239万光年向こうの偽物の光
太陽の光は西に傾き、世界を淡い赤色に染めている。
二〇八九年もそうして終わろうとしていた。
夕暮れの住宅街を歩きながら、わたしは「どうして太陽は沈む時に赤くなるのだろう?」と考える。
「それはねえ、空気中に塵や水蒸気なんかの障害物があるからだよ。昼間は障害物が少ないから全ての光が見えるけれど、夕方は障害物が多くて、波長の長い赤い光しか届かないんだ。例えばさ、虹なんかを見ると――」
「わかった! わかったわよ。だからしばらく黙っていて」
知らずに疑問が口に出ていたらしい。わたしはご丁寧に答えてくれた幼馴染の暖人に、うんざりしながら言葉を返す。だって、このままでは弾丸のごとく発せられた言葉が、疑問を離れて、どうしてか宇宙の神秘や素晴らしさまで言及していく。そんなのは勘弁してほしい。
「えぇー、ここからが面白いのに」
暖人は残念そうな表情で肩をすくめたものの、素直に黙ってくれた。それからまた、歩道に置かれた縁石の上をぶらぶらと歩き出す。高校卒業間近になって、なに子供みたいなことをしてるんだろう。耳にかかる長さの黒髪といい、柔らかな雰囲気といい、暖人は一般的な男性よりも近寄りやすい少年で女子の人気も高い。儚げな美少年だとファンクラブまであるほどだ。
「宇宙バカさえなければ、彼女だってできるのにねぇ」
「何か言ったかい、すばる?」
「べっつにー」
通いなれた高校からの帰り道。でも、夕暮れ時というだけで、その道はどうしてかいつもより不気味に思えた。寂しげな住宅街を照らしている目に優しいはずの真紅の光が、とても不安をあおってくる。
わたしは漠然とした不安から目をそむけるように空を見上げた。頭上に広がる紫色の中に早くも白い星が瞬いているのを見て、むくむくと腹立たしい気持ちが湧き上がってくる。
あれが、どれだけ離れた距離からの光かわからないけど、どんな綺麗な光だって結局は偽物だ。
――一光年離れた場所にある星の光が地球に届くのには一年がかかる。そしてその光はいまの星ではなく、一年前の星の姿なんだよ。
と、いつか暖人が教えてくれた言葉がよみがえる。
「宇宙なんて、くだらないわ」
満天の星を神秘的だとか、美しいとか言う人がいるけど、結局は全部が何年も前の偽物の光だ。そんな過去の夢幻みたいなものに美しいとか、くだらない。ましてや人生を賭けるなんて……どうしようもない馬鹿だ。
ちらりと暖人を見ると、彼は少しだけ困ったような笑みを浮かべていた。
「そんなこと言って、……せっかく、青白い綺麗な星団の名前をしているのに」
「フレアデスとかゲームの魔法みたいな名前の奴でしょ? 聞き飽きたわ」
「M45――プレアデス星団だよ。聞き飽きた割にはちっとも覚えてないんだね」
一文字違いなんだから、ちっとも、ってことはないと思う。内心で憮然とするわたしにちっとも気づかず、暖人は憎たらしいくらいきらきらした表情で話を続けた。
「それにね、プレアデスの名前の由来は魔法じゃなくてギリシア神話で――」
薀蓄なんてどうでもいいけど、話す暖人の横顔がとても生き生きとしていて、わたしは彼を気にせずにいられない。気がつくと、ちらちらと横目で彼を盗み見ていた。話の方はそれこそちっとも耳に入ってこないのだけど。
赤信号になって、わたしたちは足を止めた。暖人の薀蓄も終わっていて、妙な沈黙に包まれる。いつもだったら、その沈黙は家族の団欒で下りるような心地のよいものだけど、今はひたすら気まずかった。沈黙がとても痛い。
わたしは、意識して自然に聞こえるように話しかけた。
「本当に、アメリカへ行くの……?」
