ポケットティッシュ
「最っ悪だ。関所が封鎖⁉ ここまで来て、そりゃあないだろう!」
門前の広場で、エミディオは立ち尽くした。
頭を抱え……いや、両手で顔を覆って絶望する。
「カヌセーヌ国内で大きな盗難事件があったとかでな。しばらく出入りができないらしい」
見知らぬ旅人が声をかけ、肩を叩く。
目的地はカヌセーヌ王国の玄関口。関所町ハキューネ。
この一枚の門をくぐれば到着するのに、今はこの扉の幅が海より広い。
ブビィー‼
エミディオは大きな音を立てて鼻をかんだ。
この道中で鼻をかみすぎた。鼻の頭がうっすらと血が浮かんでいる。大量に持ってきた懐紙も、そろそろ尽きてしまう。
「だから、この時期に家を出たくなかったんだ」
浮かび上がる涙を拭うのは悲しさやくやしさからではない。
目がかゆくてたまらない。
腫れた瞼に溢れ続ける涙が、拭っても拭っても視界を奪う。涙を拭う綿布もボロボロになってしまった。
この先に進めれば、宿屋に避難できるのに。店で新しい懐紙と綿布を買えるのに。
「親父の奴、大切な証文を取引先に忘れてくるなんて……」
ハキューネに入ろうと関所に集まった人々は衛兵を取り囲み、口々に自身の予定がいかに緊急かつ重要であるかを訴えている。
「忘れてきた証文を取りに来ましたなんて、恥ずかしくて言えるか!」
エミディオの家は、シルンコリヌ王国の漁師町ノーヅ港で魚介類の加工品を扱う商家だ。
商家から商会にランクアップすれば、免税を受けられるし、設備投資に補助金が出る。商業学校の生徒を研修に招くことも出来るから人手不足も解消する。
ランクアップには、相応の売上が必要だ。
しかし、売り上げを上げるには人手も設備も増やさなければならない。
シルンコリヌの商人ギルドはランクアップが難しいと言われる理不尽なロジックだ。
これを打開するための秘策がハキューネの商会との取引だったわけだが……。
「あろうことか、商運を賭けた大切な取引の証文を忘れてきた上に、風邪をひいて寝込むなんて……。あの、クソおやじ! は、はっくしょーん!」
「大丈夫ですか?」
親切な誰かの姿が、涙に阻まれてうっすらと浮かぶ。
「あぁ、ろうも。らいじょうむれす」
次々と溢れる涙と鼻水。
見知らぬ男はエミディオの顔に、白い何かを押し当てた。
なんだ、これは⁉
柔らかい。どこまでも柔らかくフンワリとした触感。
木綿とも亜麻と違う。もっと軽く繊細でまるで雲のようだ。これがうわさに聞く絹という奴だろうか?
何度も肌に押し当てられては、少しずつ場所を変え、優しく顔を拭っていく。
腫れあがった瞼も、血がにじんだ鼻の頭も、優しく包み込まれる。
押し当てられる瞬間、肌から離れる瞬間、立ち昇る春の花のような微かな芳香。
まるで、この数日の苛立ちも涙と一緒に拭い去られるようだ。
はっと思いあたり、エミディオは現実に引き戻された。
こんなに極上の触り心地の布、超高級品ではないのか?
