婚約破棄された雪の令嬢ですが、転生前は防災庁の職員でした。~あなた方が凍え死ぬ冬、私だけが暖かいの~
「セレスティア・ユーグレット。お前との婚約を、破棄する」
雪の舞う王城の大広間に、第二王子ヴァルトの声が高らかに響いた。
シャンデリアの光が、銀髪に降り積もるような私の頬を照らす。集まった貴族たちのざわめき。好奇と侮蔑の視線が、針のように突き刺さる。
はいはい、了解です。
私は内心で、そっと息を吐いた。
(つまりこれ、解雇通告ってことですよね。退職届はどこに出せばいいのかしら)
「お前のような氷のように冷たい女は、王妃にふさわしくない。心の温かいミレーヌこそ、私の妃だ」
ヴァルトの傍らで、亜麻色の髪の少女がそっと目を伏せた。男爵令嬢ミレーヌ・ラントベルク。『真の聖女』と称される、人懐こい笑顔の持ち主。
「セレスティア様……ごめんなさい。でも、冷たいあなたよりも、わたくしの温かさが、この国には必要なんですわ」
うるうると潤む大きな瞳。か弱げに震える肩。
(うわ、芝居がかってるわね。前世なら確実に演技力で表彰されてるわ、この子)
そう。私には前世の記憶がある。
現代日本、防災庁・寒冷地災害対策室。低体温症対策、備蓄計画、暖房効率、物流寸断時の生存術――それらに人生を捧げ、過労死した三十路の女。それが、私のもう一つの顔だ。
「セレスティア、何か言うことはないのか」
ヴァルトが勝ち誇った顔で見下ろしてくる。きっと、泣いて縋ると思っているのだろう。
私は静かに微笑んだ。
「……分かりました」
たった一言。
その瞬間、ヴァルトの顔がわずかに曇ったのを、私は見逃さなかった。
(さて。この国が『百年に一度の大寒波』を迎えるまで、あと一ヶ月。あなた方は、自分が何を手放したのか、まだ何も分かっていない)
窓の外、空はもう、鈍色に沈み始めていた。
――そして、私は続けた。
「では私、辞めさせていただきます」
大広間が、静まり返った。
「……は? 何を言っている」
ヴァルトが眉をひそめる。意味が分かっていない顔だ。
「言葉のままです。王妃教育の辞退。そして――王都への暖房資源供給契約の、全面打ち切りを宣言いたします」
「……契約?」
そう、契約。
(あなたたちが当たり前のように暖まって暮らしてきた、その熱。あれが全部、誰のものだったか考えたこともないでしょう)
「フロストハイム公国の王都を暖める『暖の魔導インフラ』。冬の食料を支える『食料備蓄網』。寒気を防ぐ『熱保持結界』。――すべて、ユーグレット公爵領が整備し、供給してきたものです」
ざわ、と貴族たちが顔を見合わせる。
「婚約という縁があったからこそ、公爵領は王家へ無償に近い条件で資源を融通してきました。ですが、その縁が切れた今――義理は、消えました」
私は、淡々と続けた。怒鳴りもせず、震えもせず。
「ま、待て! そんなことが許されると――」
「許す許さないの話ではありません。契約の話です。婚約破棄は殿下のご意志。ならば、付随する契約の解消も当然の帰結でしょう」
稟議書なら三十枚案件だわ、なんて。前世の私が呟く。
「で、ですが!」とミレーヌが慌てて口を挟んだ。「わたくしには『陽だまりの加護』がございますわ! 寒波など、恐れるに足りません!」
――半径数メートルを、ほんのり暖める程度の加護で?
