73.
アバルト侯爵家からの手紙を持ってイレリアの部屋を訪れたヨルジュは、目の前の凄惨な光景に、手にしていた手紙を取り落とした。
「お嬢様――何をなさっているんですか」
ヨルジュは慌てて上着を脱ぐと、イレリアの足元に倒れているアリッサの体を包むように纏わせた。アリッサは裸だった。
「用は何なの」
「それよりも、なんでこんな酷い事をしたのか聞いてるんですよ!」
アリッサの体は至る所が鞭打たれ、皮膚が裂けて血が流れていた。
「ヨルジュ様――私が悪いのです。イレリア様は私の至らぬ所を正して下さっただけでなのです」
息も絶え絶えにアリッサが言うのを、ヨルジュは制して大声でメイを呼んだ。
急いでやってきたメイに「アレッツォ様に治癒師の手配を」と、言うとアリッサを抱き上げた。
「ヨルジュ!何を勝手な事を――」
「アバルト公子からのお手紙です。今日の昼にお迎えに上がってよいかと」
イレリアの言葉を遮って足元の封筒を目で示すと、ヨルジュはアリッサを抱えたまま部屋を出て行った。
イレリアはヨルジュの態度に腹が立ったが、それよりもアリッサがいなければ返事も支度もできない事に気が付いた。
ヨルジュからイレリアがアリッサに加えた暴行を聞いて、カインは目の前が真っ暗になった。
あの優しく、慈悲深いイレリアがそんな――
「全身の裂傷が酷く、一時は危ぶまれましたが、アレッツォ様が治癒師を手配してくださったおかげで傷の方は跡形もなく治るとの事です。治療費については――私がお支払いしますので、勝手に治癒師を呼んだことについてはお許しください」
ヨルジュは深々と頭を下げた。
治癒師の魔法による治療は、傷をほぼ跡形もなく治せるが、非常に高額なのだ。
こんな時に何を言ってるんだと、カインはヨルジュを見た。
ヨルジュの目は、カインへの猜疑の色が浮かんでいる。
当然だ。自分が連れてきた女性が起こしたことなのだ。その責任は自分にある。
「すまなかった――治療費については心配しなくていい。私が責任を持とう。アリッサへの補償も考える――イレリアは……彼女はなんでそんなことを」
「折檻の理由を聞いても、アリッサは頑なに『自分が悪い』『イレリア様に対する配慮が足りなかった』としか言いませんでした。ですが、イレリア様の名を呼ぶときは……恐ろしかったのでしょう。目に涙を浮かべ、震えてました」
ヨルジュの言葉に、カインは頭を抱えた。
アリッサは侯爵が手配した侍女だ。
平民とはいえ、侯爵が雇用する人間を鞭打って重傷を負わせるなど、考えられない。
いや、それよりも彼女がそんな酷い仕打ちをしたことがまだ信じられない。
「イレリアはどうしている」
混乱を必死で抑えて、絞り出すように尋ねた。
違う。ヨルジュにはもっと聞かなければならないことがあるのに。
だが、今はまずこの事態を収めなければいけない。
「アバルト公子からのお手紙が届いていましたが、置いてきてしまいました。この状態ではお断りを――」
「いや、招待に応じるように。僕からは何も言われなかった。いいな?」
自分でも驚くほど冷静に、落ち着いた声が口から出た。
「承知いたしました。代わりの侍女をアレッツォ様に手配いただいていますので、招待には応じるようお伝えをしてまいります」
ヨルジュはカインの視線から何かを感じ取ったのか、何も聞かずに深々と頭を下げた。
アレッツォから優秀な男だとは聞いていたが、その評価は正しいようだった。
その男が一体なぜあのような事態を引き起こしたのか――いや、それよりも事態はもっと悪い方向に進んでいる。
ヨルジュが下がると、カインはアレッツォを呼ぶよう、女中に告げた。
イレリアはカインに怒られるのではないかと、ソファに深く腰掛けて悩んでいた。
さすがにこれは看過できない事態だということは、イレリアにもわかっている。
なぜあそこまで感情的になったのか。
最近の自分は、特に感情の抑制が利かないと自覚はあったが、ここまで怒りをぶつけた事は人生で一度もなかった。
はじめは軽く打つだけのつもりだった。
だが、アリッサのあの目は、惨めだった頃の自分を彷彿とさせる目だった。
より辱めを与えるべく服を脱がせた。
