6
梓視点
泣く、とまず思った。そんなに怖がることもないだろうに、椎名皐月はもう泣きそうだった。それはどう見ても怯え意外のなにものでもなくて、俺は腕をつかんでいた手の力をゆるめる。
逃げるみたいに後ずさった皐月は、もう少し間を開けたら駆けだすんじゃないかと思った。だから、何か言おうと言葉を探す。
「皐月、来ないかと思ってた」
「……お久しぶりです、先生」
落ち着きを取り戻したのか、涙はすっと引いている。少し低めの声は相変わらずだったけれど、その響きは以前よりずっと他人行儀だった。
長かった髪を切ってしまったのか。背の中ほどまであった髪は、今はもう顎のあたりですっきり切りそろえられている。似合ってはいるが、高校生だったときの面影と知らない誰かのような雰囲気が混ざって、どうしてか落ち着かない気分になる。
「お元気そうですね。安心しました」
「安心?」
はい、と大人びた口調で皐月が答える。
ほんの少しほころんだ口元には淡い紅がさしてある。もう社会人なのだから化粧くらいはする。わかっているはずなのに、身体のどこかがざわつく。
それでも半年前のように悪戯っ気のある笑みで皐月は言った。
「先生って無精だから、いつか干からびるんじゃないかって思ってたので。絵を描くときばっかりかっこよくて、これで生きてけるのかなって」
「あいにく元気だよ。そっちこそ順調そうだな」
「はい」
沈黙が降りる。どうして言葉が続かない。何かあるはずなのに。
「――絵、見ていくか」
「いいんですか……」
見開いた眼がこれでもかと大きくなる。怖いくらいに黒い。そういえばこの目は好ましいとあのころから思ってたな。自分の目がこうだったら、と少し羨ましかったかもしれない。
「俺が誘った個展だろう? 見て行けよ、絵なんて見てもつまんないだろうけど」
「そんなことないです」
そういうとこだけ、返事が早い。
外から見るつもりだったからチケットを持っていないという皐月に、なんだか呆れてしまった。ほんとうに会うつもりは微塵もなくて、知らないふりをしてこの先も過ごしていくつもりだったのか、と。
そんなきっかけを作ったのは自分だったけれど、めちゃくちゃに責めてやりたい気分だった。お前、そんなのでいいのかって。
客の少なくなったギャラリーは意外にもしんと静まり返っている。
普段は居心地のいいはずの静寂も、二人分の靴音が響くたび寒いものに感じた。こんなに怖いと思ったことはない。
見せたい絵は――たった一枚だったのかもしれない。だから他は通り過ぎて、真っ直ぐ奥へと向かった。
皐月の息を止める音がやけに近くで聞こえたような気がする。
しばらく、何も聞こえない時間があった。
「皐月……?」
辛抱がきかなくなったのは俺の方で、そっと低い位置にある顔を覗き込む。そこにはただただ苦しいほどの激情があって、俺は何かに触れてしまった気がした。
「今日、本当に会うつもりなんかなかったんです……」
知っている事実を繰り返す皐月は、今度こそ泣いていた。大粒の涙がぼろぼろこぼれる。あの別れの日のような綺麗な泣き方じゃなく、そこには我慢の効かない子どものようなところがあった。
「通りかかったスタッフの人に、先生はまだいるのかってちゃんと聞いたんですよ。そうしたらもう帰ったはずだって言うから、だから中を覗いてたんです。直接でも窓からでも、梓先生のことを見たらもう終わりだと思ってた。あんな手紙が届いたから――!」
激情は抑えられない。何かに突き動かされるように、皐月は俺の顔を睨みつける。初めて見る表情、今日だけで知らない皐月に何度も会っている。きっとあの頃には必死に抑えつけていたものが、二年経って暴かれる。
「あの返事を出すのに、私は二週間もかけました。何を書いたらいいかまるでわからなかったんです。どうしてあんな手紙よこしたんですか? あの冬、私がどんな気持ちであんなことを言ったのか、先生はわかってくれてると思ってたのに!!」
苦しげに顔をゆがめた皐月は、ガツッと俺のあばらのあたりを殴った。
「先生はずるい。最低です。あのままでいいって私は思ってたのに、思い出にもさせてくれないんですか。どうして私がこんなに苦しまなくちゃいけないんですか!」
二年も経って、と俺は思っていた。けれどよく考えれば、二年しか経っていなかったのだ。皐月にとっては昨日のことのように鮮明なんだろう。俺にとっては遠いことのようでも。じりじりと焦りが募っていても。皐月は痛みを癒している最中だった。忘れようとしてたのか? 俺を?
