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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

まれびとこぞりて

作者: 黒漆

 「かみさまっているのかな」

 女の子が両親を前にそう聞いて、「急にどうしたの?」と母親が怪訝な顔をして聞き返した。

 「うん、昨日ね、ユイちゃんのお母さん、死んじゃったんだって。ユイちゃん、毎日かみさまにお母さんを助けてってお願いしてたの、でも、お母さん死んじゃったって」悲しそうな女の子を前に、母親は少し言葉を詰まらせながら、「神様はいるよ、でも、神様にお願いしている人ってきっと沢山いるの。だからユイちゃんだけのお願いを叶えること、できなかったんだよ」と答えた。

 「でも、お願い聞いてもらえた人もいるんでしょ? ユイちゃん、かわいそう」

娘の言葉を聞いて今まで聞き手にまわっていた父親が新聞をたたみ、娘に向き合った。

 「神様は心の中にいるんだ、お前の心の中、私の心の中、一人一人の心の中にそれぞれ違った神様が一人づつ、人の数だけ沢山の神様がいる。同じ神様だと言う人もいる、でもな、みんな姿形が違うんだ。最初は同じでも、変えてしまう、そうして生きてゆく内に自分だけの神様を創っていくんだよ。ユイちゃんはきっとまだ、自分の中の神様の形が解らないんだ。だからお母さんが死んでしまったことを受け止めきれない」すぐに母親が父親をたしなめる。

 「あなた、そんな事この子に言ってもわからないでしょう」

 「そんなことないさ、わかるよな」父親は立ち上がると娘の頭を撫でながらそう加えた。

 「え、うん。じゃあ私の中のかみさまもいつかわかるのかな」

 「わかるさ。大きくなればきっとな」

 夕日が女の子の顔を照らし、眩しそうにしているのを見て、父親はガラス戸に顔を向ける。そのまま戸を開け、ベランダまで移動して町を見下ろした。三階からの眺めは悪くない、立ち並ぶ建物が、強い光を浴びて輪郭だけを残し、黒く塗りつぶされていた。


 壁が蠢いていた。数千匹すうせんびき蚯蚓みみずが壁紙の下で蠢いている。震える指先、腕から汗が滴り落ちた。つま先から頭頂までくまなく何かが触れている、そんな感触におぞけを感じながら、男はそれでも崩れ落ちずに意識を保っていた。なにも特別精神が強固な訳ではない、意思が恐怖とは別のものに染まっていたからだ。男は振りかぶり金槌を叩き下ろした。くぐもった音が鳴り響き、壁に歪な穴が生まれる。繰り返し、繰り返し壁を叩き壊し、穴を広げてゆく。白い壁紙が剥がれ、割れた壁材から白い粉が舞った。穴から覗く暗闇の向こうから鼻がもげる程の異臭が漂い始めた。男の口は開ききりになり、目からの涙と涎が混じり合い、顎から滴り落ちていた。それなのに体は止まらない、止められない。何かが居る、何かが囚われている。壁の中に、そいつを外に出してやらないと、早く、早く、そんな思いが男の意識を支配していた。


 チサは神様を信じていなかった。両親が訳の分からない宗教にはまっていたのをずっと近くで見続けていたからだった。二人がそんなものにすがった理由は病気からだった。過労で倒れ、入院した母の体は家族が予期せぬものに襲われ続けていた。母の体がガンに侵されていると知った父は、何をしてでも助け出そうと躍起やっきになっていた。治る可能性があるのならどんなものでも構わないとさえ思い、ほうぼうを駆けずり回った。以前から体の異変に気がついていたのか、母が「もういいから、休んで」という言葉も振り払い、必死になって方法を探す父の熱意に負けて、出来ることなら奇跡にでもあってみたいと母の気持ちが上向きになり始めた頃だった、父の目は必死になり過ぎる余り、常識から外れ始めていた、そんな隙をつかれた。

 それから生活が一変してしまった。それまで無宗教で何も信じていなかったはずの二人が、あまりの変わりようだった。家に訳の分からない不協和音を毎日流し、気味の悪い像が家の中に何十体も不規則に並び立てられた。帰れば大勢の信者たちが家の中で溢れ、座禅を組んで集会を開いていたりする。病院には慣れ親しんだ実家で最後まで過ごしたいと嘘をつかせ、母を治療から離れさせると、治癒力を高めると称して家の一室に縛り付けた。

