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渡船

作者: s


 ざぶん、ざぶん。

 ただ静かに、静かに。

 波と波が打ち合う、音。

 ギィ、ギィ。


 善次郎はそこでふと目を覚ました。

 視界が霞んでいるのか辺りが霞んでいるのか。

 眼をこすりこすり、漸う意識を取り戻す。


「……ここ、は?」


 明瞭になった視界に映るは一面の、白、しろ、シロ。


 

 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。



 視界の端で黒い影が揺らいだ。


「お目覚めですかい、旦那」


 静かな、静かな声にゆうるりと前を向く。

 と、見知らぬ男が立っていた。


「……誰だ」


 白髪交じりの男が、黄ばんだ歯をにっと見せて笑った。


「この渡し舟の船頭でさぁ」


 男が答えた。


「船頭?」


 言われて辺りをぼんやりと見渡す。

 深い深い霧に紛れて見える、暗い青。

 なるほど。

 確かにここは海で、今、自分は船の中にいるようだ。

 だが、覚えはない。


「何処だ」


 そう呟く声は掠れていた。


「狭間でさぁ。あの世とこの世を繋ぐ境界の、河」


「河?」


 男の言葉に疑問を抱く。

 この広さ、この深さ、どう見ても、海、だ。


「河ですぜ、間違いなく、旦那」

「しかし」


 この広さを河と呼べるのか、言いかけて、男が静かに首を振る。


「あの世は広い」


 男の言葉に、ふと、諦めと同時に寂寥感が湧いた。

 そうして気づく。


「そうか、俺は」


 死んだのだな、と。

 善次郎は、ゆうるりと目を閉じた。



 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。

 波の音、櫓の軋み。



 思い出すのは、あの女の、哀しい声。



 と、男と目が合った。

 男はにっと歯を見せて笑い、そういえば、と口にした。


「旦那はいったいどうしてこんなとこへ来ちまったんですかい?」


 男の言葉に、善次郎は言いよどんだ。

 どうして?


「ああ、すいやせん。言いにくいことなら別に無理にとは言いませんぜ」


 男が再び黄色い歯を剥き出しにして、にっと笑う。

 善次郎はそっと目を伏せ、最後に見た彼女の顔を思い出す。

 おそらくは、と呟いてからふっと息を吐く。


「……死にたかったんだ」


 小さな小さな声でそう呟いた善次郎の言葉に、男は、それはまた物騒なことで、と言って苦笑した。





 あの瞬間、自分が何を思っていたのかは分からない。

 ただ、自分には伸ばせる手があった。

 助けなければとかそんなことは考えていなかったように思う。

 考える暇も、無かったと思うのだ。




***



「小夜!」


 それは、ほんの僅かな間の出来事だった。

 雨で増水した川の側で、小夜が足を滑らせてしまった。

 何も考え付かず、咄嗟に手を伸ばし、彼女の細い手首を掴んだ。

 掴めたことに安堵し、強引に彼女を引き戻す。

 別に、彼女のことを好いていたわけではなかったと思う。

 妻が死んでからの数年、何も考えず無為に過ごしていた日々を下女として勤めていた小夜は、ずっと、彼女なりに懸命に支えてくれていたのだと思う。

 けれど、善次郎にとって、妻以外の女に興味はなかった。

 だから、ひどい話だが、小夜を抱いたのは決して好意からくるものではなかったと思う。

 しかし、ただの一度きりで、小夜は善次郎の子を身籠った。

 妻との間には決して宿らなかった命が、ほんの気紛れで抱いた別の女との間に宿ってしまったのだ。

 天候が芳しくない日ではあったのだが、珍しく小夜が散歩に行こうなどと誘うものだから、しぶしぶ出かけることを承諾した。

 そうして告げられたその事実に、少しだけ、驚いた。

 だが、不思議と後悔や罪悪感は抱かなかった。

 そうして、じっと自分を見つめる小夜を見返し、では、と呟く。


「小夜」


 ――俺の、(さい)になる気はないか。


 そう言おうとしていた矢先の出来事だった。

 何も、考えてはいなかった。

 ただ、手を伸ばしただけ。

 けれど今度は反対に、荒れ狂う奔流に自分の身を躍らせてしまっていた。


「旦那様っ!」


 小夜のひどく慌てた声が、脳裏に響いた。


 ――泣くな小夜、女の泣き顔は好きではない。



 そう口に出して言えていたかどうかは、もう、覚えていない。

 ただ、ああこれでようやく妻のもとへ逝けるのだな、と、そう、思った。




***


「だから、俺は、死にたかったのだと思う」


 自分に言い聞かせるようにして、再びそう口にした善次郎の言葉に、男は小さく苦笑した。

 旦那、と呼ばれ顔を上げる。


「そいつぁ、死にたかったんじゃぁ、ありませんぜ」

「?」

「守りたかった、って言うんでさぁ」


 男の言葉に、善次郎は首を傾げた。


「守りたかった?」


 呟いた善次郎の言葉に男が頷く。

 守りたかった、と幾度か繰り返し呟いた後、善次郎は静かに目を閉じた。


「そう、そうかもしれない」


 静かに、静かに呟いた善次郎の言葉に、男は満足気ににっと歯を見せて微笑んだ。

 


