84.
「からっぽにする必要はないんだよ」
マールは敬語を使う事を諦めたようだった。
ジルダも特に注意もしなかった。
マールと話していると、ロメオやティン=クェンと話しているのとは違う安心感を得る事ができた。
兄とは年に数回しか顔を合わせる事がないが、仲のいい兄弟がいればこんな感じなのだろうかと、ジルダはこっそりと思っていた。
「余りをできるだけ最小にすればいいんだ。そしたら残りを魔法陣で吸収させることができる」
マールの提案にジルダは、目から鱗が零れ落ちる気がした。
「一番消費量が少ないのは剣や盾だけど、数をそろえるのが大変よ」
カインの魔力量を考えると、少なくとも小さい魔石が20個は必要になる。大きい魔石だともっと少なくていいのだが、使い切るのに時間がかかる為、回転率を考えて小さい魔石にする事にした。
「ったく、お嬢さんは本当に頭が固いな。あんたんとこの家は農場を持ってるだろ」
マールは農具に魔石を埋め込めば、一度にたくさんの農夫に使わせて魔石を回収することができると提案した。
奇しくも、カインがイレリアを屋敷に連れ帰った頃だった。
シトロン伯爵家の農場には農夫は大勢いたが、春から秋にかけて貧民街から人を雇い入れる事が多かった。
賃金が安いからだ。
ジルダはイレリアがいなくなった貧民街に、カインが申し訳程度の支援だけ送って放置している事を知っていた。
それを償う意味も込めて、正体を明かさずに貧民街に支援事業を行う事にした。
資金はジルダの個人資産を使う事にした。正体を明かさないのは、イレリアの功績にする為だった。
カインと婚約した直後、ジルダには首都の一画の所有権が王室から祝いの名目で与えられていた。
それは、貧民街を含む商業施設が立ち並ぶ区画だったため、貧民街もジルダのものだった。
これはジルダの身の安全を考慮して、カインと結婚するまではシトロン伯爵家にも明かされず、表向きの管理は王室が行っているとされていた。
ジルダは貧民街に必要な支援内容を、アレッツォやティン=クェンに調査するよう頼んだ。
必要な調査が出揃うと、エスクード侯爵の伝手を使って製糸技術を希望者に教え込んだ。
建物の補修を行い、冬の間の住処と収入源を与え、春になると計画通り魔石の入った農具を無料で貸し出した。
「魔石の効力が切れたら捨てずにお返しください。魔石を交換いたしますので」
ジルダの使いは、ジルダの指示通り丁寧に貧民街の住民達に接していた。
また、農具以外にも魔石の込められた弓や短剣を配布し、首都近郊で魔獣を狩らせた。
そして、魔石を適正価格で買い取ってやると、貧民街の住民だけでなく、平民までもが小遣い稼ぎに魔獣狩りに出かけるようになった。
こうして、集めた魔石の余り魔力を最小限にすることは成功したのだが、肝心の仕組みが難航したままだった。
魔石を空にする事、空にした魔石を安全にカインに渡す事。
これが最大の難関だった。
何しろ空の魔石は、命に関わる危険な代物だ。
ましてや、ジルダを敵視するカインが素直にジルダからの提案を受け入れるかも疑問だった。
そんな時、カインが突然変わった。
イレリアを避けるどころか、ジルダが用意した魔力を安定させる首飾りを受け取ったのだ。
ジルダはカインが遂におかしくなったのかと我が目を疑った。
そして、今回の事件が起きた。
パウロの作った魔法陣は、ジルダ達に大きな手掛かりを与えた。
そして、完成したのがこの袋だった。
「この袋の内部に描かれた魔法陣が、魔石の魔力を吸収します。残り魔力が僅かな魔石程度で作動する魔法です」
ジルダは静かに説明した。
「魔力によって色が変わる布です。この袋が緑に変わったら魔石の魔力は空になったと言う事です。そこに魔力を通すことで魔力を吸収する魔法陣が発動します」
「魔力を吸収する魔法陣?」
カインが不思議そうに尋ねると、ジルダは小さく頷いた。
「あの薬師の魔法陣――」
ジルダの言葉に、カインはあの時の苦痛を思い出して、思わず袋を取り落としてしまった。
「まぁ、カイン様でも怖いものがおありなのですね」
ジルダはくすくす笑うと、床に落ちた袋を持ち上げた。
「あの魔法陣が最後のきっかけでしたわ」
ジルダは大事なものを持つように、両手で袋を包み込んだ。
ラエル卿が回収してくれた魔法陣は、王宮の魔導士とアバルト侯爵夫人に加えて、マールが解析した。
パウロとて、魔法陣そのものを解析出てきているわけではなく、ただ天才的な直感と魔力操作で仕掛けていただけにすぎなかった。
だが、アバルト侯爵夫人とマールが寝る間も惜しんで解析を続けた結果、カインの魔力に反応する仕掛けを見つけ出した。
そして、マールによる試行錯誤の末に、ただカインの魔力だけを魔石に送り込む魔法陣が完成したのだ。
「マールって……あの……」
一度だけジルダが連れてきた錬金術師だと、すぐに気がついた。
「はい。もっとも、あの男は自分の研究欲を満たしたいだけですが」
ジルダが微笑むと、カインの中で何かが疼いた。
ほぼ無意識に、カインは両手でジルダの頬をつまむと、左右に引いてみた。
――笑顔ではない。
カインががっかりして手を離すと、ジルダは両頬をさすりながら、カインを睨んだ。
痛かったようだが、取り乱さないあたりはさすがと言えばいいのか。
カインは、ジルダの膝の上から草竜の袋を持ち上げると、その袋をじっと見つめたあと、ジルダの手を握った。
「君は――これをどういう気持ちで作ったんだ」
「カイン様がいつでも婚約を解消できますようにと」
カインの質問にジルダは、いともあっさりと言ってのけた。
「簡単に言ってくれる――君は僕との婚約を解消したいのか」
カインはジルダの手を握ったまま尋ねた。
「君は――そ……その錬金術師が好きなのか?ナジームはダメでも、あの錬金術師ならいいと言うのか?」
ジルダの回答を待たず、カインはジルダに詰め寄った。
――この人は自分が何を言ってるのかわかってるのかしら。
ジルダは握られた手をどう振りほどこうか悩んだが、思いの外しっかりと握られていて、振りほどけそうにない。
ジルダは小さい溜息をつくと、カインの目を見て言った。
「私は婚約を解消したいとは思っていませんし、マールの事は兄のようなものだと思っていますわ。私はカイン様と婚約しておりますし」
言い終わる前にカインはジルダを抱き締めた。ジルダの優しく温かい魔力がカインに触れた。
「あの時――」
カインの声は震えていた。
「君が転んで腕を折ったあの時、本当は僕が君を助け起こしたかった。『大丈夫?』って言ってあげたかったんだ」
「知ってましたよ?――子供の頃のカイン様は、心を閉じるのがあまり上手じゃありませんでしたから」
ジルダが平坦な声で答えると、カインは顔を赤くした。
「じ……じゃあ僕の気持ちは全部……」
「大まかには」
ジルダの声が少しだけ震えているような気がする。
「すまなかった。もう二度と君を疎かにはしないと誓う」
「苦しいです――カイン様」
ジルダは、抱きしめられたおかげで自由になった手を、カインの背にそっと手を回した。