 その裏で母は体を次第に干からびさせていった。両親の体を案じながらも、猛烈に入信を勧めてくる信者や、心配をよそに平然と異常に対応している、変わってしまった両親の姿を見ているのが辛くなり、既に社会に出ていたチサの足は、自然と離れていった。


 男は目の下に出来たくまをそのままに、電灯の下で煙草をくゆらせていた。もう三日もまともに寝ていない、限界が近づいていた。頭が眠りを欲していているのか頭痛が酷く、目を瞑ればまたたく間に落ちそうなのに、部屋の中で妙に張り詰めている空気がそうさせるのか、意識は極めて鋭敏に働いていた。独りきりであるはずなのに、濃密な気配が部屋を埋めている。

 「眠い、眠らせてくれ」

 男が率直な欲求を口にして目を閉じた。すると床が震え始める、囁きが始まった。虫の羽音のような振動音に耳障りな嬌声が混じり、鼓膜を鋭く刺し抜いた。きぃぃ、あぁぁ、やぁぁ。間延びする単語が幾度となく耳に突き刺さり、頭の鉢の内側で反響する。

 遠のいては近づき、近づいては遠のいて、悲鳴とも嬌声ともつかない声はやがて意味を持たない言葉に変わり始める。経のような抑揚のない声音、耳にしたことのない異国の民族音楽のような韻、耳障りな異音が組み合わさり同化してゆくにつれ、得体のしれない言葉が頭に染み込んでくる。すると男の手は勝手に動き始めた。ぶちまけられた墨は意思を持つ生き物のように履い伸びて床や壁に文字でも絵でもない、幾何学模様が描かれてゆく。

 「嘘だ、こんなことは嘘だ。ありえない、ありえないんだ」

 閉じかけた口を開き、か細い声でそんなことばかりをつぶやき続けている。


 チサの目には先が見えていた。少しでも助かる可能性を増やしたいという気持ちは解らなくはない。けれど方向が間違っていると思う。どう考えても彼等の教えは二人に何も残さない。生きている間に献身的に宗教を広め、徳が上がれば、病魔も体から逃げてゆくという言葉を信じ、並々ならぬ情熱を捧げ続ける。そんなものよりもっと頼るべきものがあるはずなのに、何を言っても父は「今まで何も信じていなかったのが悪かったんだ、お前にはわからない」と心配を退け続け、母は何も答えず、笑みを浮かべるばかりでチサには耳を貸さなかった。チサはもう、あしげく実家に通うことを止めた。

 そしてある日、数十日振りに実家を訪れると、これまでの生活など元から何もなかったかのように、チサに何も言わず、忽然と二人は姿を消した。借りた一人暮らしの一室にある日一通の手紙が届き、そこに「信じられるものを見つけた」と、一言だけ父の筆跡で記してあった。不安を覚えたチサが実家に向かうと、すでに実家は売りに出され、家の中は空だった。チサが教団の暴挙を知ったのはその後だった。

 チサが教団を訪ねると、その二人ならば教団から抜けたと言われた、行方は知らないと。もう二度とこの地には戻らないでしょうとも言われ、そんなはずはないと食い下がっても、それ以上の真実をチサには突き止めるすべがなかった。確実な事は母は癌から逃れられていないという現実だけだ。普通に入院していれば助かったかもしれない、少なくとも苦しまずには済んだはずだ、それなのに。財産を吸い尽くされ、何もかもを奪われて教団から放逐ほうちくされてしまうなんて。両親は気がついたはずだ、全て無駄だったと、目が覚めたはずだ。けれどもう、全てが遅すぎた。こうなることは解っていたのに、なんで止められなかったのか、無理やりにでも病院に連れてゆくべきだったとチサは後悔していた。

 それとも、まだ何かを信じているのだろうか、取り返しのつかない所まで進行した癌、医療費の支払いもままならない、それでも二人は信仰を捨てなかったのだろうか。必死になり行方を探したけれど、両親の足取りを掴むことは難しかった。満足に歩けもしない母がいるのに、それ程遠くに行けるはずもない。もうどこかで二人とも死んでしまっているんじゃないか、教団に殺されてしまったんじゃないか、そんな最悪な考えが頭の中を占めていた。


