85.
数日後、ジルダはカインの元に一冊の赤い革で装丁された本を持ってきた。。
「これが、おじ様のおっしゃった続きです」
事件の後始末がおわり、ようやく落ち着いたのを見計らって、カインは日記の話をジルダに打ち明けた。
ジルダは相変わらず表情を変えなかったが、「次のお務めの日にお持ちします」と返事をした。
魔力吸収は必要なくなったのに、魔力吸収は続いていた。
カインは「あんな袋では信用できない。――いや、ジルダが作ったものだから信頼に足るだろうが、それでもジルダでないと安心はできない」と言い張ったからだ。
「おば様から渡された日記です。まずは中をお読みください」
ジルダは、カインが一人で読みたいだろうと席を立とうとしたが、カインにしっかりと腰を抱かれて立ち上がれなくなった。
「傍にいてくれ。――君は僕の婚約者だろ」
ジルダは何度見ても見慣れない、自分を見つめる青い瞳に強く断る事が出来なかった。
アルティシアの日記には、カインの成長が事細かに書かれていた。
初めて寝返りをした日、初めて離乳食を食べた日、熱が出てぐずったが抱いてやれないもどかしさ、歩き始めや話始めた日など、全ての出来事が空白がもったいないと言わんばかりの小さな文字でページ一杯に書き残されていた。
そこには、カインのどんな小さな仕草でも覚えていたいと言う、母の姿があった。
カインが4歳になる少し前の日付のページを捲ると、カインが初めて寝室に来た日の事が書かれてあった。
アルティシアが扉の開く音で目が覚めると、小さな歩幅の足音が聞こえてきた。カインだとすぐに分かった。
カインはベッドの周りをうろうろすると、アルティシアの眠っている横にやってきて、しばらくアルティシアを眺めていた。そして、アルティシアの手にそっと触れた。
その手はカインが赤ん坊の頃に触れた以来で、大きくなったと思ったが、やはり小さいままで、アルティシアはその手の温かさに幸せを感じて、握り返したい衝動を抑えるので精一杯だった。
飛び起きてカインを叱りつけ、二度と寝室に入ってこないようにと言わなければならないのに、アルティシアは動くことができなかった。
あと一秒だけ、あと一秒と繰り返しながらカインの小さな手に全ての意識を集中していた。
やがてカインが手を離すと、耐え難い寂しさを感じ、カインが部屋から出て行くのを確認してから、声を殺して泣いたのだった。
その後も、カインは時折寝室に忍び込んできた。
はじめはアルティシアの手に触れるだけだったのが、アルティシアが起きないとわかると手を握り、自分の頭や頬を撫でさせる時もあった。
いけないとわかっていたのに、アルティシアは束の間の幸せを突き放す事ができず、カインが出て行った後はオレリオの胸で声を殺して泣いていた。
神様。お許しください。私はあの子の事を想うとこの手を離すべきなのです。
きつく言い聞かせて二度と来ないようにさせるべきなのです。
ですが、1秒でいいからあの子に触れたいのです。
あの子の温かさをこの身に覚えさせたい。それがあの子の命を蝕む事になるのは理解できているのです。
どうか、私の弱さがあの子を危うくさせないよう、あの子をお守りください。私の勝手があの子の命を蝕むことが無いようお救い下さい。
アルティシアの言葉が書かれたページは所々文字が滲み、涙の跡が伺えた。
ジルダは、自分の腰に回された手に力が込められるのを感じ、カインの背に優しく手を回した。
カインが6歳になる頃には、アルティシアの寿命は尽きようとしていた。
魔力を補給する薬草や、食物を摂り続けここまで命を伸ばしたが、もう長くないとアルティシアは自覚していた。
カインに弱った姿を見せまいと、首都に滞在していたアルティシアだったが、最後はオレリオやカインと過ごした領地で眠りたいと、王宮に最後の挨拶に行った。
ちょうどその日、シトロン伯爵家の末娘が国王に能力発現の報告に上がっていた。
彼女の能力は魔力を吸収するだけではなかった。自分の限界量を超えて吸収した魔力を、他人に分け与える事ができたのだ。
それを聞いた王は、すぐに王妃に謁見しているアルティシアを呼ぶように命じた。
そして、自分の魔力を吸収させると、アルティシアに分け与えるようジルダに命じたのだ。
こうして、アルティシアの命はもうしばらく永らえる事ができた。
「君が――」
カインは自分の腕の中にいるジルダを見つめると、ジルダは黙って頷いた。
「10日に1度――おじ様の魔力を吸収しておば様にお渡ししていたわ」
自分と知り合う前から、一年もの間、ずっと幼いジルダは母の命を助けるため、尽力していてくれたのだ。
カインは言葉に詰まったが、ジルダに促されて続きを読んだ。
アルティシアはカインと過ごせる喜びと、カインに冷たくしなければならない悲しみの中、生き続けた。
7歳の謁見の日、オレリオに促されるがままカインの出来を褒めた時、どれだけ冷たくしてもカインは自分を母と慕ってくれることに胸を痛めた。
誕生会までの時間を、ジルダに頼んで魔力を補充してもらうよう段取りをしてもらっていた。
おかげでカインの誕生日に両親揃って参加する事ができたが、アルティシアに魔力を渡しすぎてジルダが倒れてしまった。
少し休めばよくなると言ったジルダに頭を下げ、アルティシアはカインの傍でカインの姿を見つめる事ができた。
しかし、それは束の間の幸せだった。
カインの魔力が暴走し、アルティシアはカインを守ろうとしたが、カインの魔力に圧し潰されてしまった。
薄れゆく意識の中で、カインの小さな手や、自分を見つめる青い瞳を思い浮かべていた。
ジルダの能力により、魔力暴走は軽微な被害で済んだ。
だが、目が覚めたカインは、アルティシアに何の感情もない目を向けていた。
そこにあったのは幼い我が子の失望し、愛することに疲れた目だった。
これこそが自分が望んだ形ではないのか――カインが自分を憎んでも、自分がカインを愛すると決めたではないか。
しかし、そうではなかった。アルティシアは自分を愛するカインにずっと救われていたのだ。
アルティシアはこれこそが、自分に課せられた罰なのだと、思い知らされた。
それでも、アルティシアには幼いカインが夜ごと触れてくれた温かさがあった。
自分の死後、カインが寂しくないよう、そばにいてくれる友達ができた。
何より、自分の過ちにより、カインに背負わせてしまった過酷な運命を、ジルダが救ってくれる。
アルティシアに思い残すことはなかった。自分が生き永らえたのは、このためだったのだと――ジルダに出会えたことでカインの命を救う事ができたのだ。
アルティシアは、カインと入れ替わるように領地に戻った。幸せな思い出が詰まった土地で最期を迎えるために。




