三秒の余裕
三秒の余裕
キッチンのタイマーが、規則正しい電子音を立てていた。
美紀はその前で立ち止まり、息を整えた。手にしたスマートフォンには、ブックマークしておいたコラムが開かれている。
『男性脳には具体的に伝えましょう』
『返事を急かさず、三秒待つ心の余裕を』
『完璧な妻をやめて、頼る技術を身につけましょう』
リビングでは、夫の一樹がソファに浅く腰掛け、スマートフォンを操作していた。夕方六時半。テーブルには、昨夜彼が飲み干したビールの空き缶と、くしゃくしゃになった乾き物の袋が残っている。
以前の美紀なら、何も言わずに片付けていた。苛立ちを飲み込み、散らかったものを元に戻す。それが夫婦円満のためだと、自分に言い聞かせていた。
けれど今は、違う。美紀は「夫を変える方法」を学んでいる。大人の男性に家事をしてもらうには、伝え方にも技術がいる。そう信じようとしていた。
「一樹さん」
穏やかな声を意識して呼びかける。返事はない。スマートフォンをタップする音だけが続いた。
一、二、三。
心の中で数えてから、美紀はもう一度口を開いた。「手が空いたら」といった曖昧な頼み方はしないと決めていた。
「七時までに、お風呂を掃除しておいてほしいの。洗剤を吹きかけて、スポンジで床と浴槽をこすってくれる?」
一樹は画面から目を離さず、わずかに眉をひそめた。四秒、五秒。ようやく顔を上げると、口元を歪めた。
「わかったよ」
その返事を聞いただけで、胃の奥がきゅっと縮むような疲れが残った。それでも美紀は、自分に言い聞かせる。
これでいい。感情的にならず、やることと期限をはっきり伝えた。男性が動きやすいように、レールを敷いてあげる。妻が先回りして何でも完璧にこなすから、夫は自立しないのだ。自分が変われば、彼も変わるはずだった。
七時少し前、一樹は重い腰を上げて浴室へ向かった。しばらくして、シャワーの音が聞こえてくる。
二十分ほどで戻ってきた彼は、「やったぞ」と言うように顎をしゃくった。
「ありがとう。助かった!」
美紀は笑顔を作って礼を言った。夫の自己肯定感を育てるための、計算された褒め言葉だった。
後から浴室を見に行き、美紀は足を止めた。
浴槽の縁にはざらついた湯垢が残り、排水口には髪の毛が詰まっていた。洗剤の泡は、壁の隅で乾きかけている。
美紀の指が、無意識にスポンジへ伸びた。けれど、あと少しのところで手を引っ込める。
ここで自分がやったら、また元に戻ってしまう。目をつぶろう。「やってくれたこと」を褒めるのだ。
そうして美紀は、少しずつ妥協の境界線を広げていった。自分がどこまで譲っているのか、そのときは気づかないふりをしていた。
夫婦に変化の兆しが見えたように思えたのは、結局、錯覚にすぎなかった。
翌月、美紀は家計簿アプリを見つめ、息をのんだ。
共有口座から、まとまった金額が何度か引き出されている。十万円、十五万円。日付を確認すると、どれも一樹の給料日から数日以内だった。
「一樹さん、これ、何に使ったの?」
リビングのテーブルを挟んで尋ねると、一樹は一瞬だけ視線を泳がせた。それから、苛立ちを隠そうともせず舌打ちする。
「付き合いだよ。後輩の手前、断れない飲み会もあるんだ。お前は家にずっといるから分からないかもしれないけどさ」
「でも、ここは固定費用の口座だよ。今月は車の保険料も引き落とされるのに」
「後で補填するって言ってるだろ。細けえな、いちいち監視するみたいに問い詰めるのやめてくれない? 息が詰まるんだよ」
投げつけられた言葉に、美紀は黙り込んだ。
頭の中に、コラムの文句が浮かぶ。
『家計を可視化して、役割を持たせましょう』
『小さな変化を見逃さず、できたことを褒めましょう』
美紀は怒りを押し込め、できるだけ柔らかな声で提案した。
「じゃあ、毎月のお小遣いの範囲でやりくりしてほしいの。あなたの口座からは光熱費だけを引き落とす形にして、家計を一緒に管理しない?」
一樹は、冷たい目で美紀を見た。
「要するに、俺を信用してないってことだろ。誰の稼ぎでこの家が回ってると思ってんだ?」
喉の奥が凍りついた。
彼は、ただ家事をしないだけではなかった。自分から動くのが苦手な「気の利かない夫」でもなかった。
その夜、美紀はベッドの中でスマートフォンを開いた。ブックマークしたコラムを、もう一度スクロールする。
これまでは、読むのを避けていた箇所で指が止まった。赤い見出しが、画面に浮かび上がる。
**個人の努力では改善が難しいケース。**
**執拗な暴言・金銭の使い込み・無視。**
**妻の心をすり減らす行為です。**
文字が目に焼きつくようだった。
美紀はずっと、「自分の伝え方が下手だから」「完璧にやりすぎているから」と、自分の側に原因を探していた。
夫を「育て直す」という希望を持ち続けることで、彼が何をしているのかを見ないようにしていたのかもしれない。
その晩、美紀は眠れなかった。暗い部屋の中で、何度も考えた。これからどうするのか。どこへ行くのか。何を持っていくのか。
答えはすぐには出なかった。それでも、もう一度コラムを開いて自分を責めることはなかった。
翌朝、美紀はいつもより三十分早く起きた。
朝食は作らなかった。洗濯機も回さなかった。夫のワイシャツにアイロンをかけるのもやめた。
スーツケースを玄関脇に置き、必要なものを確かめてから、コートを羽織る。
起きてきた一樹は、何も並んでいないダイニングテーブルを見て、不機嫌そうに顔をしかめた。
「朝飯は? シャツは?」
「作ってないわ。クリーニングにも出してない」
「は? 何言ってんの? ふざけんなよ。仕事に遅れるだろ」
一樹の声が荒くなる。怒鳴り声がリビングに響いた。
けれど、美紀の胃は痛まなかった。胸の中には、ひどく冷たい静けさが広がっていた。
「一樹さん、私はあなたのお母さんじゃないの。あなたを育て直す義理も、機嫌を取る義務もないわ」
「……何様だよ、お前。俺に逆らって、一人で生きていけるとでも思ってんのか?」
言葉は届いていた。それでも、もう美紀の心を刺さなかった。相手を変えるために、何度も受け止めてきた言葉。その空しさだけが、そこに残った。
「あなたがどう思うかは、もう私の問題じゃないの」
美紀は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
「これからのことは、弁護士を通して連絡します」
振り返らずにドアを開ける。朝の冷たい空気が、肺いっぱいに流れ込んできた。澄んだ秋の風が頬を撫でる。
誰かを変えようとして、すり減らしてきた力。その力が、自分の足で地面を踏みしめるために戻ってくる。
美紀はその感覚を確かめるように、一歩を踏み出した。