 光を湛えた傘つきの電灯が揺れていた、ダイニングテーブルを挟んで男女が一人づつ、口論を続けている。

 「あなた、どうにかしてください。もう、こんな事耐えられません」

 「しかし、誰に訴えればいい、こんな事誰が信じる」

 「でも、知っていれば住まなかったのよ、ここを選んだのはあなたじゃない」

 「今更何を言う、決めたのは俺だが、お前が探してきたんじゃないか。大体こんな事が起き始めたのだって最近だ、誰が予想できる、誰が」

 男女が言い争っているその上で天井が震えはじめた。途端に二人の口が動きを止める。

 「ああ、始まる」

 「どうするの、どうするのよ」

 枝を折ったような音の家鳴りが一度、その後に壁に貼られた壁紙に落ちるはずのない影が落ちた。それは表現しようのない動きを見せて天井一面を行ったり来たりする。時に人の顔のような表情を浮かび上がらせ、時に見たこともない生き物の形をとり、ロールシャッハの絵のような染みを残して唐突に停止する。すると部屋を照らしていた光が明滅を繰り返し始めた。

 「おい、消えないよな。消えないと言ってくれ」

 「ああ、もう嫌。どうしてなのお願い」

 二人の言葉が途切れる寸前、明滅が終わり、闇が落ちる。


 依然として両親の行方を掴めないまま、既に半年が経とうとしていた。チサには彼女の生活がある、何もせずに生きて行けるだけの資金が手元にあるわけではない、生活を支えるだけの基盤を無碍むげにしてまで搜索を続ける訳には行かず、出来ることには限界があった。無念に思いながらも、チサは母の事を諦め始めていた。どの病院を探しても母の名前は存在していなかった。治療なしで到底これだけの時間を生きていられるわけがない。けれどせめて、どこで母が亡くなったのか、それくらいは突き止めたかった。だからこそずっと休日は搜索に当てている。いい知らせと言えば、かつて二人が身をゆだねていた教団がひと月前に崩壊し、無くなって本拠の跡地からは母の死体は見つからなかったということくらいだった。

 もう見つけられないかもしれない、そんな考えが頭の中を占め始めた頃再び、サチの元に手紙が届いた。消印は無く、切手も貼られていない白い封筒のみ、まるで父が直接ここまで届けに来たようだ、実際そうなのかもしれない。色あせた紙には父の筆跡で一言「私達だけの神をみつけた」と書かれ、下に住所が記された紙が別に張り付けられている。ここに向かえということだろうかと考え、住所を確認して、どこかで見たことがあるような気がしたけれど思い出せず、向かったほうが早いと判断して、チサは居てもたってもいられず、その場をつきとめると有休を使い、すぐさま足を進めた。


 ドンドンと壁が鳴り始めた時、今夜もまた始まったと女はうんざりした。隣室から鳴り響いてくるこの音の原因には全く見当がつかない。なぜならば無人のはずだからだ。大家に訴えて何度も空の部屋を確認させたが、なんの異変も見つからなかった。それなのに深夜になると壁に穴が空くのではないかと思える程大きな打音が壁から聞こえて来る。仕方なく女は耳を押さえて音が収まるのを待つ。しかし目は閉じられない、女は知っているからだ。目を閉じてしまえば、嫌なものが見える。暗い部屋の中に浮かび上がり蠢く奇怪な生き物の姿。壁に張り付き、床を這いずり、分裂しては結合を繰り返し、部屋を蹂躙するその生き物の姿。その間ずっと自分が奇声を上げているという事に気がつかずに。


 住所の先には集合住宅が規則的に同じ姿で並びそびえていた。全く同様の建物が何棟も立ち並んでいる中、何故か向かう先の棟だけが暗く沈んでいるようにチサの目には映る。それは両親の今の姿を想像したためか、それともこれからの自分の行く末を予感したためかはチサにはわからなかった。不意に懐かしさを覚えると共に、精彩な姿で小学生が浮かび上がる。懐かしい階段、息を切らせながら駆け上がる時に見た、自分の手足。そしてチサはかつて数年、ここにいたことを思い出した。小学校一年を終えた時、実家へと引っ越したのだ。その頃の事は流石に幼すぎてあまり覚えていなかった。ただ、時刻が夕暮れ時になると部屋に差し込む陽の光によって普段と違った姿を見せる街の姿が、とても印象的だった事については鮮明に覚えていた。