私は何も言わなかった。
ただ、深く一礼する。
「では、皆様。どうか温かい冬を」
踵を返し、雪の降る回廊へ歩き出す。背中で、何か喚く声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
(さあ、帰りましょう。私の、本当の職場へ)
――――
公爵領へ戻る馬車の中。
「よくぞ、よくぞあんな殿下を切り捨てなさいました!」
向かいの席で、筆頭侍女のハンナが拳を握って涙ぐんでいた。四十代半ば、肝の据わった肝っ玉母さんだ。
「お嬢様がどれだけこの国のために尽くしてこられたか。なのに『冷たい女』だなんて……あの方々は、お嬢様が人より先に動いていらっしゃるだけだと、ちっとも分かっておられない!」
「ハンナ、声が大きいわ」
「だって悔しいんですもの!」
私は小さく笑った。この人だけは、ずっと私の沈黙の意味を知ってくれていた。
「それより、やることが山積みよ。大寒波まで一ヶ月。まず魔石の熱効率を鑑定スキルで最適化する。次に冒険者ギルドと提携して、薪と保存食の流通網を再構築。それから領民全員に、低体温症の初期症状と対処法を教育するわ」
「ていおんしょう……?」
「体温が下がりすぎて命に関わる状態のこと。震えが止まったら危険信号。意識が朦朧としてきたら、もう一刻を争うの」
すらすらと口をついて出る前世の知識。ハンナは目を丸くして、それから、にっこりと笑った。
「また何か、恐ろしいほど役立つことを思いつかれましたね、お嬢様」
「ふふ。社畜時代の防災マニュアルが、まさか異世界で役に立つとはね」
「しゃちく……?」
「こっちの話。――ハンナ、お父様への報告をお願い。王家との契約打ち切りと、領内の冬支度総動員を」
「かしこまりました。腕が鳴りますわ!」
馬車が雪原を進む。
窓に映る自分の横顔は、相変わらずの無表情。でも、心の奥は不思議と熱かった。
(誰にも必要とされなくても、私は働く。それしか知らないから。……でも、今度こそ、守れるものを守ってみせる)
遠く、公爵領の灯りが見えてきた。
――――
公爵邸の執務室。
「――王家との供給契約を、すべて打ち切ります」
私が告げると、父ロイドは白髪交じりの眉を一つ動かしただけだった。
「理由は」
「婚約破棄されました。王家との縁が切れた以上、無償供給の義理はありません。それに――このままでは公爵領の備蓄まで王都に吸い上げられ、百年に一度の大寒波で、領民まで凍えます。守るべき優先順位を、間違えるわけにはいきません」
ロイドは長い沈黙のあと、ふっと口元を緩めた。
「お前がそう判断したなら、領は従う」
「お父様……」
「昔からそうだ。お前は理由を言わずに動く。だが、お前の動いた跡には、必ず救われた者がいた。――災害に異様に強いその知恵、どこで身につけたのか父は知らんがな」
(前世で身につけました、とは言えないわね)
「ありがとうございます。では、すぐに動きます。冒険者ギルドへの使者、商人ギルドとの折衝、魔石の買い付け――」
「折衝はわしがやろう。お前は計画に専念しろ」
頼もしい後ろ盾だ。
私が領内の地図を広げ、備蓄拠点の配置を書き込み始めたとき。
コンコン、とハンナが扉を叩いた。
「お嬢様、旦那様。……その、来客と申しますか、居着いた客と申しますか」
「居着いた?」
「はい。大広間の暖炉の前に、見たこともない大男が……毛布にくるまって、三角座りしておりまして」
私と父は顔を見合わせた。
「……何者なの、それ」
「それが、ご自分から名乗られまして。『辺境守備、竜人将軍ガイ・フェンリル』と……」
氷殺将軍。戦場で恐れられる、二メートル超の凶暴な竜人。
そんな男が、なぜ。暖炉の前で。三角座り。
(……前世でも、ここまで意味の分からない案件はなかったわ)
――――
大広間に足を踏み入れて、私は固まった。
暖炉の前。
銀の角を持つ巨躯の男が、毛布を肩から被り、膝を抱えて座っていた。縦長の瞳孔、鋭い眼光。間違いなく、戦場で『氷殺将軍』と恐れられる竜人将軍だ。
その将軍が。炎に手をかざして。ぬくぬくしていた。
「……あの、フェンリル将軍。当家に、何かご用でしょうか」
私が声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。雪に濡れた銀髪。赤らんだ頬。
「……飯はあるか」
「は?」
「腹が、減った。あと、ここは、暖かいな」
ぽつり、と。
二メートル超の凶暴な大男が、毛布にくるまったまま、心底安堵したような声で呟いた。
(待って。情報が処理しきれない)
「将軍。あなた、氷竜の血を引いていらっしゃるのでは? 寒さには、お強いはずでは」
その瞬間、ガイの肩がぴくりと跳ねた。