アリッサを鞭打てば鞭打つほど、その目は色濃く恐怖を浮かべ、憐みを誘う涙はイレリアの苛立ちをより増幅させるだけだった。
貧民街の生活は、生きるだけで精一杯だった。
焚き木を集めて町に売りに行くと、卑しい奴らが町を歩くなと石を投げられることはしょっちゅうだった。
薬師に拾われるまで、髪はシラミがわき、体は垢にまみれて悪臭が纏わりついていた。
優しかったパン屋のおばさんでさえ、初めて店の戸を叩いた時は店の中に入るなと箒で追い払われたほどだ。
川や泉で体を洗う事を教えてもらってからは、皆で少しでも身綺麗にした。
身綺麗になると、もっと割のいい仕事をさせてもらえるようになった。足の悪い老人の代わりに井戸から水を運んだり、荷物を運ぶ仕事など、わずかだが人間らしい仕事だ。
それでも、汚い卑しいと蔑まれ暴力を振るわれる日々は変わらなかった。
だが、自分だけではなかった。自分よりももっとひどい扱いを受けている人も沢山いた。
イレリアよりも年上で美人だったララは、ある日農場の小屋で男達に乱暴された。
抵抗を諦めたララに味を占めた男達は度々ララを強姦し、罪滅ぼしに銅貨を数枚握らせて帰した。
季節が変わる頃、ララの腹は隠しようがないほど大きくなっていた。男達のうちの誰かの子供だった。
腹が大きくなるにつれ、ララは発狂したように暴れだし、遂には川に身を投げた。
川から引き揚げられた変わり果てたララを見て、幼いイレリアはまだ自分は大丈夫だと思った。ララほど酷い状態ではない。
イレリアはララの腹が大きくなり、働けなくなると代わりに働いて食事を与えていた。
他の働けない人にも同じようにしていた。病でやせ細り、手足を失った者達に食事を与え、手助けをしていると、イレリアは満たされた。
自分はまだこの人達ほど酷くない。その思いが胸に溢れていたのだ。
15歳になったイレリアは、汚れても尚美しかった。
薬師の庇護の下、誰よりも働いて収入を得ては皆に分け与え、貧民街の誰もがイレリアを湛えた。イレリアもまた、皆から愛されていることを実感していた。
しかし、それは貧民街の中だけだった。一歩外に出れば、イレリアは美しいだけの貧民だった。
薬屋の仕事がない時は朝早くから焚き木を拾い、町に売りに行って、農場で仕事をもらう。
そんな日々の中で、イレリアの日常が崩れた。
焚き木を売りに行った帰り道、イレリアは6人の男達に囲まれて建物の陰に連れこまれた。
こめかみを拳で殴られ、意識を失いそうになると地面に押し付けられ服を剥ぎ取られた。
手足を押さえつけられ自由を奪われたイレリアの脳裏に、川から引き揚げられたララの亡骸が浮かんだ。
いやだ。あんな惨めな死に方は嫌だ――私はみんなとは違うんだから――
イレリアは男の腕に噛みつき、手足を振り回し抵抗を試みた。
しかし、一人の足がイレリアの腹を力任せに蹴りつけ、抵抗する気力ごとイレリアの自由を刈り取った。
「目を閉じて我慢をしてればいいのよ。そしたらすぐに終わるの。慣れれば大した事じゃないの」
なぜ抵抗しないのかと聞く幼いイレリアに、ララが答えたのを思い出した。
貧民街の外の人間にとって、貧民街の人間は人間ではない。
男は殴られ、女は犯される。
自分だけではない。みんながされていることだ。ついに自分の番が来ただけだ。
目を閉じて我慢すればいい。そしたらすぐに終わるのだ。
抵抗を諦めたイレリアを見て男達は喜び、イレリアの足を広げると男のそれをイレリアの股間に押し付けた――
とうとうと諦めたイレリアの耳に飛び込んできたのは、男達の悲鳴だった。
不意に体の自由を取り戻したイレリアが目を開けると、男達の体は吹き飛ばされイレリアから離れたところでそれぞれ血を流して倒れていた。――死んだのだろうか。
「大丈夫か?」
聞きなれた声が耳を撫でる。
薬師が来ていた外套を脱ぐとイレリアの体に被せてくれた。
イレリアは薬師に抱き着いて泣き喚くと、薬師は優しく温かな手でイレリアを抱き締め、安心からか意識が遠くなるのを感じていた。
「――危なかった。もう少しで使い物にならなくなるところだった」
眠りに落ちる前に、イレリアはそんな言葉を聞いたような気がした。




