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梓視点
拝啓、井上梓さま
梓先生、お元気ですか。
卒業から二年、時間はあっという間ですね。私は仕事の方にも慣れて、やりがいを感じています。須賀さんご夫婦も息子の文也くんも優しくていい人たちです。常連さんが増えるたびに嬉しくなります。ときどきナンパもされるんですよ。ほんの少しは妬いてくれますか?
先日は手紙をありがとうございました。封筒に便箋って、梓先生らしいなあって懐かしくなりました。先生、携帯電話とかきっと苦手なんでしょう?
知らせてくださった個展、驚いたし、嬉しかった。大勢の人が見るんですよね、なんだか恥ずかしいような気もします。だって私の顔だし、先生は先生の目で見たありのままを描くから。楽しみだけど、怖いです。
でも、絶対行きますから。先生に見つからないようにこっそり。
私は毎日元気です。先生もそうでありますように。
椎名皐月
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悩みに悩んだあげく、椎名皐月に手紙を出した。
自分がこんなことで悩む日がくるなんて、全く思ってもみなかったのに。
誰にでも忘れられないことはある。そんな何かに決着をつけるための手紙だったはずが、上手にかわされた気がしてならない。
学生時代の椎名皐月も、俺の予想よりずっと大人びていたことを思い出した。もちろん十代なんてまだまだ子供で拙いけれど、一生懸命に背伸びしようとしていたそれが、愛おしいことだってある。
俺は俺の気持ちを知らない。
椎名皐月の告白に戸惑ったことも、返事は出来ないと思ったことも。
好きかと訊かれたら――それは好きだったろう。儚さと芯の強さ、両方を持っているからバランスが悪い少女。悲しさや不安を上手く処理できなかった、不器用な奴。
でもそれが恋愛感情かとなると、わからない。教師と生徒なんていう問題以上に、自分の心はどこに向いているのか。何なら愛せるのか。
はじめこそただの好奇心だった。
気の毒な家庭事情だとか、他の教師たちが思うような留年の心配だとか。そんなのは本人にしかわからない苦しみや悔しさだし、俺は他人というものに関心が極端に薄いし。
椎名皐月という名前に惹かれた。
完成された名前。響きの美しすぎる名前。
母親が急逝し、本人もショックのあまり死にかけたのだと。名簿と噂だけで知っていた名前だった。美術を取っていなかった彼女との接点はなく、顔も知らない女子生徒。
ただその名前だけは、俺の心に何かを訴えた。いかにも名前負けして貧相な見た目になっていそうな、でなければ何の面白味もない性格になりそうな。
そう、俺は本人に会ってがっかりするだろうと思っていた。だから気軽に声がかけられた。自分の興味のためだけに。
それを後悔したのは、やはりあの最後の日だったんだろうけれど、どうにもならないことだ。
自分でもあきれるくらい能天気な声で椎名皐月を呼びとめたとき、その理由だけはしっかり言える。あまりにひどい顔だった。白い滑らかな肌はいまにも透けて消えてしまいそうで、ふらふらと軸のない歩き方をする女子高生。だるそうな学生なんて山ほどいたけれど、あんな幽霊みたいなやつを俺は知らなかった。
なのに――。
『やだ!』
人部を描かない俺が冗談半分で誘った絵のモデル。あんなにはっきり拒絶できる奴だとは思ってなかった。目の前にいることの方が不思議だった希薄な彼女が、急に実体を持って現れたようだった。
馬鹿だなって。俺は馬鹿だと、本気で思った。
椎名皐月のことを、俺はどんな風にする気だったのか。可哀そうで不幸に浸り続ける、そんな奴だと思っていたんだろうか。失礼だな。ほんとに最低だ。
いつだか言っていた。死にかけて発見され、どうしようもなく自分が生きていることを実感したと。悲しくて悔しい。そんな気持ちを味わったと。
それから彼女はやっと生き始めたのに、俺はそれを知らないことを何とも思っちゃいなかった。顔も知らない少女は、そのころから必死に立ち直ろうとしていたのに。
彼女はよく「梓先生のおかげ」と言っていた。でも違う。鮮やかに笑うようになったことも、ふと目が離せないような雰囲気を出すようになったことも、彼女自身が時間をかけてゆっくり成し遂げたのだ。
俺は何一つしてやれなかった。
なけなしの勇気に返事をしてやることすら、自分が逃げることに必死で、出来なかった。
自分の情けなさを充分に感じつつ、それでもあの時は逃げ切れたと思った。
今も生々しいまでに蘇る笑顔を残して、美術室から去ったあいつ。冬休みを挟んで合わない時間が出来て、そのまま卒業へ。式は終わってざわめく人ごみの中を、真っ直ぐに背を伸ばして一人そこを切り開いていくような後ろ姿を見送った。……それが最後。
そのままゆっくりと時間が流れるにつれ、忘れるものだと思っていた。これまでに見送ってきた何人もの生徒――関わってきた人々と同じように、そのうち姿も名前も朧になって消えていくものだと。
それが何故、どうして。
二年経った今でも、心の奥底に溜まった澱のように、あいつは居る。居続けている。
ふとした瞬間に思い返してしまう。何度も反芻する。あいつの言葉、表情、しぐさ、その香りまで。
昔から、絵筆を握り始めると絵のことしか考えられなくなった。絵の中の世界に溺れるように浸って抜け出せない。怖いほどの集中力。
それと同じことが、何でもない瞬間に沸き起こるようになった。あいつのこと。あいつばかりを考える時間。
腹立たしいまでの鮮明な記憶が、どこからか想像になって、くだらない妄想になって、後悔になって、俺の中をかき回す。
その不快さからは逃れられなかった。二年前に振り切ったはずが、本当はどうしようもなく囚われていた。
それでも、俺は自分の気持ちがわからない。
執着しているのは認める。ただ流れる景色のように見送ってた他の生徒たちとは違う、俺の中で椎名皐月は特別だった。
けれどそれはどんな感情だ。あの日、好きだと言われたときの戸惑いも嘘じゃない。困ったと思った。受け入れられないと思った。それは何故か。そのくせ忘れられない、忘れられたくないと思うのは何故か。
もしやり残した何かがあるなら。
あのときには戻れない。そんなことは重々承知している。
だがこのまま、目の前に居ない者に煩わされ続けるなんて御免だった。頭の中で描くあいつが俺にとって都合よく美化されていくかもしれないというのも、恐怖だった。美しいばかりの記憶などいらない。ありのままのあいつでなければ。
だから手紙を書いた。そして俺にとっては初になる個展の開催を報せた。
あのとき見せられなかった絵を見せるから――と。