 その頃とちっとも変わっていない、前時代的なアパートメントでセキュリティが万全なものでは到底なく、誰でも侵入できそうな、セキュリティも部屋の値も揃って高くなさそうな印象だった。五階建てでコンクリートの非常階段、各階の中央に階段が備えてあり、二三人ほどで一杯になってしまうエレベータが一階の管理人室と思われる部屋の横の暗がりに、階数表示だけ切れかけの電灯のように弱々しい光で浮かび上がらせていた。最初にチサは管理人室に指定された部屋に誰が住んでいるのかを確かめようとした。ふと、もしかしたらかつて私達家族が住んでいた部屋に両親が居るのかもしれないと思い至った。なぜそれまで気がまわらなかったのだろう、無意識のうちに避けていたのだろうか、そこまで考えて、半年前、一度電話で確認した時に空室だと答えられていた事を思い出した。チサには理解できないこと、整理のつかないことばかりだったが、ここで引く訳にはいかないと気を持ち直す。

 建物の影に入り、チサはそっと父の記した部屋番号の先、三階の吹き抜けを見上げた。すると階段の踊り場から数人の人間がこちらを見下ろしている姿が見て取れた。するとどうだろう、顔の表情までを判別できる距離に居るはずなのに、何故かその人物たちの顔つきが判然としない。顔にかかる髪のせいか、それとも建物の影のせいか、チサは気味がわるいと思いつつ、一度目を逸らし、もう一度顔を向けると数人の姿は消えていた。代わりに階段を登る一人の男性の姿が目に入る、よく見かけた服を身に付け三階の廊下へと消えてゆく、なんども目にして慣れ親しんだ背中が消えてゆくのを確認していた。

 あれは父だ、間違いない、父の背中だ。そう確信したチサはそれまでの違和感を全て振り捨てて背中を追い三階への階段を駆け上がった。

 三階についた途端、目の前で金属の扉が閉まる。チサは息を切らせながら扉の前まで移動し、その戸を開いた。


 「どうやってこの場所から外界へと出たのでしょう、何故離れたのです、お聞きしたいことは多くありますが、それは一先ず置いておきましょう。こうして再び我らの元を訪れて下さったというのに、なぜ認めようとなさらないのです」スーツ姿に奇妙な偶像をぶら下げた男が、目の前の男に向かって言った。

 「貴方はどんな人間でも救済を行うといったはずだ」

顔を下に向け、俯いたままかろうじて聞こえる小さな声で男が応える。

 「貴方はもう救済されたでしょう、しがらみを捨てた。次のステップに進むべきです」

 「何が次のステップだ。結局このままでは妻は救われないじゃないか」

 「貴方の奥様は前世の咎を全てお支払い下さったのです。それはとても、崇高な行為」

 「痛みに打ち勝てば、幸せをつかめると言ったじゃないか、それなのに妻の容態は悪くなるばかりで医者にも診せてくれない」

男は眉間に皺を寄せ、面倒臭そうに言葉を継ぐ。

 「残念なのは貴方には、おわかりいただけ無かったことです、ご理解頂けないのは悪しき俗世に縛られているからでしょう。さあ、我々と共に意思の根源、全ての浄化を行うのです」

ゆっくりと近づき、俯いたままの男は相手のスーツ、肩に両手をかけると必死に訴える。

 「私は、もっと早く気づくべきだった、彼女が本心でお前たちなど信じていなかったことに。彼女は痛みに耐えてまで私の意思を尊重していただけだった、私が押し付けた妻が救われて欲しいという気持ちを、ただそれだけを守るために寿命まで縮めて、命が途切れるまで耐え続けようと」

