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豊臣家(7) 里見家

ほとんどが「秀吉の遺言シリーズ」の 『羽柴安房侍従「秀吉の遺言」外伝』に登場し、本編ではあまり出て来ない者達です。

○里見家


里見義康……当主。秀吉の小田原城攻めで遅参し六十二万石から四万石にまで減封され

  ていたが、秀吉は義康の才を認めていて羽柴性を与え、一粒種・秀頼の陰の守役を

  頼んだ。義康はそれを意気に感じ豊臣家のために働こうと決意していたのであるが

  一族を質に取られ関ヶ原の戦では東軍・徳川方に与し宇都宮城の守将を務めた。そ

  の後、秀頼が徳川に対決する姿勢を打ち出すと、力を蓄えて徳川方勢力圏の関東で

  唯一豊臣方を旗を上げる。怒涛の勢いで安房、上総、常陸の一部、下総の一部を勢

  力下におさめることに成功し大大名となった。豊臣家と徳川家の和睦後は、秀頼の

  命で常陸の所領は召し上げられたが、下総全域を新たに賜る。豊臣政権の宿老。


里見藤康……義康の嫡男。幼名、梅鶴丸。一六一〇年五月、大阪城にて秀頼を烏帽子親

  として七歳で元服。名前の藤の字は秀吉のかつての名前・藤吉郎から授けられた。

  同年、下総小見川城攻めで初陣を果たす。一六一二年には佐貫城主となる。


板倉昌察……里見家が徳川大名時代、秀頼が徳川に対して対決姿勢を鮮明にした際に義

  康は筆頭家老であった昌察を追放したと偽り大阪に送った。豊臣家の直臣と見せか

  けて、伏見・向島守将を務める。里見家が豊臣の旗を上げた際に、里見家の者であ

  るという事を表明。豊臣家と徳川家の和睦は里見家の本領に戻る。現在、宿老。


堀江頼忠……内政に長じるが、矢作城攻めでは活躍し戦の才能もある。鳥居成次と仲が

  良い。板倉昌察の居城・館山城を昌察が留守の間、城代を務めた。その後、一六一

  二年久留里城主となる。家老。

  矢作城攻めでは徳川大名・水野勝成の将・都築忠兵衛を討ち取る。


大塚賢介……里見忍頭領。勝浦城城主。家老。


鳥居成次……豊臣方が伏見城を攻めた時の伏見城守将。激し戦を展開したが伏見城を豊

  臣方に取られる。それを家康に咎められ蟄居を言い渡されるが、徳川家を出奔し里

  見家に仕える。武勇に優れ里見家の兵の鍛錬などを担当する。酒は好きだが弱く、

  すぐに酔って寝てしまう。里見家が常陸の一部にまで所領を広げた際は、常陸領組

  頭及び中根城主を務める。その後、一六一二年、常陸領中根・金上両城の二城を持

  つ。家老。


竜崎弥七郎……百首水軍頭領。徳川家康は大型船の取り壊しを諸国に命じたが、豊臣秀

  吉から里見家へ下賜された鉄甲船を義康の命で秘匿する。その後新たに鉄甲船を建

  造する。豊臣家から水軍の修行に来ていた来島長親と仲が良い。湊奉行。


地引内匠助……里見家が徳川大名の頃は常陸国鹿島三万石飛領地の代官を務める。豊臣

  家に帰参した後は安房に戻る。代官として赴任している間に里見家の臣となった鳥

  居成次を嫌っていたが、打ち解けて仲が良くなった。徳川譜代大名・本多忠勝とも

  敵でありながら認め合っている。本多忠勝から信長由来の刀を譲り受けるが「忠勝

  刀」と命名し家宝としている。大多喜城主、家老。


印東采女佑……古参家臣。家老。一六一二年、目立った働きがないと蟄居させられる。


印東河内守……古参家臣。矢作城攻めに参加。岡本城代。


印東主膳……古参家臣。豊臣家と徳川家が和睦する前は常陸那珂湊代官、鳥居成次の寄

  騎。


土岐義成……里見氏が滅ぼした土岐氏の末裔。義康が頒図を広げ将を求めている時に召

  し抱えられる。常陸領金上城代、鳥居成次の寄騎を務める。

  一六〇九年、土岐家家老の土岐定義が義成の留守に里見家に反旗を翻し、鳥居成

  次に成敗される。その責を問われ義康に蟄居を言い渡されるも、成次の取りなしで