振り返った暖人は少しだけ困ったような笑みでわたしを見て、彼の透明な瞳を前に、わたしはああ、やっぱり何を言っても無駄なのだと悟った。同時に、わたしの胸の中をすうっと冷やすような、しょっぱい気持ちが駆け巡る。本当はこの話題は出したくなかった。だけど、きっかけがつかめるまでとか言い訳して、だらだらと引き伸ばしたくもない。
小中高と一緒だった幼馴染は、わたしを残して自分の夢に向かって歩こうとしている。
暖人は宇宙飛行士になるために、アメリカの大学へ留学するのだ。もう内定も出ていて、彼の前にはバラ色の未来が開けている。
わたしはそれを喜ぶべきなのだろうが、口はうまく動いてくれない。
「馬鹿よ。暖人は」
俯いたわたしの口からは、憎まれ口が飛び出した。
「夢に向かって進む人間は、その道に興味ない人から見れば、どうしようもない馬鹿みたいに映るのかもね。だから、夢って言うのかもしれないよ」
「……でも、暖人は目が覚めたら終わる『夢』のままでは終わらせないんでしょう?」
「もちろんだよ。だから、すばると一緒にいられるのもあとふた月くらいだね」
「ちっとも寂しそうじゃないのね」
わたしなんてどうでもいいのかしら。暖人は難しい表情で黙り込んでしまう。
信号が赤から青に変わった。
暖人は正面だけみて歩き出して、わたしも黙ったまま彼について行く。何を言えばいいのかわからない……だから、留学の話を出すのが嫌だったんだ。
自宅のある住宅街へ入ったところで、唐突に暖人が口を開いた。
「そもそも、僕に星の素晴らしさを教えてくれたのは、すばるだよ」
「わたしが?」
意外な言葉に顔を上げる。暖人は至極真面目な表情をしていた。わたしの顔をとらえて、それがちょっと柔らかい笑みに変わる。
「夜中に消えた君を連れ戻すのは、僕の役目だったからね」
小学生の頃だ。あの頃、わたしの両親は仲が悪かった。学校から帰ってきてからわたしに母は父の悪口ばっかり言って、それが嫌だからわたしはよく暖人の家へ遊びに行った。父が帰ってきてからはもっとひどい。些細なことから口論が始まり、二人は口汚く互いをののしった。わたしがこっそり外に抜け出しても、二人は気づかなかった。
わたしは一人で裏山に行って膝を抱えて座っていると、いつも暖人が来てくれた。
「ねえすばる、あの星のひとつひとつが僕たちの町よりもずっともっと大きいんだよ。それがたくさん散らばっているなんて、空は本当に大きいんだねえ」
服が汚れるのもかまわず地面へ仰向けに寝転がると、暖人は空を見上げてそう言った。それから、夜空に輝く星のひとつひとつの物語を語ってくれた。
「北極星を知っているよね。あの白い光の星。あれがどうして北極星って名前だと思う? 実はね、あの星は一面が氷に覆われた北極で、白熊がたくさん住んでるんだ。ほら、見上げてごらん。熊がいるのがわかるでしょ?」
膝を抱えていたわたしは暖人の話に耳を傾けて、自然と、いつの間にか空を見上げた。
海の底みたいに暗い空には、たくさんの光があった。その向こうには、見たこともない果てしない宇宙が広がっている。
途方もない空間を前にすると、わたしの悩みがとてもちっぽけなことに思えてきた。それで何かが変わるわけではないけど、遥か昔に栄華を誇った恐竜たちが一瞬にして滅んだようにこの辛い日々もいつかは終わるのだと、壮大な星の年月に比べれは、それは短いものだと、小学生だったわたしは自分を慰めた。ほかにどうしようもなかったから。
今では両親もそれなりに仲良くなって、二人で時々旅行にいったりすらしている。小学生の時のことを、あの頃は喧嘩ばかりで心配かけてごめん、と謝ってくれたこともあった。
「暖人の星の話、懐かしいわね。北極星に白熊が住んでいるとかは、全く信じられなかったけど今でも覚えているわよ」