 すぐに両脇から複数人の白装束が現れて男を引きはがした。


 開けた瞬間、何も変わりない普通のワンルームの姿が目に飛び込み、チサは不安がる必要はなかったと一度息をつく。あの頃と全く変わっていなかった。オレンジ色の夕日が差し込んで街の輪郭を輝かせていた。そして再び父の姿を探そうと足を部屋の中に伸ばすと、空気の層が変わり、続いて突風のような圧力がチサに押し寄せた。思わず目を瞑り、再び開くと全てが酷い有様だった、溶けかけの蝋のように溶解した壁とコンクリート、穴があいていて隣の部屋と繋がってしまっている。床には得体のしれない黒い触手が走り、絡み合って柱のようになり天井まで続いている。天井には歪曲した円形が何重にも重なりあって奇妙な模様が出来ていた。その中で何人もの人達が汚れるがままの服を着込み、伸び放題の髪のままで、言葉ともただの音ともつかない何かを必死に口ずさみ、唱えていた。


 これまでの温和な表情を崩し、明らかな不機嫌面を浮かべ、それを隠そうともせずに男は続ける「何を仰っているのか。貴方はもう破門の身、我が神から心が離れたその時からあなたの救われる道は閉ざされた、今更お戻り頂いても徳までは戻りません、もっともただで帰してしまうのも何でしょう、奥様の居場所を教えていただいた後に修行でもなさい」

 スーツの男は右手で肩の埃を振り払う素振りを見せ、偶像に一度手を触れようと胸に手を伸ばす、するといつの間にかネックレスが千切取られ、そこにないことに気がつく。

 「お前たちの神など信じない、私は聴いたんだ。私の神の声を、私達だけの神の声を。全てを教えてくれた、妻の苦しみ娘の苦しみ、お前たちの苦しみ」

 いつの間にか奪い取っていた偶像が男の手の中で音を立てて震えていた。

 「何をしている、あいつから我らが神を奪い返せ」

 異常に圧倒されながら、スーツの男が自分をとり戻して白装束に命令した。すぐさま周りが動き出す。

 「お前たちこそ神を否定している、本当の神はこんな姿になど囚われない。形などもたないのだから」

 白装束達の手が男に触れる前に偶像は溶け落ち、男は身に付けていた服だけを残して消えていた。以来、その場所ではなんの前触れも無く現れる神に全ての信者がが飲み込まれるまで悲鳴が途切れなかった。


 扉が後ろで閉まる。と、肩に手が触れた。何もかもが信じられず、突然の事でチサは体を硬直させる。隣に立ったのは痩せさらばえ、目が落くぼんだ一人の男だった。彼はチサの名を呼んだ。そうして「お前に見せたかったんだ」としゃがれ声で答えた。チサと目が合うと男の暗い瞳が光を取り戻したように一瞬輝く。

 彼は父だった。先程外で目にした父の姿とは随分と様変わりしてしまっていたが、僅かに面影が残っている。聞きたいことが多く、喉の奥に詰まっていたが、口を開けば絶叫がほとばしりそうだった。父の口が高速で動き始める。動かない表情で口の開閉だけを続ける姿、それはチサに何か、陸に打ち上げられた魚を連想させた。

 「私は私だけの神様を見つけたんだよ何ものにもよらない私だけの神様どんな形とも取れないが私だけが信じられる私だけの神様あちらから私に話しかけてくださった全てを教えてくださったお前の母さんもこの神様が助けてくださったんだそして少しずつ教えを広めている隣の斎藤さんも山香さんも上の両行さんも下の梶夫婦もそして私を騙していたあの信者達でさえも皆私の神様を今では信じているそしてこれからもずっと信じる者は増えてゆくだろうお前もここにくれば信じられる幸せになれる不幸な世界から決別できるここで家族で暮らそうじゃないか」

 感情のないトーンで再生される音、それが父の声だと信じられなかった。何を言っているのか暫くは理解ができなかった。理解が追いついた時、父の言葉は止まっていた。

 そして、これまでが再び信じられない程の笑顔を顔に張り付かせた父が、口を動かせ始めた時、「あそこに母さんがいる」と聞こえた。視線を追った先、触手の柱の中に母の顔が埋まっていた。黒く変色し、目と口を閉じている母の顔は周りと同化している。母のまぶたが僅かに動いた。部屋を占めていた声が盛り上がり、ピークを迎えようとしている、触手が蠢き始めた。

 チサの傍らに立つ父が、「かみさま」と呟いた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 感想が遅くなりました。 いつもながら黒漆先生の作品には冒頭から引き込まれて、その鮮烈なイメージに翻弄される快感がありますが、本作もそうでした。怖さや不気味さも、巧みに導かれるとある気持ち良さ…
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