「……誰が、そんなことを」
「いえ、世間一般の認識として」
彼はしばらく沈黙し、それから、ぼそりと白状した。
「血が……薄まっている。氷竜の末裔だが、おれは、人一倍……寒さに、弱い」
「えっ」
「将軍が寒がりなど、威厳に関わる。だから、隠してきた。……だが、北の守備は寒すぎる。限界だった」
そして、彼は雪原の彼方を指さした。
「噂を聞いた。この公爵領は、どこより暖かいと。結界で、寒気を防いでいると。――だから、来た」
堂々と。暖を、求めて。
私は思わず、額を押さえた。
(氷殺将軍の正体が、寒がりの甘えん坊だったなんて、誰が信じるのよ)
そのとき、背後からハンナがひょっこり顔を出した。
「将軍様、毛布もう一枚お持ちしましょうか?」
「……頼む」
素直すぎる。
ガイは毛布を受け取ると、また炎に手をかざした。赤らんだ頬で、ほっと息をつく。
その横顔を見ているうちに――なぜか、胸の奥がほんのりと温かくなるのを、私は感じていた。
(誰かに必要とされる、なんて。前世では、忘れていた感覚ね)
――――
それから一ヶ月。公爵領は、戦場のような忙しさだった。
「魔石の熱効率、鑑定の結果が出たわ。この型は出力の四割を無駄に放出している。共鳴回路を組み替えれば、燃費が倍になる」
「だ、倍ですか!?」
技師たちが目を剥く。
「次。保存食の備蓄拠点を、領内に七ヶ所。豪雪で道が寸断されても、どの集落からも徒歩半日以内に届く配置にしてある。物流が止まる前提で組むのが鉄則よ」
(前世の防災計画、まんま流用できるって最高ね。住民避難計画も備蓄ローテーションも、頭に全部入ってるんだから)
冒険者ギルドとの提携も整った。薪の伐採と運搬を冒険者の依頼として発注し、報酬は保存食と暖房付き宿舎の優先利用権。
「金じゃなく『冬を越せる保証』で釣るとは。お嬢さん、商売がうまいね」
ギルドマスターが感心していたが、これも前世の知恵だ。災害時、人が本当に欲しがるのは現金ではなく『安心』なのだ。
領民への教育も徹底した。
「震えが止まったら、それは回復ではなく悪化の兆候です。すぐに暖を取らせ、温かい飲み物を。眠そうにし始めたら、絶対に寝かせないこと」
広場に集まった領民たちが、真剣にメモを取る。
そんな私を、ガイはいつも暖炉の前から眺めていた。毛布にくるまったまま。
「……お前は、よく働くな」
「ええ。働くのは得意なので」
「氷の令嬢、と呼ばれていると聞いた。だが――お前のいる場所は、どこよりも、暖かい」
不意打ちだった。
手元の書類から、顔を上げられなくなる。頬が、熱い。
(……これは、暖炉のせいよ。絶対に、暖炉のせい)
そのとき、私のステータス画面が、淡く光った。
ユニークスキル――【危機管理(前世)】。
誰も持たない、私だけの切り札。
窓の外、空が、いよいよ暗く重く沈んでいく。気温が、急速に下がり始めていた。
(来るわね。百年に一度の――大寒波が)
――――
大寒波は、王都を容赦なく呑み込んだ。
暖房資源の供給契約を失った王都は、みるみる凍えていった。魔石の熱は尽き、結界は機能せず、貴族たちは何枚も毛皮を重ねて震えあがった。
ミレーヌの『陽だまりの加護』は――王宮の一室すら、満足に暖められなかった。
「な、なぜですの……わたくしの加護が、効かない……っ」
半径数メートル。それが、彼女の限界だった。広間の隅で凍える人々には、その温もりは届かない。
そして、王子ヴァルトが――公爵領に、馬を飛ばしてきた。
「セ、セレスティア! 頼む! 王都が凍える! 供給を、供給を再開してくれ!」
青ざめ、唇を紫色にして縋りつく王子。
私は、暖炉のそばで紅茶を飲みながら、契約書を一枚、テーブルに置いた。
「殿下。婚約破棄は、殿下のご意志でしたね」
「そ、それは……っ」
「契約はすでに正式に解消済みです。法的にも、道義的にも、当家が王都へ資源を供給する義務は、一切ございません」
淡々と。怒りもせず、嘲りもせず。それが、一番効くと知っている。
「た、頼む! 国民が凍え死ぬ! お前は、それでいいのか!」
「国民を案じる心がおありなら、なぜ、その国民を支えていた契約を、軽々しく切り捨てたのですか」
王子が、言葉を失う。
「『心の温かいミレーヌこそ妃にふさわしい』――そう仰ったのは、殿下ご自身です」
私は、そっと微笑んだ。氷の令嬢、と呼ばれた、あの微笑みで。
「ならば、どうぞ。温かい心をお持ちのミレーヌ様に、王都を暖めていただいては?」
ガラン、と。王子が膝から崩れ落ちる音がした。
「……っ、お前という女は……!」
「ええ。氷のように冷たい女です。あなたが、そう仰ったのですから」
私は立ち上がり、窓の外を見やった。