暖人は理科教師が云いそうな今の話と違って、昔は国語教師みたいな無茶苦茶な空想の物語をよくした。それも、当時でも嘘だと思うくらいのでたらめ度合だ。
「君を慰める言葉が思いつかなくて、あんなほら話をしたのさ」
そう言って暖人は肩をすくめた。
「だけど、話をするうちに本当のことが気になってね、君に聞かせるためにも調べようって、星の本ばかり読んだんだ。それからご覧の通り……すっかり宇宙の虜さ」
「それって、わたしのせいなの?」
「きっかけは君だよ」
「そうね、暖人が宇宙バカなのは、わたしの責任だわ。……わたし一人じゃ、耐えられなかったかもしれない」
ありがとうと、冗談めかして言葉にする。暖人も「いわば僕はすばるの心の親なのさ」なんて調子に乗ってわたしの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
もうすっかり日が沈んでいて、住宅街は外灯の光に照らされていた。暖人は細い路地の真ん中に立って両手を広げた。
「僕は決して君を一人にはしないよ。……僕がいて、君がいて、宇宙がある」
暖人はそうっと空を見上げる。
彼の視線を追って、わたしも上を向いた。
街の明かりに阻まれて、星はほとんど見受けられない。一等星が数えるほどあるだけで、他はただ暗い色に染められていた。それでも暖人は、この空の向こうのはるかな宇宙を感じているのだろう。その声はとても愛おしそうだった。
「宇宙はとっても素晴らしいところだよ、すばる」
暖人は宇宙が好きなのだ。わたしよりもずっと……。そう思うと素直に喜べなくて、わたしはついに彼へエールを送れなかった。
光陰矢のごとし。
子供の頃は気にも留めなかった言葉が、大人になってからは身に染みる。
二か月の余裕があると思ったのに、暖人と二人で話したのはあれが最後だった。留学する暖人を見送る時、わたしは受験に追われていたこともあって、そっけない別れになった。
あれから七年も経ったが、彼とはメールのやりとりをするくらいで会っていない。アメリカは行くには遠すぎるし、わたしも自分の生活に追われて時間が作れなかった。
とりあえず、暖人は向こうでうまくやっているらしい。ほんのたまに色んな人種の学生たちと仲良く写った写真を送ってくる。一度だけ立体映像で会話したこともあった。もちろん背景はフロリダの夜空だ。
わたしはというと、大学を卒業した後は中公企業で事務仕事。宇宙とはまるっきり関係のない職種に暖人は大いに嘆いていたけど、わたしとしては落ち着いて身の丈に合った仕事だと思っている。社内には年代の近い子も多くて雰囲気も悪くない。
「ねえ、田端さんも忘年会に来るんでしょ?」
茶髪をいじくりながら木村さんが聞いてきたので、わたしは親しげな笑みで頷いた。彼女はわたしよりも一つ年下で高卒だけど、積極的で物怖じしない子だ。彼女とわたしが話していると、同じ部署の先輩も加わってきた。
「木村さんと田端さんって、今年の忘年会の話をしてるの?」
「そうだよー。あたしはさぁ、いつも休んでるんだけど……だって忘年会ってクリスマスイヴにやるじゃん? 普通来ないでしょ? でもね、今回は出席するの! だってだって、一枝先輩がいるじゃん?」
「マジで~? 今年は先輩もくるんだ。私も出席しようかな」
「うん。なんか彼女と別れたんだって」
「マジで!? これはチャンスね……それにさ、顔なら新入りの水野とか遠藤も悪くないでしょ! ねっ、田端さん!」
パワフルな女子の会話に内心で押されながら、わたしは相槌を打つのだった。
忘年会はクリスマスイヴの夜にホテルの会場で行われた。幹事の挨拶を聞いた後は、それぞれ親しい同士で集まって、食事やおしゃべりをする。わたしは一時間ほどそこで過ごしてから、酔い覚ましに行くと席を立った。
