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May  作者: 青生翅
6/8

梓視点

「井上先生、盛況じゃないですか!」

「ありがとうございます」


 懇意にしている画商はまだ若く、先日親の後を継いだばかりだと言う。俺の絵のファンだと学生時代から長い間つきまとわれ、とうとう個展まで開く羽目になった。

 でも今は、わりと感謝しているかもしれない。


「はじまったときはどうなることかと思っていたんですが……」

「何言ってるんです。若手の中でも独特の世界観を持ってるって、雑誌でも取り上げら

たじゃないですか。あれでけっこう若い女の子も入ってんですよ。どうします? もてもてですよ、もてもて!」


 お調子者は十八番なのだ、と諦めている。俺よりずっと嬉しそうなのだから不思議だ。ファンとは変な生き物だ。この画商――青山を見てると特にそう思う。


「青山くん、井上くんは普段から人気があるタイプだろう? 君と違って」


 美大時代の恩師は笑う。古風な三つ揃いのオーダースーツに、これまた古風な杖。厭味ったらしい格好だ。こういうところも苦手だ。いつの間にか誰かが招待を出したらしい。まったく、ありがた迷惑な働き者もいたものだと恨みがましく思える。


「そりゃあ僕は女性にとってはたいして魅力がある方じゃありませんけどね。でも井上先生が妙に色気あるだけですよ、年不相応の」

「そんなものないですよ」


 遠くから青山が呼ばれる。どこぞの画家先生が到着したんだろう。俺も行かなきゃいけないかと思ったが、まあまあ、と青山が首を振った。


「井上先生のことは後から呼びますって。それまでもっと浸ってたらどうです? 初の個展なんですよー! もっと感動してくださいって」


 そうしますよ、と笑っておく。正直なところ開始早々で疲れた。妙なところに気を張っているからか、頭も痛い。あの手紙はとんだ大失敗だったかもしれない。


「井上くん、君は変わったな」

「……はい?」


 唐突に何を言い出すんだじじい。

 俺の心でも読んだのか、年寄りは人の悪い笑みを浮かべる。嫌だ。だから嫌いだ。じじいは何でもないように歩き出した。会場の奥へと俺を誘う。

 そして立ち止まって遠く目をやったのは、忘れようとつとめて出来なかった、一枚の絵だった。


「あの絵だよ。奥のど真ん中。一番新しい絵なんだろう? あれだけ君らしくない」

「たしかに最近のものですけど。俺らしくないですか」


 本当はわかってる。俺が描いたものなんだから、わからないはずがない。

 ――瑞々しく透き通るような少女は、あの日の顔で絵の中にいる。涙ぐんだまま、別れを告げた笑顔。少女が背伸びした瞬間、女の顔をしたその刹那。切り取って閉じ込めたそれは、いっそ憎らしいほどに美しいから。


 燃やしてやろうかとも思ったというのに。

 描き始めのころから自分の絵じゃないようだった。色使いもタッチも、彼女のためだけに、そう決意したような一枚。二年越しの作品だ。

 変わってしまったと思う。あの出会い、最後の日から。別な絵を描こうとしても、もう以前の俺の絵にはならないだろうという予感がある。もう戻れない。切なさと諦め。


「嫌ですよね、俺自身は了解したわけじゃない。なのに絵筆にはそうなるんですよ。誰の許可を得てるんだって話です」

「ははっ、君の偏屈は相変わらずか」


 なんだよ、それ。この老人はとにかく腹立たしい。相手が若造と思うとすぐこれだ。


「君には初体験なのかな。そういうのは恋に似ているよ」

「はあ?」


 ついに耄碌したか。

 恋っていうのはあの恋か。というより、六十や七十になって恋ってどうなんだ。


「井上くんは学生のときからそうだったな。君に張り付く彼女たちをよく見かけたものだが、君にその想いの半分もあるとは思えなかった。君から惹かれてアプローチをして交際した経験などないんだろう? ならこれが初恋のようなもんだ。初恋っていうのは片想いが多くてね。届かない想いは特に自分を変える――あの絵の娘さんが好きなのかい?」

「……あれは教え子ですよ。十も離れた」

「関係ないだろう。私の初恋は中学のときの担任だった。女らしくおとなしい、理想の女性だったんだよ。私が卒業するのと同時に結婚して教職は辞めてしまわれたがね。同級会があるたび、幸せそうに老いていく姿を見るのが好きだった。私もじいさんになったが、先生も可愛らしい老女になったいたもんだよ」


 それとは逆だろうに。

 老いて先にじじいになるのは俺の方だ。間違っても可愛げのある老人になることはないだろうし、老いた俺を見るのが好きだなんて言われるものか。何よりこの先、会うことがあるかどうかも怪しい。


 あの手紙は他ならぬ拒絶だったんじゃないのか、と今になって思う。俺は「会えるか」と訊いたつもりだった。でも返事は「会わない」ということだ。あの少女の中ではもう、終わってしまった思い出でしかない。

 ――会ったとして、俺は何を言う気だったんだ。


 ああ、嫌だ。

 他人に変えられるなんて耐えられない。気持ちが悪い。俺の中にあいつの顔。声や仕草。忘れさせてくれといっそ叫びたい。こんな衝動、俺じゃない。俺であるはずがない。


「画家は感情を溜めて溜めて、溜めきれずに出たものが絵になるんだそうだよ。その初恋の先生は美術教師でね。彼女がそう言っていた。いまでも美術教師と聞くとはっとするよ。おお、君もそうだったな」