吹雪く王都の方角とは対照的に、公爵領は暖かな灯りに包まれている。領民は、誰一人凍えていない。誰一人、飢えていない。
(これが私の答えよ。口先の温もりと、実務の温もり。どちらが本当に人を救うのか)
「お引き取りください、殿下。馬車は冷えますので、お早めに」
――――
公爵領は、冬の只中で賑わっていた。
暖かな魔導インフラに守られた集落。備蓄拠点には食料が満ち、子どもたちは雪遊びに興じている。低体温症で倒れる者は、一人も出なかった。
「セレスティア様! 今日も視察ですか!」
「ええ。各拠点の備蓄量と、暖房の稼働状況を確認するわ」
防寒着に身を包み、雪原を歩く私の頬は、寒さで赤く染まっている。けれど、表情はいつも通り涼しい。
領民たちは、そんな私を見て口々に言った。
「氷の令嬢だなんて、とんでもない。セレスティア様こそ、わしらの『真の聖女』だ」
聖女、か。前世で、誰にも顧みられず働き続けた私が。
(皮肉なものね。あちらでは過労死した社畜が、こちらでは聖女扱い)
そんなことを考えていると、雪を踏みしめる重い足音。
ガイが、毛布を肩からずるずる引きずって、私を追ってきていた。
「……お前、寒くないのか」
「寒いですよ。普通に」
「なら、なぜ視察になど」
「それが私の仕事だからです。寒いから働かない、では、誰も守れません」
ガイは、しばらく黙って私の横を歩いた。
そして、ぽつりと言った。
「氷の令嬢が、聞いて呆れる。――お前ほど、温かい人間を、おれは知らない」
雪が、しんしんと降る。
私は、足を止めた。
なぜだろう。寒さで赤くなったはずの頬が、それとは違う熱で、火照っていく。
「将軍。あなたこそ」
「ん?」
「氷殺将軍が、聞いて呆れます。――こんなに不器用で、優しい人だなんて」
ガイの頬が、ぼっと赤くなった。寒さのせいではない赤だ。
彼は気まずそうに視線を逸らし、毛布を口元まで引き上げて、ごにょごにょと何か呟いた。
「……腹、減った」
「ふふ。帰って、温かいスープにしましょうか」
冷たいと罵られた女と、凶暴と恐れられた男。その二人が、雪の中で、誰よりも温かく笑い合っていた。
――――
やがて、冬は終わった。
王家は、寒波を乗り切れず、ついに隣国へ救援を乞うという屈辱を味わった。代償として領土の一部を割譲し、その権威は地に落ちた。
ミレーヌの『真の聖女』のメッキも、完全に剥がれ落ちた。国家規模の危機に、彼女の加護は何の役にも立たなかった。人の好意を集める才能を実力と勘違いしていた少女は、誰からも見向きされなくなり、王子もろとも、歴史の片隅へと没落していった。
一方、公爵領は――
「セレスティア・ユーグレット様に、外交書簡が三十七通! 各国から『真の聖女』としての招聘が、殺到しております!」
ハンナが書簡の山を抱えて駆け込んでくる。
「お嬢様の冬支度の手腕が、大陸中に知れ渡りまして。どの国も『次の冬を、どうか我が国で』と」
「……はいはい、了解です。一件ずつ、稟議に回しましょう」
(前世の私が聞いたら泣くわね。あんなに働いても評価されなかったのに、こっちでは引く手あまただなんて)
でも、悪い気はしなかった。
雪解けの陽光が、窓から差し込む。長い冬が終わり、領地には早春の風が吹き始めていた。
その風の中。
暖炉が不要になり、所在なげにしていたガイが、私の前に立った。
もう、毛布はいらない。けれど、彼はどこか落ち着かない様子で、銀の角の付け根をかいていた。
「……セレスティア」
「はい」
「冬が、終わった」
「ええ。終わりましたね」
「……ここは、もう、暖かくない。暖炉も、いらない」
「そうですね」
ガイは、ぐっと言葉に詰まった。それから、意を決したように、私をまっすぐ見つめた。
縦長の瞳孔。赤らんだ頬。戦場で恐れられた男が、雪解けの中で、子どものように不器用に。
「次の冬も――ここに、いていいか」
それは、寒さをしのぐ場所を求める言葉では、なかった。もっと、別の。ずっと、隣にいたいという――
私は、ふっと微笑んだ。今度は、氷の令嬢の微笑みではなく。
「将軍。冬だけ、というのは、寂しいですね」
「……っ」
「春も、夏も、秋も。――ずっと、いてくださって、構いませんよ」
ガイの顔が、これ以上ないほど赤く染まった。
「……っ、そ、そうか」
「ええ」
「なら……いる。ずっと、いる」
窓の外で、雪が溶け、最初の若芽が顔を出していた。
そして、遠く――次なる国からの使者の馬車が、雪解けの道を、こちらへ向かってくるのが見えた。
(さあ。次は、どこの国の冬支度かしら)
防災令嬢の、新たな仕事が。そして、不器用な竜人との、新たな季節が。
――まだ、始まったばかりだった。