三十階もの建物の屋上は、酒で火照った体を良い感じに涼しくしてくれる。わたしは鼻歌混じりの上機嫌でフェンスへ近づいた。網目模様の向こう側に無数の星くずが広がり、視線を下げると地上の星たちが瞬いている。
このホテルが会場だと聞いて、楽しみにしていたのだが、想像以上に絶景だ。
ねえ、すばる……と、幼馴染の少年の声が耳元に蘇る。しかしそれは次の瞬間、大きな男の声にかき消された。
「うっわ~あ、すげー星空だな」
真横からの声にぎょっとして顔を向ける。わたしと同じようにフェンスを握る格好で、スーツ姿の男性が星を見ていた。
「俺、さそり座なんだけど、さそり座ってどこにあるかわかるか?」
彼は女子たちが話していた一枝先輩だ。初対面なのに気軽に聞いてきたので、わたしも同じくらい自然な態度で地面を指さした。
「それなら、この辺りにありますよ」
「へ? 星って地面にもあるのか?」
「いえ、夏の星座なので」
「ああ……なるほど! 地球の裏側じゃなきゃ見えないってか!」
「夜の間はそうなんです。北半球にはさそり座は昼間にあるんですが、太陽の光が邪魔してわからないんです」
知識をひらけした後で、わたしは内心で冷や汗をかいた。たかが後輩が偉そうに言って、気分を損ねたらどうしよう。
だけど一枝先輩はわたしの心配なんてどこ吹く風の満面の笑み。
「つい忘れちまうけど、そういえば昼でも星って浮かんでるんだよな。教えてくれてありがとう、田端さん」
そう言って、また星を見る一枝先輩の横顔が驚くほど真面目で、わたしはしらずの内にじっと彼を見つめていた。
「そうだ、田端さん。これも何かの縁だし、今度プラネタリウムに行かないか? チケットが二枚あってさ……別の人と行くつもりだったんだけど、駄目になっちまったから」
「えっ! あ……あの、わたしに言ってるの、ですか?」
「他に誰もいないだろ。新横町に新しく出来たとこだけど、どうかな?」
しばらく挙動不審な動作を繰り返したわたしは、じっと返事を待つ真剣な瞳を前にして、やがて小さく頷いたのだった。
先輩とはその一か月後にプラネタリウムに行った。「実は彼女と行くつもりだったんだ、別れちゃったけど」と彼は情けなさそうに教えてくれた。帰り際に食事の約束をし、後日のイタリアンレストランでもまた会う約束をして……そんな感じで、わたしはたびたび一枝先輩とどこかへ出かけた。社内でもうわさになって、女子たちは想像に花を咲かせる。木村さんなんかは単刀直入に聞いてくるので、大いにわたしを困らせた。
「で、実際どうなの? 一枝先輩と付き合ってるんでしょ。結婚とかは?」
いくらなんでも気が早すぎではないだろうか。そんなことを考えながら、わたしはまんだらでもなかった。一枝先輩は頼りがいのあり優しく、顔も悪くない。彼氏としても夫としても申し分ない男性だから。
それでもほんのときおり、わたしは携帯を見つめた。そこに保存されるメールを読んで、遠くに行ってしまった幼馴染のことを考えた。暖人からのメールはだんだんと減ってきて、もうほとんど一年以上もきていない。日曜日の夜に一通ずつ、お互いの他愛のない話を送っていたのだが、返信がないのでやめてしまった。
彼は憧れの宇宙に夢中で、わたしのことなんて忘れてしまったのだろうか。それとも向こうで恋人でもできたのか……。
やがてわたしは返ってこないメールを待つのはやめた。
一枝先輩は優しい人で、わたしはだんだんと彼に惹かれていった。付き合って半年が過ぎたころ、一枝先輩は夜に食事に行かないかと行った。格調の高いレストランは普段にわたしたちがいくような場所ではない。食事が終わると彼はわたしを家まで送ってきた。実家だけど父の赴任先に母もついて行ったから今はわたししか暮らしていない。そのことはすでに一枝先輩にも話していた。
