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決死の大告白、というにはあまりにもあっさりした私の「好き」に、先生は同じく「好き」と返した。
……けれどわかってる。わからないはずがない。
言葉って腹立つほど便利。私と先生の「好き」は、同じ響きでも意味は違う。よく言うように、LOVEとLIKEの違いとでも言うやつ。
――それでもいいや、と思ってる。
ただ、好きだってことを、知っていてほしかった。
毎年学校には二百人以上の新入生が入ってきて、学校全体なら七百人近い生徒数が居る。卒業したら私のことなんてすぐに忘れてしまうのがわかってるから、少しでも何かの印象を残したかった。足掻くように、少しでも長く、私のことを覚えて居て欲しかった。
だからこそ決めたこともある。いつまでもぬるい幸せにひたっていたい気持ちと闘って。
絵のモデルは、続けている。
普通なら気まずくなって足を運ばなくなっていく、っていうパターンかもしれないけど、私から毎日の美術室通いをなくしたら、なんとなくしぼんでしまう気がした。それじゃダメだなって、今ならわかるし努力も出来るけど。
最近、私は笑っている。なんだか頬が自然に緩むし、違和感もない。
でも。
梓先生は、私との距離を開けた。
告白に対しての答えは、こういう形で表わされてるのかな。
気軽に「皐月」と呼ばなくなった先生は、会ったときより余所余所しい。絵を描いているときも、考え込むようになった。目が合うと、困ったような顔で笑うようになった。それが他人行儀で、先生自身がそうしようって思ってるのがわかって――。
些細な変化が、恋心を自覚したときよりも苦しい。
いつもどおりにしてなんて、言えないことはわかってる。
でも、こうなるくらいだったら、と後悔にも似た思いもあった。そんな風に感じたくないのにな。好きだってこと、嫌な記憶なんかにしたくないのに。
十二月も終わりに近づいて、明日から冬休みに入る。休み中に絵は完成するんだそうだ。そうじゃなくても、しばらく先生には会えない。
美術室の外の景色は、日が短くなって空がどんどん紺色に染まっていく。
モデルをするようになってから、私はまるで空模様観察が趣味のようだった。
今夜は星が綺麗だ。その程度のことならわかる。
私は顔を先生の方に向けた。
キャンバスを見ていた先生が、私の目線に気づく。
「どうした?」
「ううん。別に」
本当に、用なんかない。
ただ見ていたい。本当はずっと、ずっと見ていたい。
「そっか」
これ、先生の口癖だ。
私はこのフレーズがけっこう好き。なんでもないように人の心に触れられる梓先生の優しさが、にじみ出ているような言葉だから。
「そうだよ」
自分の顔がほころぶのがわかる。
それでいいよ。
聞こえないけど、先生にそう言う。
先生にどうしてほしいとかないもの。このままいられれば、私はいい。
「椎名、そういえば」
「んー」
体育座りの膝に顎を乗せて、私は首をかしげた。
そういえば、というセリフは珍しい。いつも口に出す言葉を、初めから用意しているような人だから。
「就職、決まったんだって?」
「うん。安心したでしょ」
一応は進学校の端くれな学校だから、私は少数派の一人。梓先生が密かに心配してくれてたことくらいは知ってた。
母の幼馴染だという須賀さんという男性が経営するカフェは、このご時世だけどけっこうお姉さんたちやカップルたちが集う、繁盛している店だ。昼間はランチとデザートがメイン、夜にはやわらかい雰囲気のダイニング・バーに変わる。
須賀さんは母の葬式のとき、私のことをとても案じてくれた。そのときから将来のことも気にしてくれていたけれど、ついには二ヶ月前、こんなことを言ってくれたのだ。
『よかったら、ウチで住み込みで働かないかな』
私が進学しないことを、どこかで聞いたのだろう。
就職先を探しているのだったら、今の一人きりのアパートを出て、須賀さんの家へ来ないかと。
須賀さんは気のいいひとで、七つ年上の奥さんと小学六年生の息子さんがいる。
好意に甘えるわけにはいかないと一度は断ったが、次の日には、奥さんと息子さんも一緒に連れて話しにきた。
私のことは、母が死んだときから、家族で話し合ってきたのだという。
母と物心ついたころからの幼馴染で、私が小さいときには抱っこもしてくれたという須賀さんは、真摯な目で言ってくれた。
『皐月ちゃんのお母さんとは、兄妹みたいに一緒だった。本当の家族同然に、大事な人だったんだよ。今は離れて暮らしてる僕の両親もね、皐月ちゃんのお母さんのことを覚えてる。君のことを話したら、両親も賛成してくれた。ぜひうちに来てもらえって。あくまで、皐月ちゃんがよかったらの話だけど、考えてみてくれないかな』
先生と出会ってからの私は、ほんの少しだけ素直になった。だからかもしれないけど、無意識のうちに言ってしまったんだ。「よろしくおねがいします」って。
でもほっとした須賀さん家族を見ていたら、なんだか無性に甘えたくなってしまった。たった一人きりで生きるのは寂しい。寂しいことをようやく自覚できた私は、それまでより強く生きられるような気がしたから。
「おめでとうって言ってください」
「では改めて――」
先生はそう言うと、カタリと絵筆を置いた。
暗いグレーの瞳が優しく緩んで、私の好きな本当にささやかな笑顔が浮かぶ。
「――おめでとう、椎名。よく頑張ったな」
あまり感情の乗らない、どこか冷たく聞こえる声。
でも知ってるよ。心からの言葉だよね、先生。わかるよ。優しさが伝わるから。あったかくて少しくすぐったいんだよ。どうしようもなく口元は笑うし、何でか泣きたくなる。
涙ぐんでみっともないけど、決心したことを言うにはふさわしいタイミングのような気がした。
私が私らしく、先生が先生らしく。そう生きられますように。
「ねえ、梓先生」
「ん?」
ああ、ずいぶん前髪が伸びたよね。私の好きなグレーの瞳、少し隠れてて残念。さっぱり切っちゃえばいいんだよ。今日の上着も似合ってなかったな。あんな暗い色を着たらもったいない。まだ若いのに意外とじじっぽいとこある。選んであげたいな。私の着てほしいものを着てくれる好きな人、女の子はみんな夢見るんだよ。
――ねえ、先生。私はあなたのことが好きです。
「休みが明けたら、もう来ないことにする」
梓先生の驚いている顔。目を大きく開いた表情はなんだか幼くって可愛い。もしも梓先生が同級生だったら――高校生の先生、見たかったなあ。
「今日が最後だよ……だから、さよなら」
いつまでも先生を悩ませてなんかいられない。どうせもうすぐ卒業なんだもの。先生はそれでほっとして、私たちはきっと二度と会わない。だったら、今そうなったって同じでしょう?
少しだけ早いお別れ。だから先生、覚えていてください。
笑顔の私を、覚えていてね。