61.
イレリアはカインの出立を部屋から眺めていた。
なぜカインは昨日、急に席を立ったのだろう。自分が感情的になったからではない事は確かだ。
確認したくても、昨夜のあの表情を思い出すと、怖くてカインの前に立てなかった。
それに――。
さっきの事だ。ジルダが魔力吸収を終えて、帰って行く姿を窓から見ていたイレリアは自分の目を疑った。
いつもはサロンで別れると、すぐにイレリアの部屋に来ていたカインが、ジルダを車寄せまでエスコートして獣車を見送っていたのだ。
なぜ?カインはジルダ様を嫌っていたんじゃ――
それに、ジルダには求婚している男がいるはずだ。確か北方の民族の……
なのに、遠目から見たカインはジルダと離れ難い雰囲気に見えた。
そもそも二人は今年結婚を囁かれている婚約者同士だ。もしかしたら侯爵の口添えで関係を改善するような動きがあったのかもしれない。
そうなったら自分は――
イレリアの心にはっきりと、嫉妬と憎悪と言う感情が生まれた瞬間だった。
「イレリア嬢の見送りはなかったね」
隊員が乗り合わせる獣車の中で、隣に座ったティン=クェンが言ったが、カインは答えなかった。
正直、イレリアが見送りに来なくてよかったと思っている自分がいる。
イレリアの事は愛している。
その気持ちに変わりはないはずなのだが、昨晩のあの笑みを見た瞬間、カインの心は凍り付いた。
まるで貴族じゃないか――
貧民街にいたイレリアは貧しくとも美しく、精一杯生きていた。どんな表情も活き活きとして輝いていた。
だからカインはイレリアに心惹かれたのだ。
なのに、昨日見たイレリアは、まるで貴族のように上っ面だけの笑みを浮かべて取り繕おうとしていた。
カインは思い出しても不快感が拭えなかった。
「イレリア嬢と言えば」
ダーシー卿が口を開いた。
「社交界でもちきりだそうですよ。イレリア嬢の素晴らしさは」
「ほお。例えばどんなだい?」
カインの代わりにティン=クェンが聞き返す。
「私の妻から聞いた話ですが、なんでも貧民街の救済事業をなさっているとか――」
カインは自分の耳を疑った。
イレリアが?彼女はずっと侯爵家で教育を受けて、披露目を終えてからは社交に忙しいし、夜は自分と一緒にいたはずだ。
そんな話は一度も聞いていない。
「その話を詳しく聞かせてくれないか?」
「え?そうですね、人の噂は脚色が入ったりしますからね」
ダーシー卿はカインがイレリアの噂が、自分の知っている事実と合っているか心配しているのだと勘違いして、笑顔になった。
「昨年の秋の月の中頃から、貧民街で定期的に炊き出しが行われるようになったそうなんです」
去年の秋の月の中頃というと、カインがイレリアを侯爵邸に連れ帰った後のことだ。
カインは貧民街のマルコという老人に食糧などを差し入れるよう、アレッツォに頼んでいたが、アレッツォからも炊き出しなどの報告は受けていない。
ダーシー卿は続けた。
「冬の月が始まる頃には、倒壊した建物の瓦礫を撤去する仕事が始まりまして、残った建物の補修や、空いた土地に簡易的な住居がいくつか建てられてんです」
そんな大掛かりなことが起きていたなんて、カインは知らない。いや、その頃はイレリアに夢中になって、仕事以外のことは完全に無関心だった。
横目でティン=クェンを見ると、当然知っていたと言いたげな顔で話を聞いている。
「それから、大量の麻や綿花が持ち込まれて、希望する人間に糸作りの技能を教えたと。おかげで、農作業や焚き木拾いができない冬の間の手仕事ができるようになって、寒さや飢えて死ぬ人間が大幅に減ったそうなんです」
確かに、この冬は行き倒れの死体処理の件数が少なかったと、カインは思い出した。
治安維持はカインの部隊の管轄ではない為、さほど気にも留めていなかったが、例年に比べると大幅に減っていたことは分かる。
「春にはシトロン伯爵の農地を借りて綿花や麻が植えられたそうですよ」
ダーシー卿の言葉にカインは驚いた。
シトロン伯爵家が貧民街のために農地を貸し出すなんて。そんな人間ではないはずだ。
「新しい農具も貸し出されまして――それも魔石がはめ込まれた高価なものです。農園の手伝いの連中が大喜びしていましたよ」
話を聞いていたカルマイ卿が口を挟んだ。
「結界の巡回の時に聞いたんです。――分不相応な高価な農具を持っていたので、てっきり盗んできたのかと思ったんで……」
しかし、それらは正体不明の支援者が貸し出したのだという。
「そういえば結界の外で魔獣を狩ってた奴らも、魔石の入った高価な武器を持ってましたね」
ラエル卿も思い出したように会話に参加した。
カインは、今年は魔獣による農地の被害報告が少なかったことを思い出した。
「妻はこんなに潤沢な資金を提供なさる侯爵家と、素晴らしい支援を指揮されたイレリア嬢を女神のように崇めています。まさに貧民街の女神だと――実際、そのお姿も女神のようにお美しいし」
隊員たちが口々にイレリアを賛美する様に、カインは何も答える事が出来なかった。
それだけ大がかりな事業をしているのなら、かなりの金額が動くはずだ。自分が気が付かないはずはない。
侯爵家の予算は父が管理しているが、首都の屋敷とイレリアに割り当てられた予算はカインが管理しているのだから――
支援内容の報告を受けて、イレリアは愕然とした。
せいぜい炊き出し程度だと思っていたのに、ここまで大掛かりで見事な支援とは。
「支援の本人ですが――かなり探らせてみたのですが、正体は全く分かりませんでした」
侍従のヨルジュは申し訳なさそうに頭を下げた。「しかし――」ヨルジュは続けた。
「巷では全てイレリア様の功績となっています。黙っておいでになればよいのでは?」
「その篤志家とやらの気が変わって正体を明かしたらどうするのよ――私は嘘つきとして社交界の笑い者だわ」
「ですが、イレリア様はしかとお認めになったわけではありません。ただ曖昧に返事をなさっただけではないですか」
カインの信頼を失う事より社交界の評判を気にするとは――ヨルジュは内心呆れたが、口にはしなかった。
侍従を命じられた当初は、イレリアはまだここまで貴族然とした態度ではなかった。
元は使用人達よりも身分の低い貧民街の住民だったことが彼女の中で遠慮として残っていたのだろう。
しかし、社交を開始してから少しずつ変わっていった。
羨望と崇拝の眼差しで見られるようになり、自信がついたのだろうと、その時は好ましく思っていた。
だが、そこからは違った。
社交界で注目を浴びるのと比例して、彼女は特権を得たかのように、使用人への態度を傍若無人なものへと変えて行ったのだ。
――それでも、主人として仕えるよう命じられたのだ。己の本分を全うせねば。
ヨルジュは頭を上げると、イレリアに提案した。
「それならば、嘘ではなく本当にすればよいのです」