  お咎めなしとなる。一六一二年、金上城の所領に代わり万喜城の再建を命じられる。


石田新兵衛……古参家臣。地引内匠助から銚子代官職を引き継ぐ。


山川豊前守……古参家臣。大網城代。


千葉重胤……かつて房州に勢力を誇った千葉氏の当主。里見家にその座を奪われ落ちぶ

  れていたが、里谷九助に見出され鳥居成次に推挙される。成次の仲介により里見家

  の直参となる。常陸領多良崎城代を務めた。徳川頼宜の御付家老・水野重好に攻め

  られるが守りきり、功を認められ城主に昇格する。鳥居成次の寄騎。


勝長門守行遠……古参家臣。矢作城攻めに参加。一六一二年、義康の嫡男・藤康が佐貫

  城を与えられた際に、藤康の御付家老となる。


細野彦兵衛率……古参家臣。矢作城攻めに参加。その功により一六一二年、真里谷城代

  となる。


御子神大蔵丞……古参家臣。矢作城攻めに参加。一六一二年、下総・守山城代。


竹田権兵衛……古参家臣。矢作城攻めに参加。一六一二年、須賀山城代となる。


黒川権右衛門……古参家臣。矢作城攻めに参加。板倉昌察領となった小見川城の城代を

  務める。


薦野頼俊……義康の従兄弟。義康の父・義頼の兄・義弘の子で薦野時盛の養子。一六一

  二年の里見家大評定後、謀反を企てている。明星山城城主。


正木頼忠……古参家臣だが一時期、里見家を離れ北条家に与した。秀吉の北条征伐後に

  里見家に帰参。鳥居成次ら新参の者が功を上げるのを妬んでいる。薦野頼俊の誘い

  に乗り謀反する事を決意した。滝田城城主。


長田義房……里見一門の出。里見義豊の年の離れた弟。古参家臣と新参家臣の確執をう

  れいている。薦野頼俊の謀反の企みに誘われ表面上は、その謀反に加担する姿勢を

  見せている。実際は義康に企みを伝えるなど、謀反する気はない。稲村城城主。


楠市兵衛……長田義房の寄騎。義康を崇拝している。寄親の長田義房と共に見せかけで

  薦野頼俊の謀反に加わっている。


上野源八……薦野頼俊の寄騎。薦野頼俊の謀反に加わる。


角田丹右衛門……薦野頼俊の寄騎。薦野頼俊の謀反に加わる。


角田九朗五郎……不寝見川一帯の代官。薦野頼俊らの謀反軍に屋敷としていた不寝見川

  砦を取られた。




○鳥居家家臣(義康陪臣)


伊藤刑部長安……二代目。初代・伊藤刑部長安は奥州浪人であった。故事に精通。里屋

  九助に見出され鳥居成次に推挙された。徳川頼宜の御付家老・水野重好が多良崎城

  を攻めた際は、援軍に駆け付ける。

 

中山照守……高麗八条流馬術の使い手。関ヶ原の合戦時は、徳川秀忠に従い上田城攻め

  をし七本槍に数えらた。その後、徳川家を出奔し里屋九助に見出され鳥居成次に推

  挙された。一六一二年、鳥居成次が金上城も治める事になると、金上城の城代に任

  じられた。


長坂宗勝……鳥居成次が徳川家臣で伏見城を守っていた頃から雑兵として成次に仕える

  成次が徳川家を出奔し里見家に仕える時も同行してきた。兵の鍛錬で池引内匠介の

  家臣を昏倒させて、鳥居成次と池引内匠介との確執の火種を作る。池引内匠介とは

  鳥居成次の屋敷で酒を飲み交わし和解する。一六一二年、成次直臣に取り立てられ

  側廻りを務める。


○藤康家臣


臼井忠胤……下総臼井氏末裔。臼井氏は小弓公方・足利義明の庇護を受ける。小弓公方

  滅亡後は兄弟達は流転した。忠胤は弟・良胤と下総に戻り帰農していた。一六一二

  年藤康の御付家老・勝行遠に見出され弟・良胤と共に藤康に仕える。


○大塚家臣


曽谷二郎時頼……家老。多良崎城が攻められた際、援軍として配下六名と共に城に入り

  守将を務める。「はぜる竹」などを用い水野重好の兵を食い止めた。  

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