 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。



 白い霞の向こうに、黒い大きな影が姿を現した。


「旦那、もうすぐ着きますぜ」


 男の言葉に、ああ、と頷いた。

 そして、ふと男を見上げた。

 男が首を傾げる。


「あんた、名前は?」


 善次郎の言葉に、男はひどくうろたえていた。


「どうした」


 尋ねる善次郎に、男は、名を聞かれたのは初めてだったもんで、と頭の後ろをかきながら苦笑した。

 そういえば、この男はいったい何者なのだろう。

 どうしてこんなところで船頭をしているのだろう。

 ふと、そんな疑問が湧いた。


「あっしの名は、喜兵衛と言いやして、生前も今と同じように船頭をやっとりました」

「生前?」


 喜兵衛は照れくさそうに、ぼりぼりと鼻の頭をかいた。


 ――こんなこと人に話すのぁ、旦那が初めてでさぁ。


 そう呟く喜兵衛に、ふと、この男はずっと孤独な思いをしていたのではないだろうかと思った。

 こんな、何もない河で、独り、誰としゃべることもなく。


「あれは、長雨がようやっとのことで明けた日のことだったんでさぁ。雨ってもんはぁ船頭にとっちゃぁ天敵でねぇ。まず、仕事が出来ねぇ。んで、仕事が出来ねェってことは、金がねぇってことで、当然、おまんまも食い上げってわけでさぁ」


 ――だから、あっしなりに焦ってたんだと思いますぜぃ。


 喜兵衛の櫓を漕ぐ手に自然と力が入る。


「あん時の雨はぁ特にひどかった。けんど、待ちに待ったおてんとさんだっつうのに、もう一日待った方がいいなぁんて、カカァが言うもんですからねぇ。あっし、ついカッとなっちまって」

「手を上げたのか?」


 尋ねた善次郎の言葉に、喜兵衛は、いんや、まさか、そんなことはしませんぜぃ、と手をパタパタと振る。


「あっし、ついカッとなっちまって、カカァに怒鳴っちまったんでさぁ」

「怒鳴った?」

「へぇ。あっしも必死だったもんですから、つい。それまでカカァに怒鳴られることはあっても、怒鳴ったことなんてなかったんでさぁ。何故って、カカァの言うことはいっつも正しかった。はは。あっしは頭が悪いもんで、いっつもカカァに呆れられてたんでさぁ。……あの日も、カカァの言うこと聞いときゃぁ良かったんだ」


 喜兵衛は遠く見やって、すっと目を細めた。

 善次郎は、辛抱強く次の言葉を待った。



 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。



「……心残りでね」


 喜兵衛がまるで独り言のように呟いた。


「心残り?」


 そう尋ね返す善次郎の言葉は、喜兵衛の耳には届いてないような気がする。


「……言うこと聞いてもう一日待ってりゃぁ、こんなことにゃぁならんかっただろうになぁ、なんて、はは。まったく、あっしは本当に頭が悪い」

「喜兵衛」

「お。着きやしたぜぃ、旦那」

「あ、ああ」


 何かを言おうとしたところでそれを遮るようにして喜兵衛が岸へと促した。


「じゃあ、旦那。お達者でぃ」

「喜兵衛!」


 善次郎を岸へと降ろすやいなや、手を振ってそのまま離れていこうとする喜兵衛を咄嗟に呼び止めた。


「何ですかい?」

「ああ、お前も」


 一緒に行かないか、と言いかけて口を噤む。

 喜兵衛はこんなところでずっと独りでいて寂しいのではないかと思っていた。

 けれど、けれどそれは善次郎の一方的な推測でしかない。

 喜兵衛は先ほど言っていたではないか。

 心残り、と。


「お前も、お前も達者でな」


 善次郎の言葉に、喜兵衛は嬉しそうににっと笑んで頷いた。

 次第に遠ざかっていく喜兵衛の後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと思う。

 喜兵衛は、もしかしたら待っているのかもしれない。

 彼の、奥方を。

 どちらにしろ、推測の域を出ないことではあるのだが。



 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。

 波の音も、櫓の音も、もう、遠い。



 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。


 あの世とこの世の狭間にあるという、広い広い大きな河。

 一隻の小さな船が、今日も、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。


 ざぶん、ざぶん。

 ギィ、ギィ。




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― 新着の感想 ―
[一言] 小舟に乗った男二人のやり取りが目に浮かぶようで、とても雰囲気がいい作品でした。善次郎は結局死んでしまうのですね。個人的には生き返ってもらいたかったのですが。
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