徳川家(1) 徳川家康、秀忠 一門衆
徳川家康……豊臣秀吉の死去後、豊臣大名を調略した上で、石田三成を煽って大戦に持
ち込み、関ヶ原の戦で勝利する。将軍の職につき、徳川政権を盤石にしようと画策
するが、豊臣秀頼を当主に担ぐ豊臣方勢力に押される。嫡男・秀忠に将軍職を譲っ
た後も、大御所として権力を握るが、一六一六年七月、駿府城で死去。
徳川秀忠……家康の三男。家康より家督と将軍職を継ぐ。関ヶ原の戦では、真田昌幸の
守る上田城に足止めされ遅参し、家康に叱責される。大阪城包囲戦などでも戦果を
上げる事が出来ずに世間では凡庸との評価が定着する。しかし家康の晩年には独自
の家臣を抱えるなど少しづつ将として成長する。家康の葬儀の際に参列した豊臣秀
頼を八王子・龍光寺で攻めるが、その間に江戸城を上杉景勝らに取られてしまう。
豊臣方と争っていくには将不足など力が及ばない事を悟り、和睦する。和睦により
三河、遠江、駿河、伊豆の僅か四カ国に押し込められる形となった。
徳川義直……家康の九男。家康の譜代強化策の一環で、改易された蒲生秀行の治めてい
た陸奥を六十二万石で治める(当時十二歳)。豊臣家との和睦後は所領は豊臣家へ接
収された。
徳川頼宣……家康の十男。一六〇三年、二才にして常陸国水戸二十万石の領主となるも
頼宜は江戸城にいて常陸国の施政は家老達が行う。そのため、里見家は常陸国を虫
食い状に頒図を広げた。豊臣家との和睦後は所領は豊臣家へ接収された。
松平忠輝……家康の六男。川中島十四万石を治めた。御付家老・皆川広照は真田信幸に
降り信濃真田家家臣となった。その後、真田信幸ら豊臣方信濃勢に所領を奪われ家
康の旗本となっていた。家康の死去後は秀忠の旗本。