プロローグ
『笑って』
呪文のような言葉は、いつまでも苦く甘く残る――
**********
――――馬鹿なことしてみたい。
ずっとそんな風に思っていて、その時も心のどこかで思っていて。
だから言えたんだ。
「好き」
口から溢れた自分自身の声にぎょっとした。
ホントに馬鹿なこと、言っちゃった。
「……なに?」
いつもは怖いくらいに察しがいいのに、戸惑うように眉をしかめた相手の顔が目に入った。すると何でか力が抜けていった。
ああ、なーんだ。
後戻りできないことを再確認したら、どうやら人間って開き直れるみたい。
けっこう丈夫なんだな、私は。
「先生が、好き」
握っていた缶コーヒーの熱さを、一瞬だけ忘れた。
ジェットコースターに乗った時の、抑えようのない高揚と浮遊感。
恋してるのかも、なんて暢気にも自覚したとき、私はまずそう思った。
遊園地でわりと真っ先に乗ってしまうあのジェットコースター。どんなにちゃちなやつでも、なんでか怖いし、楽しい。あれだ。
ふとした瞬間に思い出す顔が、声が、しぐさがある。
振り払っても振り払っても浮かぶそれは、始め自分の中をぐちゃぐちゃにされているようでひどく気分が悪かった。
だって、自分の中に自分じゃない人がいる。
考えたいことが考えられない代わりに、別に考えなくたっていいことを考えてしまう。
たった一人のことで、頭がいっぱいになる。ううん、溢れかえる。
そんなのって気持ち悪い。
上って下った時の、内臓が裏返しになる感覚に似ていた。
でも。
『なんだ、恋でもしてるのか?』
そんな風に言われて、思わず私は相手を凝視しちゃって。
どうしてここで、このタイミングで、私はこの人を見てんのとか。目が合ってるだけで、どうしてこんなに落ち着かないのとか。
ありきたりな映画やドラマのヒロインが乗り移ったみたいな自分の反応に、なんだか唐突に、すごく簡単に浮かんできたものがあった。
好きなんだ。
私はこの人が、好き。
どうしてだかずっと、私に恋なんか出来ないって思っていたけれど……そうじゃなかった。私はどこまでも普通の、みっともないくらいに相手しか見えなくなるような、そんな恋をした。そんな恋が出来た。
自覚した自分を必死に取り繕って、何でもないように過ごした。
見つめる先にいる相手はきっと気づいていない。
そう思えば、安心と、不安と。
両極端なものがせめぎ合って、どうしようもなく苦しく――甘くなった。
先生――梓先生。
「……好き? 俺のことが?」
「言われるの、初めてじゃないでしょ?」
生徒にモテるの知ってるよ。もちろん大人の女にはもっとモテるだろうな。
その大勢の一人が私って言うのが、なんだか癪だけど。仕方がない。
出来るだけ素っ気なく言ったのは、女としての思いやりとかそんな大層なものじゃなくて、ただこの先に待っている聞きたいけど聞きたくない一言に構えるための、私のちっぽけなプライド。
「本気、なのか」
「うん」
……なんかもっと言えばよかったのかな。
でも、もう無理だ。
渦巻くものは本当に、本当にたくさん、体の中にあるのに。出そうと思うとそれらは素直には出てきてくれない。もどかしくって、泣きたくなる。
もう限界。本当は逃げ出したいくらい。
けれどそれをしないのは、馬鹿なことをした責任は自分で取るべきだから。言い逃げとか、そんな狡さはいらない。見せれない。
「そうか」
「うん」
先生は校舎を背に、中庭のベンチに腰かけていた。
私は目の前に立って少し高い目線にある。
でも見下ろしている気が全然しない。
梓先生はタートルネックのセーターにマフラーだけっていう格好で、寒そうに身をすくめている。鼻を赤くして、クセの強い髪に顔を包んで。
切れ長の瞳が戸惑うように伏せられていた。
「そうか」
同じことをもう一度言ったあと、先生はやっと私を見た。
曇り空にも似てる色だけど、それよりずっと澄んで綺麗な瞳が、私のとかちりと合う。 ……この目が、一等好き。
「ありがとう」
「うん」
ブレザーのポケット入れていた手を、私はぎゅっと握りしめた。大丈夫、震えてなんか、ない。
……先生は優しいよね。
そうやって優しい方法を使って私を――私たちを傷つけないようにする。
喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。これじゃあ責めてるみたいで、聞かせられない。
それにしても、察することが出来る自分が悲しかった。もう少し賢いか、もっともっと馬鹿になりたい。どこまでも可愛くなれない自分に、これまで何度も苛立ったものだけど。
「嬉しいよ。お前に好かれててさ」
梓先生は溜息みたいに、よかったって呟いた。ぎこちなくて、らしくない笑い方をして。
私も笑った。なんだか笑うしかないような気がした。
「俺も、椎名が好きだよ」
白い息を吐き出して。
いつもと違う――私の苗字の方を、先生が呼んだ。