アルコールで程よく酔ったわたしたちはその家で、仲の良い友達から体を重ねた恋人になろうとした。言葉にしなくてもわかっている。家の前に立った一枝先輩が、わたしをそっと引き寄せた。
そう言えば、わたしはまだ誰ともキスしたことがなかった。漠然とそう考える。
気づけばわたしは一枝先輩を突き飛ばしていた。
「誰か好きな奴がいるのか?」
目を丸くする彼に答えられなくて、誤魔化すように笑顔を向けた。
「それじゃあね。送ってくれてありがとう」
身を翻すと逃げるように自宅に入る。どうしてだかわからないけど、先輩とキスする気にはなれなかった。流れで一線を越えてしまうことがわかったから……。覚悟していたはずなのに、わたしの無意識はそれを拒否した。
それから自然と先輩とは話さなくなった。部署も違うから彼の事はほとんど知らない。一枝先輩が前の彼女とよりを戻したと聞いたけど、それだけだ。
なんとなく馬鹿みたいだと思いながら、わたしの右手は勝手にありもしないメールを捜していた。
就職して五年が経った頃、巷は『アンドロメダ計画』で賑わった。
『239万光年の向こうの空へ行く……なんて素晴らしいだろう。考えただけでもぞくぞくするよ。すばる。もちろん君もニュースを見ているよね?』
何年ぶりかのメールはそんな文面だった。
久しぶりとか、メールできなくてごめんとか、忙しかったんだとか、普通はそういう書き出しになるんじゃないかな? 釈然としないながらも、暖人だからか許せてしまう。怒りはぷすぷすと萎んでいき、わたしもいつも会う友達に送るように気軽なメールを返した。
『アンドロメダ銀河でしょ? 調査員に選ばれるといいわね。応援しているわ。頑張って』
『すばるが応援してくれるなんてね。これは何かが起きる前触れかな』
『どういう意味よ、それ?』
『気にしないで。あっ、もちろん頑張るよ。それで、もし選ばれたら一年くらいあちらへいるんだけど、帰ってきたら話したいことがあるんだ』
『選ばれて宇宙へ行って、それから戻ってきたらの話? すいぶんまどろっこしいのね。まあいいわ、聞いてあげる』
何年も音信不通だったとは思えないほど、わたしたちは気軽にメールを繰り返した。
なんだか明日はいい日になりそう。
その夜はずっとそんな気分だった。
それからしばらくして、わたしは職場に流れるラジオで、暖人が宇宙船の添乗員に選ばれたと知った。添乗員の十二名が、地球から239万光年も離れたアンドロメダ銀河に調査に行くのだ。重力ワープを使った長距離航海は初めてで、世界中の注目の的だった。
その内の一人に暖人がいるのは誇らしい。わたしがお参りしてあげたおかげねと内心で得意になりながら、暖人の嬉しそうな、子供みたいに無邪気な顔を思い浮かべてほくそ笑んだ。忙しいからかメールはちっとも来なかったけど、帰ってきたら散々話を聞いてやろう。職場で同僚たちがニュースの話をするのに耳を傾けながら、わたしはそう考えていた。
それから三か月くらい後、同じラジオで、彼が仲間とともに殉職したと聞いた。
宇宙船は、何万光年も離れた件の星で、謎の爆発を起こして消滅したと。
嘘でしょう? とか、信じられない! とか、そんなこと思ったって『本当』は『嘘』にはならないのだ。
ニュースはどこもかしこもその事件一色で、わたしはテレビをつけなくなった。職場のラジオを聞くのも、同僚のうわさ話にも耐えられなくて、苛立って、仕事も辞めてしまった。
馬鹿らしい。本当に……馬鹿らしい。
