【番外編】結婚前夜
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番外編です
19歳になったカインは緊張で眠れない日を過ごしていた。
特にこの3日は、空が白々むまでまんじりと過ごしている。
カインは、明日の朝のためにと用意された婚礼衣装と向き合ったまま、何時間も過ごしていた。
――ついに明日。
カインは、今夜何十回目かの深呼吸をしてみたが、やはり落ち着かない。
昨年のあの夏から季節は2回変わった。
あの日、カインは膝をつき、ジルダのスカートに口付けをした。
貴族の正式な求婚の儀式だ。
「ジルダ――僕と……僕の……」
「はい。承りました」
カインが言い終える前にジルダが答えた。
カインは顔を真っ赤にして立ち上がると、ジルダの小さな両肩を掴んだ。
まだ涙の渇ききらない頬が、キラキラと輝いてるように見える。
「さっ、最後まで言わせてくれ!」
「言われるまでもなく、婚約は10年以上も前に成立しておりますし」
「そうだけど!……そうだけど、そうじゃなくて……それに、承りましたってなんだ!」
カインは恥ずかしさでジルダを発作的に抱きしめて、ジルダの顔を自分の胸に埋めさせた。
「改めて口にすることで伝わることもあるだろ……」
「そうですか――そう、ですね」
ジルダは、手持ち無沙汰な両手でカインの背中を抱いた。
「では、聞かせてくださいまし」
「……」
カインが求婚の言葉を発する事ができたのは、それから一刻ほど経ってからだった。
いつも通りの魔力吸収は、とても楽しみな習慣になっていた。
ジルダの態度は相変わらず澄ましたものだったが、カインにはそれがなぜかたまらなく可愛かった。
「カイン様――おやめください」
カインの左手を握って魔力を吸収するジルダの頬を、カインの右手がつつく。
なぜ、あの頃の自分はジルダの事をあんなにも嫌っていたんだろう。こんなにかわいいのに。
「カイン――いい加減にして」
ジルダが睨むと、カインは嬉しくて笑ってしまう。
澄ましたジルダも可愛いが、怒ったジルダも可愛い。
カインの右手が、ジルダのほつれた髪を巻き取ると、ジルダは照れたように頬を薄桃色に染める。
そんな毎日が、カインにはたまらなく幸せだった。
「カイン、明日は大事な日だと言うのに――」
いつまでも部屋の明かりが消えていないのを察して、侯爵が扉を開けた。
「父上――すみません」
叱られた子供のような表情のカインに、侯爵は笑って後ろに着いてきていたアレッツォに茶を用意するよう伝えた。
「私もアルティシアとの婚礼の前夜は緊張したよ」
アレッツォが用意した茶は、いつか侯爵がしてくれたように少しだけ酒が入っていた。
「父上もですか」
父の微笑みと、茶の香りにカインの心がふと解れたのがわかる。
侯爵はカインの顔を愛しそうに見つめると、不意に真剣な表情になった。
「これは――お前には伝えないでいて欲しいと言われてたんだが」
「教えてください。必要なのですよね」
カインの言葉に、侯爵は目を細めた。
「そうだな――お前も、守られるだけの子供じゃない」
そう言うと、茶を一口飲み込んだ。
「15歳の時に、婚約を続けるか聞いたのを覚えているか?」
忘れるはずもない。カインは小さく頷いた。
あの時、自分が嫌だと言っていれば、今頃2人の関係は変わっていたのだろうか。考えたくないものだ。
「ジルダにも、同じことを聞いていた。そもそもこの婚約は、王の提案だったからな」
初めて聞く話だ。カインの表情が引き締まった。
王は慈悲深い人間だ。だが、国を守るためには非常な一面もあることを、カインはよく知っていた。
「わたくしの意思など」
15歳のジルダは、小さく返答した。
「元々、カインの魔力吸収を行ってもらうためのものだ。幼いとはいえ、未婚の女性が頻繁に家を出て男の元に通うことは君の名誉に関わる。だから私も婚約という手段を呑んだんだ。だが、その選択は君にとって決して幸せなものではなかった。すまない」
大きな体を縮こめるようにして頭を下げる侯爵を、ジルダは悲しそうな目で見つめていた。
「カインの態度は、親の私が見ても目に余る。君が望むのならこの婚約は破棄してもいい――ただ……」
侯爵は言い淀んだ。
それもそうだ。カインの魔力を吸収してもらわねば、いつまた魔力を暴走させるかわからないのだから。
ジルダは、こんな子供に頭を下げなくてはならない侯爵を憐れんだ。
「おじさま、わたくしは大丈夫ですわ」
ジルダの答えは意外だったのか、想定通りだったのか、侯爵には区別がつかない。ただ、彼の胸に安堵が広がったのは確かだった。
「カイン様には憎しみ――と、いうよりも行きどころのない感情をぶつける相手が必要なのですわ」
「君は――」
「もし、カイン様が婚約を解消したいとおっしゃられたら、その時は快く受け入れるつもりです」
ジルダの言葉に、侯爵はただ「すまない」と呟くしかなかった。
「ジルダが、そんなことを」
カインは呆然と呟いた。
ずっと、ジルダはそばにいて当然だと思っていた。
侯爵夫人になって自分を馬鹿にした社交界を見返すつもりだなどと、どこかで聞き齧った非難をぶつけてはいたが、心の奥底ではジルダが自分から離れることなど、考えたこともなかった。
どれだけ厭い、疎んじようと、カインの未来には常にジルダがいたのだ。
「僕は……彼女にどれほど」
「お前だけではない――私も、ずっと彼女に甘えていた」
侯爵はカインの肩を抱くと、自分の胸に引き寄せた。
柔らかい、愛しい人にそっくりな金色の髪の毛を優しく撫でながら、優しい声で言った。
「彼女は言っていた。自分は犠牲になったのではなく、選択したのだ、と」
「選択……」
「そう。ジルダは常に自分で選択したと言っていたんだ――お前には、この意味がわかるな?」
侯爵の言葉に、カインは深く、しっかりと頷いた。
すっかり寝入ったところをアレッツォに叩き起こされると、カインの身支度はあれよあれよと進められた。
「ジルダ様は夜明け前から準備なさってるんです。坊ちゃまも見習ってくださいまし」
家政婦見習いに昇格したアリッサに叱られながら、カインは昨日までの緊張もどこへやら、慌ただしく駆り立てられた。
飾り気がなくても美しかったカインは、女中達のこれまで見たことのない張り切りようによって、さらに美しく仕立てられた。
神殿に到着すると、儀式は厳かに始まった。
大神官の執り行なう儀式を、事前に知らされた手順通り行う。
カインが祭壇に祈りと供物を捧げている間に、香油を垂らした水で、女性神官によって体を清められたジルダが衣装を纏い現れた。
女性神官の手からカインの手に、ジルダの手が引き渡されると、カインの目に涙が溢れた。
この手が、ずっと自分を守ってくれていたのだ。
彼女の意思で、覚悟で。
「これからは、僕が君を守るから」
隣に立ったジルダに、カインが小声で告げた。
「あら、でも、この10年で一番わたくしをいじめていたのはあなたですわよ?」
同じく小声でジルダが答えると、目に涙を溜めたままのカインが、更に泣きそうな顔をしたので、ジルダはたまらず笑ってしまった。
それは、カインが子供の頃に好きだった、ジルダの輝くような笑顔だった。
カインとジルダがやっとここまでこれました
ありがとうございました