そんなの――許せると思うのか。
「たしかに俺が先に逃げたよ。でもお前も逃げたろ。迷惑掛けたくないってそんなこと思いながら、お前は大人のふりして背を向けた。違うか? 物わかりのいいふりして気遣って」
辛辣な言葉は止まらない。俺は何に腹を立ててるんだ。
「忘れさせてくれないのはお前の方だ。あんな絵描かせておいて、俺ひとりを放ってお前は楽になろうとしたんだ」
「自分勝手だよ、そんなの。あんな絵を描いたのは先生でしょ……あんな、絵」
涙につまった皐月の声は、もう言葉にならなかった。
俺を殴りつけた手は今度、自分の体を守りようにしている。小さくまるまってその場にうずくまった皐月は、初めて美術室で絵を描いたときのようだった。頼りない小さな子どものように、俺がそうさせている。
「こんなことを言うつもりじゃないんだ――」
「じゃあ何なんです、もう訳わかんない……」
痛い。何がってそんなことは知らない。自分でも気付かない器官が脈打っている。血流は熱く、なのに指先は冷たい。目眩がする。足元はおぼつかない。
「先生、何なんですか」
責めるなよ、皐月。
「俺が好きなんだよ。お前が俺を好きなんじゃなくて、俺がお前を好きなんだ」
からまった糸みたいな言葉だ。偏屈ってそういうことか。簡単なこともそう言えないし。俺の方がずっとガキみたいだ。皐月が怒るのも無理ないんだってことに、ようやく気付く余裕が出来た。
なのにお前、まだ泣くのか。
「悪ふざけですか」
「そんなこと言うわけないだろ――わかれよ」
偉そうに、と皐月が呟く。お前、本当に怒ってるんだな。
ああ、なんだか可笑しい。
そう言えばお前が告白してきたときも、お前はひとりだけさっぱりした顔をしてた。そういうもんか。こういうのは言う方が楽なのか。
じじいの言葉がいちいち当たっててむかつく。やっぱり年寄りは嫌いだ。
「…………先生、本当に私が好きなんですか」
「うん」
「変な同情だったり、勘違いだったりは?」
「そうとう疑り深いよな、お前」
誰のせいだって言いたいんだろ? いいよ、全部俺のせいだ。
だからもういい加減にさ。
「笑って」
思うよりもずっと早く口走っていた。いつかも同じことを言った気がする。
でもそのときより心から、そう思う。
「何でですか」
仏頂面の皐月、答えはわかってるだろ。
「笑った方が美人に描けるから」
面食らったような皐月は何もかも全部抜けていくような、そんな溜め息をひとつした。
うずくまった恰好のまま、疲れたように呟く。
「私、しばらく先生には会いません。頭の中ごちゃごちゃなんです」
「そうか」
「だから整理がついたら――次に会うときには、私にもう一度好きだって言ってください」
そうしたら、と皐月は続ける。
「あなたに好きだってもう一度言いますから」
女ってややこしくて小生意気だな。
気ばっかり強くて面倒くさい。
でもそういうところが愛おしいから、仕方がない。
絵を描きながら、待とう。
今度こそ、笑顔の隣にずっといたいから。