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きっとあの時の私はひどい顔をしていて、だから梓先生は声をかけたんじゃないかなって思ってる。
高校三年生をもう一回。
絶望的って言うよりも、なんだか無感動になってしまっていた。
友人の姿は当然校内には跡形もなく、親しい後輩もいない。
大学受験の年に学校に来られなくなり、出席日数がぎりぎり足りなくて――留年。手を尽くしてもどうにも出来なかった生徒に、教師たちは腫れ物に触るような扱いしかしなかった。そこそこ親しかったはずの担任の先生も別人になったみたいだった。
そうしたらなんだか、ふーっと全部なくなった。
馬鹿馬鹿しい。
どうしてだかそう思った。
話す相手もいない学校にさほど興味も抱けずに、気が向いたときに数時間だけ授業を受けに行く。そういう風になったのは、私の弱さだったのかな。
“自由人”。
そんなあだ名がつけられたことも知ってたけど、どんな感情も湧かなかった。
梓先生に声をかけられてから、なにかが変わったけれど。
数学と世界史。
二時間受けたらなんだか満足して、私はその日も早退を決め込んでいた。
校内に入ったこと自体が四日ぶりだった。人の顔を見ればなんだかさわさわと話す周囲の様子に疲れて、私はすごくうんざりした表情をしていたと思う。
五月の初めだったかな。
三年分の年数でどこか草臥れたブレザーのポケットに両手を突っ込んで、同じようにくたくたになったローファーで地面を蹴っていた。
「ちょっとあのさ。えー、椎名? 椎名でいいんだよな?」
まさに校門から出ようとしていた時。若い部類に入りそうな男性教師が、ゆったりとした足取りで私を追って来ていた。
見覚えがある。その程度の認識しか私にはなくて、その先生を意味もなく睨みつけた。その頃の私は何に対してもどこか攻撃的だった。別に腹が立つこともなかったはずなのに。
「俺、美術科の井上。椎名は一年のときも美術とってないんだよな、たしか」
「そうですね」
「気のない声出すなぁ、お前」
「……何か用なんですか?」
「用と言うか、少し頼みが」
気のない声はどっちだ、という気怠そうな喋り方。あまり声の響かない呟くような喋り方。中低音のそれなりに耳馴染みのいい声のはずなのに、教職に向いてないんじゃないかこの人とか本気で思った。
受け答えが面倒で、私は溜息ばっかりついてたように思う。
でも先生はそんなことは気にせずに、本当に驚くくらいに真面目な顔で、予想外のことを言った。
「絵のモデルしてくれないかな、放課後」
「やだ!」
即答したのにも関わらず梓先生は、私が学校に来るたび、わざわざ帰る頃を追って来て、しつこいくらいにモデルになってくれと言った。
モデルなんて口実で、私にきちんと学校に通わせて真面目に授業を受けさせる。そんなことが目的なんだろうって、私は刺々しい口調で何度も、何度でも断った。
だってそれ以外に、モデルなんて寒い誘い文句の出所がわからなかったから。
『やってみたら楽しいかもよ』
『モノは試しって言うだろ』
『何事も経験だって』
こういう絵描いてるんだって、わざわざ馬鹿でかいキャンバスを抱えて持ってきたこともあった。
校門の前で巨大な板を持っている教師との組み合わせが耐えられなくって、私はとうとう、キャンバスを戻す手伝いがてら美術室に足を踏み入れることになった。
美術室に入ったのは、中学以来だった。
高校一年の時の選択教科は音楽だったし、二年以降は芸術関係と縁がなかった。
だからなのかな。
「懐かしい」
そんな風におもわず呟いてしまった。ふと横を見るとニヤッと口の端を吊りあげた先生が言った。
「美術室の匂いって、いいと思わないか?」
絵の具、木屑、石膏、粘土、シンナー。ごちゃまぜのその匂いがいいものかどうかはわからなかったけれど、妙に落ち着く気がした。
「美術の教師になったのは、学校の美術室で絵が描きたかったからだ」
そんなあきれる本当か嘘かもわからない理由を恥ずかしげもなく言ってしまう梓先生は、ついでとばかりにこう言った。
「せっかくだから、体験だけでもしていくか?」
なに言ってんの。
そういう言葉を吐いた私にまあまあと笑って、先生は隅から引っ張ってきたガタガタ揺れる椅子に私を座らせた。
よれたナイロンの筆箱から、鉛筆を数本取り出す。
「少しは動いてもいいけどそのまま座っててな」
暢気で相変わらず気だるそうな声がそう言って、私は抵抗するのも馬鹿みたいだとぼんやり美術室の外を眺めていた。足を組んで肘をつけて、掌で半分顔を隠すみたいに。
六時間目の授業を受けたために、時刻はいつもより遅い。
控え目な夕日が空をオレンジに染めていて、綺麗だと思った。
空を見ることさえ久し振りだったと思い出して、私はちょっと笑った。
なんでかな。時間はそれこそ腐るほどあったのに、空を見ることはなかったなんて。
私は何に怯えて、なにを求めてたのか。
ちっぽけだなと心の中で誰かが呟いた。
私はちっぽけ。それだけの私。
「椎名……どうした」
その声が、何でもないように、世間話のようにかけられてなかったら。下手に優しすぎたりしたら私はきっとみっともなく泣いてた。
別にって首を振る。
「そうか」
やっぱり何でもないようにそう返ってきて、私は初めて梓先生に感謝した。
紙の上を滑る鉛筆の音が止んで、先生が満足そうに私の名前を――下の名前まで呼んだのは、夕日も沈みかかって、空の上の方が藍色になった頃だった。
「椎名皐月。出来たよ」
ちょいちょい、と小さく梓先生が手招きした。小さい子供を呼ぶようだと思ったけど、不思議と腹は立たなかった。
「どうよ。俺の才能は」
笑いながら冗談めかした口調で先生が言ったけど、私は何も言えなかった。
しかめ面の私が、何かを怖がるみたいに身を小さくしている。私が足を組んで肘をついて、顔をそむけて――そこは変わらないのに、そう見えた。キャンバスの中に黒の線が繊細に形を作って、頼りない私の横顔を描いていた。
「タイトルは『不機嫌な椎名』」
最悪のセンスだよ。
今度は笑ってな、と先生が言った。
絵の中の私は弱々しかった。
これが素直な私なのかな。
毎朝、鏡で見る私の顔は、あんなに仏頂面で人相が悪いのに。誰もかれもを睨みつけて殺そうとするみたいなのに。
泣いた記憶なんてもうずいぶんない。けれど絵の中の私は今にも泣きそうなんだ。
「また来て。俺、皐月だと調子いいから」
――皐月、と。
そう呼ばれた名前が、なんだかくすぐったいものに変わった。