落ちていく道具群を見つめながら、これから先の自分の運命を想像していたが、その時傍に一緒にいた真夢が、彼女に声をかけた。
「シオリちゃん、もうすぐ下に着くよ。」
「落ちたら死んじゃうのか?」
「大丈夫だよ。でもちょっと痛いかも。」
「え〜?痛いの?」
「そこはガマンしてね。それじゃ、マムはこっちに用事があるから。」
「え?」
まるで気流に流されるように離れていく真夢。それを見た詩織は急に不安になり、真夢の後を付いていくように空中でもがいたが、真夢はこのような状況に余程慣れているらしく、彼女のように上手に体を動かせない。
「待ってよ〜!マム〜!」
「大丈夫!上手くやればちゃんと帰れるよ☆」
「え〜!?置いてっちゃうのか!?」
しかし真夢は、そんな詩織の心配を微塵も気にする様子を見せない。そして真夢はニコニコと笑い手を振りながら、暗闇の向こう側へ消えていった。
「大丈夫だよ☆上手く【夜の鍵】を探してね♪
それがあれば帰れるよ☆」
・・・・・夜の鍵?
そして詩織はドシンという音と共に、ついに穴の底へと墜落した。
「アタタ・・・・。」
詩織が気が付くと、そこは大きな農場の中に置かれたテーブルの前だった。農場はどことなくアメリカ風で、地平線まで見えるほど広大な敷地に枯れた藁がどこまでも敷き詰めてあるが、さらに奇妙な雰囲気はそのテーブルにあった。
テーブルには数々の種類のティーカップが無造作に並べられていて、その数は優に100を超えている。ティーカップからはどれも湯気が立っていて、そのどれにも暖かな液体。おそらくコーヒーや紅茶のようなものが注がれていると想像できる。
そしてテーブルの傍には2人の人物が腰掛けお茶を楽しんでいる様子が見えたが、その姿を確認した詩織は、驚きで唖然としてしまった。
「だからリコ!アンタはそこがおかしいの!あ、お茶飲む?」
「飲む飲む〜!そんなこと言ったってさ!あ、お茶飲む?」
「飲むわよ。だからね、リコ!あ、お茶飲む?」
そこでお茶を飲んでいたのは、どう見ても詩織の姉の七海と、その親友の絵里子だった。2人の調子はいつもの通りなのだが、どこか様子がおかしい。
2人はお互いにテーブルの前の飲み物を薦め合っていて、まるで酒に酔っているかのように興奮しながらもケラケラと笑っていたのである。
「あの〜、ナッちゃん、リコちゃん。何してるのだ?」
あまりにも奇妙な光景に詩織が声をかけると、彼女に気付いた2人はティーカップを掲げ、相変わらずケラケラ笑いながら話しかけてきた。
「あ、シオリ!いいとこに来たね。乾杯しよ!」
「シオリもここに来ちゃったんだ〜!乾杯だ〜!!」
「ナッちゃん!リコちゃん!酔っ払ってるの〜!?」
詩織の心配にも、2人は全くお構いなし。詩織は七海たちが薦める飲み物にアルコールが入っているのかと本気で心配していて、出来るだけ丁重に断り続けたが、結局ほとんど無理矢理に飲まされてしまった。
どうやらお茶の中にアルコールは入っていないようだったが、それでも七海たちのドンチャン騒ぎは異常なハイテンションで続いていく。
やがてそれから2時間も過ぎた頃。騒ぎ疲れた七海が居眠りを始め、絵里子もまるで二日酔いのようにテンションが落ちてフラフラしてきたところを見計らって、詩織はようやく落ち着いた話ができると思い、恐る恐る声をかけた。
「あの〜、リコちゃん。」
「なに?」
リコは先程とはテンションが変わり、少し不機嫌な雰囲気がある。
「ここ、どこ?」
「知らない。」
「いつからいるの?」
「知らない。」
「【夜の鍵】って知ってる?」
「知らない。」
「リコちゃ〜ん!!」
絵里子は詩織の問いにぶっきらぼうに応えていて、どこか今の状況を何とも思っていないような感じがある。そこで詩織は切り口を変え、別の質問をしてみた。
「リコちゃん、疲れた?」
「あ〜、ちょっと眠りたいな。」
「リコちゃんって、愛用のマクラがあるんだよね?」
「う〜ん・・。そうだな〜。あれがあるとゆっくり眠れるな。」
「持ってきてあげようか?」
「そうか?悪いな。」
そしてリコはフラフラと立ち上がると、農場から離れた場所にあるこんもりとした森を指差した。
「あの森にネコがいるから、聞いてみれば判るよ。」
「ありがと〜!」
そして詩織はダッシュで農場を抜け出すと、森を目指して走り出した。
「ネコがしゃべる?まるで【不思議の国のアリス】だな〜!」




