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侯爵家の婚約者(リライト版)  作者: やまだ ごんた


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58.

 侯爵の執務室の前を通ると、灯りが漏れていた。

 カインは扉を叩くと、侯爵の返事を待った。

 わずかな間が開いて中から侯爵の返事が聞こえたので、カインは中に入った。

 カインの泣き腫らした目を見て、侯爵は驚いて執務の手を止めると、カインの手に持たれた赤い革の装丁がされた本に目を向けた。

「読んだのか――」

 侯爵の問いかけにカインは無言で頷いた。

 侯爵は立ち上がると入口から動かないカインの肩を抱いて、ソファに座らせると、自ら茶を用意してカインの前に出して、隣に腰を下ろした。

「ここにこの酒を――垂らすとうまいんだ」

 飾り棚から琥珀色の酒が入った瓶を取り出すと、ひと匙分を茶に入れて、カインに飲むように促した。

 一口飲むと、茶の香りと酒の風味が口の中に広がって、カインの心は少しだけ楽になったように感じた。

「――私は――ずっと勘違いをしていました。母上は私を疎い、憎んでいるのだと」

「アルティシアは、お前を誰よりも愛していた」

 侯爵は低く、優しい声で答えた。

「なぜですか。なぜ――母上がお亡くなりになってからも隠していたんですか」

「アルティシアの意思だ。お前を守る為とは言え、お前に嫌われるよう振舞い、お前を傷つけたのは変えようもない事実だ。死んだ後で許されようなど彼女は思ってはいなかった」

 死した後も罪を背負うのだと、強い意志が彼女にはあったのだと、侯爵は唇を噛んだ。

「それに――」

 侯爵はゆっくり息を吐くとカインの手を握った。

 いつも自分を包んでくれた、温かい体温がカインの心の奥にある何かをゆっくりと溶かしていくような感覚が広がる。

「幼いお前には理解ができなかっただろうし、理解ができる年になればきっと、自責の念で耐えられなくなるに違いないと、アルティシアは、言っていたよ」

 侯爵はカインの中に彼女の面影を見つけ、優しい目で息子を見つめた。

 アルティシアは触れ合えなくとも、近くで見つめることすらかなわなくとも、それでも我が子を愛し見守っていたからこそ、カインの本質を理解していたのだなと、心の中で語りかけた。

「母上は――そこまで私を愛してくださってたのですね……そして、父上も……」

 カインは父の温かさに、また溢れ出る涙を止める事は出来なかった。

「愛さないわけがないだろう?お前は私の息子で、アルティシアが命懸けで守った子だ」

「それなのに――それなのに僕は――」

 カインは子供の頃の秘密を漸く父に打ち明けた。

 子供に戻ったように泣きじゃくりながら告白する間、侯爵はずっとカインの手を握っていた。

「アルティシアは――知っていたよ」

 侯爵の言葉に、カインは弾かれるように顔を上げた。

「母上は……そうだったんですか。でも……」

 カインはまだ、自分の胸の奥に黒い熱が籠っていることに気が付いていなかった。

「なぜ、ジルダだったんですか。最後の時、母上が呼んだのはジルダだった」

 きっと理由があるのだろうことはわかっていた。

 だが、それでもあの時彼女が死ぬ間際に会いたがったのは、自分ではなくジルだったのだ。

 侯爵は何かを言おうと口を開いたが、すぐにゆっくりと息を吐いて首を横に振った。

「私の口からは言えない。――その日記には続きがある。その日記の続きはジルダ嬢が持っている」


 翌日、カインは昼前まで眠っていた。

 泣き疲れたのと、父が淹れた茶に入った酒精の強い酒のおかげで、部屋に戻るとベッドに沈み込み夢も見ずに眠ることができた。

 昨日の事は夢だったのだろうか――いや、吐息から漏れる微かな酒の香りは夢ではない事を物語っている。

 女中が用意した盆で顔を洗うと、鏡に泣き腫らした情けない自分の顔が写っていた。

 夢ではない。

 日記の続きをジルダが持っている事について、カインは侯爵に何度も食って掛かったが、ジルダに直接聞くようにと言われただけで、侯爵は何も言おうとはしなかった。

「話と言うのはな、第三者から聞くとその人間の感情や感想が込められるものだ。アルティシアの想いはアルティシアから直接聞くのがいい」

 そうとだけ言って、カインに部屋に戻るように言った。

 カインはもう母の愛情を疑う事はなかった。

 だが、それでも尚ジルダは母にとって特別な存在だったのかと思うと――カインは拳を強く握りしめた。


「カインさま。イレリアさまが昼食をご一緒したいと申されています」

 イレリアの侍従のヨルジュが言いに来たのを、カインは少しだけ疎まし気に見つめた。

 そうだ。今日は一緒に過ごそうとイレリアと約束していた。

 だが、イレリアのことを思い浮かべても、以前のような衝動は上がってこなかった。

 会いたい気持ちはある。だが、それはどこか他人事のような感情だった。

 カインは、返事を待つヨルジュに伝えた。

「すまない。急な用ができたんだ。僕は出かけるので昼食は――また連絡すると伝えてくれ」


 カインはシトロン伯爵邸の門の前にいた。

 今は何を置いてもイレリアに会いたいと思えなかった。それよりも、侯爵が言っていたことをジルダに問い質したい一心で、シトロン伯爵家へ草竜を走らせていた。

 先触れもなく、シトロン伯爵邸に来るのは初めてだ――いや、ジルダと婚約した当初はロメオやティン=クエンと一緒にジルダを誘いに来ていたなと、カインは思い出した。

 4人でたくさん遊んだのを覚えている。僕はジルダが大好きで、不器用にしか笑えない彼女をたくさん笑わせてあげたくて――

 そこまで思い出して、カインは愕然とした。

 なぜ、自分はこの思い出を忘れていたんだろう――ずっと、ジルダが冷たかったわけじゃない。ジルダは何と言っていた――?

 混乱がカインを襲う。

 自分の中で何かが起きている――何が?

 伯爵邸の門衛が、草竜の上で身動きしないカインを見て、主人に取り次ぐべきか悩んでいた。カインもまた、混乱した頭を抱えてこの後どうしたらいいのかが見つからず、両者の間で微妙な空気が流れていた。

「カインか――?」

 その空気を変えたのは伯爵邸から草竜に乗って出てきたティン=クエンだった。

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