彼が亡くなった夜に、ふと窓の外から見上げた夜空にはやっぱり何年も前の平和な光が降り注いでいて、それでも、この空の向こうで、暖人は消えてしまったのだ。
平和な偽物の空。
暖人はもういない。
わたしの名前を400光年の向こうの光だ、青白い綺麗な星団の名前だ、と言ってくれる幼馴染の男の子は、遥か彼方の光に囲まれた暗闇の中で、一瞬だけ輝いて、それきりだ。
彼の最後は熱かっただろうかとか、痛かっただろうかとか、星のように疑問がわいて涙が流れるが、泣きながら考えてもわからなかった。思い出すことすら辛くてなかなか出来なかった。
わたしと彼の間には、決して消えない239万光年の距離が開いていた。
二十代も終わろうかという年になって、わたしはやっと結婚することになった。
相手は母の遠縁で、わたしより三つ上の男性だ。見合いの席で初めて会った彼はがっちりとした声の大きい男性で、だけど、細工が得意だという繊細な一面もあった。わたしは彼と婚約した。別段不快は感じなかったし、デートを重ねるうちに、彼のはっきりとした物言いや、とっさの状況でわたしを庇ってくれる男らしさに惹かれた。結婚に焦っていたことも否定できないが、わたしは夫となる男性を愛そうと思った。一年と待たずにわたしたちは結婚して二人の子供をもうけた。
時の流れはほんのたまに残酷だ。
暖人の事はもう過去になっていた。思い出すと悲しい気持ちがせり上がってくるけど、前みたいに泣いたりはできなかった。
ただ、もう一度彼に会いたいと……そう思う。
わたしは、彼が亡くなった夜からいまだに星空を見上げられない。
それは寒い冬の日だった。上の子が修学旅行で、今頃は旅館のおいしい料理を食べていることをやっかんだ夫と下の子のために、スーパーでステーキを買った帰りだ。店内の数少ない人は開店セールみたく半額になった途端に商品に飛びついた。わたしはそれにぎょっとしながらも、自分の肉はしっかり確保できたわけだ。帰り道はちょっとした達成感とともに足を動かす。吐く息が闇に白く散り、細い風の音がマフラーをなびかせた。
角を曲がろうとして不意に足が止まる。
ソーラー発電の家の壁に施されたクリスマスのイルミネーションの下に、二十代半ばくらいの男性が立っていた。安っぽい星の飾りから放たれる光に溶けてしまいそうな儚げな表情。男性にしては長い髪。そして瞳に宿る、少し子供っぽい輝き。
暖人がそこにいた。
バサリ、と買い物かごが落ちる。暖人はわたしに笑いかけて、背を向けた。歩き出す彼に向かって走るが、手を伸ばすと同時に消えて、いつの間にか離れた場所に移動している。わたしは暖人の背を追って、やがて大きな川のある道路に出た。
「ねえ、すばる。宇宙が広がっているよ」
薄暗い川の前に立って暖人が両手を広げた。彼の言葉にわたしは水面を見て――空の星が落っこちたようだった。何処までも黒く染められた揺らぐ空に、ぼんやりとした無数の光が瞬く。小さな頃に、裏山で見上げた空と同じ……どこまでも続く空間が広がっていた。
動けずに川面を凝視するわたしに、暖人の悪戯っぽい声が届く。
「久しぶりだねすばる。元気にしてた? あっ、ごめんよ、すばる。君のことだから僕を殴ろうとするだろうけど、僕には実体がないんだ。もし手が素通りして電柱にぶつけたりしたら悪いから、先に謝っておくよ」
「……遅いわ」
悪びれもなく話し出す暖人をつかもうとした手は、彼の体をあっさりとすり抜けて後ろの電柱を打ちつけた。彼は幽霊なの? 目の前の暖人は高校生の時より成長しているけど、確かに面影があった。わたしは現と夢の狭間のような水面の星の前で、偽物だか本物だかわからない暖人に対面している。
「えっと、何から話せばいいかな?」