「もう辞めましたよ」


 ほぉ、と恩師が目を見開く。なんだ、そんなに意外なのか。


 絵だけにしろ、とこの老人も他の人間と違わずそう言ってきたはずじゃないのか。俺が卒業し、大学とは縁を切ってもなお教授連中やや同級生たち、知り合いの画家や画商はそう言う。お前は器用じゃない。絵だけがお前じゃないか。そんな風に小うるさく。


 まあだからというわけじゃないが、昨年いっぱいで教職は辞めた。幸いにも食っていけるだけの収入を絵で得られるようになってきた。調子がいいのが玉に瑕とはいえ青山は若くしてやり手だし、こうしてかつての恩師たちが支えてくれるからこそだというのは理解している。これでも。


 そんな少しばかり殊勝な考えを吹き飛ばすように、好々爺とした顔をこれでもかと崩して恩師は続ける。


「教員免許を取って本当に君が教師になったとき、他の教授たちと笑ったものだ。あの鬼才も何かに迷うことはあるらしい、と」


 俺が何に迷ったって言うんだ。ただ――なんとなく、選んだ道でしかないのに。


「ただな、心配だったがもしかしたらという想いもあったんだよ。君は芸術家にありがちな人間嫌いで、そのくせどうでもいい人間に適度な愛想をふる。どうせ教員になってからも、囲んでくる女子生徒には張り付けた笑顔で応対していたんだろう? 君の本質を知らない娘さんらは、こんな不機嫌そうな“井上先生”を知ったら度肝を抜く。そんな風にまた、誰もかれもを遠ざけて、冷たく凍った美しい絵を描いていくのか――それとも」


 あれのような、と老人はその杖の先で少女の絵を指す。


「他人への愛しさを知るだろうか、とね。これは賭けだと私は思っていた。画家としては心が凍っていてもいい。その方が好きだという者もいるだろう。だがね、人間としての君は今の方がずっといい。表情が素直になったよ。不機嫌丸出し、けっこうじゃないか。学生時代は無表情ばかりで笑った顔も怒った顔も見たことがないからな」


 何かに猛烈に腹が立つ。好き勝手に言いやがって。愛しいとか、賭けとか、素直とか。俺はお前のおもちゃじゃないんだぞ。勝手に他人で遊びやがって。俺が今、どんな気持ちで待っているのかも知らないのに。


 ――そう、待っている。

 事実として感情はある。俺自身どんなつもりかは知らない。それでもただ、会いたい。会った瞬間に何を言うかなんて知らない、それでも焦燥感が募るのだ。

 会わなくてはいけない。

 なのに――お前は来ない。 


「好きになったのは君の方だ、そうだろう?」


 狸がうるさい。こんなに意地の悪いじじいだったか? おもちゃをからかって楽しいか。

 にやけた顔が鬱陶しくて、俺はもうどうにでもなれと思った。


「そうですよ、俺が好きになったんです」


 そうかそうか、と嬉しそうに。恩師なんてだから嫌いだ。ついでに祖父の友人だなんて面倒な関係性が付属するのはなおいただけない。他人の孫を自分の孫のように扱おうとする。いい年なんだ、この嫌がらせは相手が死ぬまで続くんだろう。本当にうんざりする。


「もういいでしょう。偉い人に挨拶してきますから、先生もいい加減に迎えでも呼んだらどうです?」

「井上くん、君は私への扱いが雑じゃないかな」

「どうせお暇なんでしょうけど、いちいち相手してられません。からかわれるのはごめんです」


 じゃあな、じじい。

 それでも恩師は笑っているから、老いると人はどんどんわからない生き物になるらしい。



 もしも俺があんな老人になったころ、彼女に会うことがあったら――。

 あんな笑い方が出来るだろうか。同じように年月を重ねる彼女を、可愛いと思えるのか。




**********




 ギャラリーを出る間際までひとに囲まれて、もうすっかり疲れた。そういえば頭痛がしていたのだ。寝不足もある。熱いシャワーを浴びて、すぐに寝たい。

 なんにも考えずに今日を終えて、そして明日からも絵を描く。変わってしまった俺の絵。もう諦めをつけて、変わった絵と歩んで行く。そういう変化を怖がるのは、もうやめだ。


 閉館時間の迫ったギャラリーはだんだんひとも少なくなり、主人がいなくても平気そうだ。だいたい俺の顔を知っているのは業界人くらいで、一般にはあまり知られてない。雑誌に写真は掲載しなかったし、人前に出る趣味もないから。

 

 外はもうすぐ雨が降るようだった。そういえばもう梅雨の時期が近づくのだ、と思い至る。

 ――誕生日が来るんだったな、お前は。もう二十一か。早いな。この二年が長かったように感じていたのに、そうか、もう大人の年齢なのか。

 それなのに、無理矢理に思い出させるようなことをして悪かった。お前にとっては高校時代のほんのちいさな想いの欠片を掘り返すような、あんな手紙を送るべきじゃなかったのかもしれない。

 だからあんな絵、見なくたっていいんだ。


 ギャラリーを振り返る。窓ガラス越し、数人の客が見える。ギャラリーの外にも、ガラスから中を覗く奴がひとり。中に入ればいいだろ、そんなとこにいないで。いつまで立ってるつもりで――――気付くと、手足が勝手に動いていた。


 なんだ、呼吸が上手く出来ない。

 伸ばした先で掴んだ細い腕は、びくりと一瞬跳ねた。

 そしてふっと振り向く、その顔。忘れようのない顔。


「……皐月」


 かすれた自分の声が震えたようで、無償に心がささくれだった。




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