それを涙や鼻水で汚してしまって、この優しい誰かにどれだけ損害を与えてしまったのか。
「す、すびばせん! こんな高価なものを汚してしばって……」
「大丈夫ですよ。これ、無料で配ってるんで。花粉症かな? 秋花粉は今がピークですもんね。もっと使ってください」
「無料……、無料⁉ コレが⁉ だべです! あなた、なに言ってるですか? こんな素晴らしい布、タダだんてダベです! お金とららいと!」
「あぁ、布じゃないんです。ポケットティッシュって言います。懐紙の柔らかい物ですよ。使い捨てなんで、気にしないでください」
「つ、つ、つ、使い捨て⁉ 捨てるって言うんれすか? この極上の肌触りの物を?」
「えぇ、まぁ。洗えないんでね」
「そんな……。この触り心地の物を一度しか味わわないで捨てるなんて……」
「よかったら、もっと要ります?」
「いいんですか⁉」
「はい。なんか、他の人はもらってくれないんですよねぇ。みんな殺到してもらってくれると思ってたもんだから、余らせると部下にカッコつかないんで」
エミディオは男が差し出したカバンから、貪るようにポケットティッシュを掴みカバンに入るだけ放り込んだ。
ツルツルした透明な袋に、きれいに折りたたまれて入っている。
「ありなとうごだいます! ほんとうに助かります! なにかお礼がしたいんですが、あいにく何も持ってなくて……」
エミディオは感激のあまり、鼻をかんだばかりの手で男の両手を掴みブンブンと振りまわした。
男は顔を引きつらせながら、エミディオの手を振りほどき「お礼はいいので、機会があったらうちの店に来てください。ポケットティッシュにお店の地図を載せたチラシを挟んであるので」と、にこやかに言った。
まだまだ山のようにポケットティッシュが入った大きなカバンを担ぎ、男は「ティッシュいかがですかぁ? 無料で~っす!」と叫びながら、怒号が飛び交う門前へ歩いて行った。
「なんて、親切な人なんだろう……」
エミディオが男の背に呟いたとき、背後から「もしもし」との声がかかった。
「もしや、アレグレ商店のエミディオさんではないですか?」
振り返ると、そこにいたのは目的の商会の主だった。忘れもしない、真ん丸の体に真ん丸の顔。その中心に豆粒のような鼻とキラキラ輝く真ん丸の目。
「マリアーノさん⁉」
「あぁ、よかった。やっぱりエミディオさんだ。最初の商談の時に少しご挨拶しただけだったから、人違いだったらどうしようかと……」
ぷっくりとした手を口元にあて「ウフフ」とはにかむ姿がなんとも愛らしいオジサンだ。
「なぜ、ここに?」
「あなたのお父様がね、証文の入ったカバンを丸ごとうちの店に置いて行ってしまったのを見つけたんですよ。店を任せていた子が気づかなかったようで、遅くなって申し訳ない。はい、どうぞ。これを取りに戻られたんでしょう?」
渡されたカバンを手に取り、エミディオは胸が熱くなった。
さっきのティッシュをくれた男といい、マリアーノといい、こんなに親切にしてもらうのは初めての事だ。
思わず、かゆみも無いのに涙が湧きあがる。
「おやおや、どうなさったんですか? どこかお怪我でも?」
「いえ……、嬉しくて」
そういいながら、またティッシュで鼻を拭う。
「あ、そうだ。このティッシュという懐紙を貰ったんですけど、マリアーノさんはご存じですか? どこかのお店の方のようで……。たしか店の地図がここに挟まっていると……」
エミディオはポケットティッシュに入っていた紙を出して広げて見せた。
見たこともない文字と模様が一面に描かれている。
「エミディオさん。シェイプシフターにでも化かされたのでは?」
「そんな……。でも、ポケットティッシュは確かにここにあるのに」
人混みの中、あの男はすでに姿を消していた。
秋の夜長の、ちょっと不思議な出来事。
~追記~
「そう言えば、関所が通れないのに、なぜマリアーノさんはこちら側に来られたんですか?」
「実はカバンを届けようと出発したのは一昨日の事なんですよ。ただ登山道をまっすぐ行けばいいと思っていたんですが、どこかで間違えてしまって……。道に迷うわ、魔物に襲われるわで、命からがら戻ってきたところだったんです」
「それは……大変でしたね」
「でも、関所が通れなくて家に帰れなくて……」
「良かったら、一緒にノーヅ港に行きましょうか? カバンのお礼に御馳走します」
「助かります」
この夜、アレグレ商店とマリアーノ商会には確固たる絆が生れた。