「どうして暖人がここにいるの?」
身を切るような寒さと、どこからか漂ってくる肉じゃがの匂いが、これは現実だと語っている。四〇を過ぎたおばさんがとうの昔に死んでしまった幼馴染に会っているという、ひどくアンバランスな現実を。
どこから説明しようかな……と、暖人は困った笑みで上を見上げた。
「僕らの船は重力ワープをして帰還する予定だったんだけど、エラーを起こして、制御不能に陥ったんだ。どうしたって、直せない状態にね。無理にワープを続行すると何が起きるかわからない――致命的な欠陥があったんだ。それを同士たちに教えなければいけない。だから、こんな形にして地球へ帰ることになったんだ。残留思念と言うのかな? 詳しく説明したってわかんないだろうから、はぶくよ。時間もないしね」
一五年前の『アンドロメダ航海失敗事件』はずいぶん騒ぎになって、専門家たちも議論を交わしていたけど、わたしはよく知らない。わかるのは、重力ワープは危険性が高いから禁止になったことだけだ。
「でね、えっと……艦長が説明を引き受けて、僕たち乗組員は、残留思念を親しい人の所へ飛ばすことを許されたんだ。どうやって? とは説明しにくいのでこれも聞かないでね。とにかく、僕は、すばるに会いにきたんだ」
ああ、寒さのせいか、頭が上手く働かない。ただ、暖人の……聞きなれた柔らかな声がわたしの頭を何度も駆け巡る。ぐるぐる、ぐるぐると、声はやがて意味を持ち言葉となって何度もわたしの中で繰り返された。
「わたしに、会いに来たの?」
闇に隠れそうなか細い声を、暖人は力強い頷きで拾った。それからちょっと申し訳なさそうに曖昧に微笑む。
「僕がメールを返さなかったのは、忙しかったからもあるけど……本当は怖かったんだ。あの頃は本当に必死に勉強しなければ夢をかなえられないと思っていたんだ。大切な物を捨てないと、宇宙飛行士にはなれないって。僕には到底二つを同時にこなすなんてできなかった。ごめん。ずっと謝りたかったんだ」
神さまが掬った命の水のように、言葉がわたしを満たしていく。最後の言葉を、家族ではなくわたしに残してくれたことが嬉しかった。わたしのことを、気にかけてくれて嬉しかった。だけど、わたしは彼を裏切った。
「暖人が頑張っている時に、わたしは――」
懺悔の言葉を遮って、彼は透明な声で「時間がないんだ」と言う。
わたしは黙って暖人を待った。暖人の体は透き通っていて、後ろの風景がぼんやりと見えた。彼は死んでいるのだ。わたしの頬を一筋の涙がつたう。
「悲しむことはないよ、すばる。239万光年の向こうでは僕は死んでいるけれど、光に溶けた僕の魂がここへ届くには239万年の時がかかる。今の僕は偽物の光で、本当の僕はまだ遠くにいる。僕の魂がここへ帰るまで、僕は決して死なないんだ」
北極星には白熊がいるんだと言った小学生の暖人と同じように、宇宙飛行士の暖人は科学の関係ない突拍子もない話をする。
「すばるは寂しくないよ。決して君を一人にはしない。君にはもう、君を大切にしてくれる伴侶がいるかもしれないけれど、これだけは伝えたかったんだ」
彼は道の真ん中で空を仰いだ。
「見上げればいつだって僕がいるよ」
彼の姿が微睡み、夜に混じるように薄くなっていく。最後の瞬間、彼はわたしを見て、わたしと彼は笑いあった。
彼の笑顔は239万光年の壁をいともたやすく乗り越えてくる。
気づけは空を見上げていた。わたしの大切な人が愛して、だけど、その人を奪っていった空。
それは本当に……昔と変わらずに美しかった。偽物の光は悠久の時に変わることなく、暖人と見上げた星空で、ずっと永遠にわたしを照らしてくれている。
わたしはいつまでも星空を見上げ続けた。