57.
自分がカインの命を危うくしていると知ったアルティシアは、しばらく泣き暮らした。
だが、ようやく立ち直るとオレリオに決意を話した。
それはカインの命を守るために、これからはカインには触れない事。
カインがアルティシアに近寄らないよう、冷たく接する事だった。
「そんな事をすれば、下手をすれば君はカインから憎まれることになる――そんなのは僕には耐えられない」
「それでも……カインの命を守るためです。もし――万が一カインが抱えきれないほどの魔力を持ち、制御を失ってしまう事があればどうなるかお判りでしょう。それに比べたら、私がカインに憎まれる事くらいどうでもありませんわ。カインが私を嫌っても、その分私がカインを愛しますから」
日記を読み進むほどに、そこにあったのはカインを想う夫人の愛だった。
イレリアは侯爵と夫人がこれほどまでに深く愛し合っていたことを知り、また同じくらいの愛をカインに注いでいたことが嬉しくて、隣に座っているカインを見た。
カインは泣いていた。
すすり泣くでもなく、声を上げるでもなく、ただ目を見開いて青い瞳から大粒の涙を静かに流していたのだ。
「カイン――」
「僕は――」
震える声でカインは漸く言葉を発した。
「母上は僕の事が嫌いなのだとずっと思っていた。僕の顔を見れば顔を歪め、口を開けば貴族らしくするように――首都に来る時も一緒の獣車には乗ってくれず、ずっと――ずっと勘違いして母上を憎んでいた――。でも母上は僕の事を守るために、僕が近付かないよう敢えて嫌われるよう振舞っていたんだ。僕はそれが分からなかったから――」
カインは一気に言うと両手で顔を覆った。
イレリアは男の人がこうして泣くのを見たことがなかった。
なんと美しく泣くのだろうと、まるで目の前で起きている事が夢のように感じられた。そして、手を伸ばすとカインを抱きしめた。
「わからなくて当然だよ。子供だったんだもの」
「違うんだ」
カインは優しくイレリアを引き剥がす、目を閉じ項垂れた。
「母上恋しさに、夜ごと母上の寝室に行ってはその手に触れていたんだ」
幼いカインは母親がどれだけ邪険にしても、自分がいい子になれば母上は笑ってくれるはずだと、ずっと自分に言い聞かせていた。
だが、どれだけ頑張っても母は褒めるどころか、カインの不出来なところを責め立てるだけだった。
ある晩、カインは眠れなくて夜中に部屋から出た。
邸の中を歩き回ってたどり着いたのは両親の寝室だった。
そっと扉を開けて部屋の中を覗き込むと、ベッドが見えた。
カインは静かに中に入ってみたが、ベッドの中の人物は動く気配がなかったので、すっかり気が大きくなったカインは、ベッドに近寄ると背伸びをしてベッドを覗き込んだ。
そこには昼間に使用人に読んでもらった、森で眠る美しい女神の物語に出てきそうな、美しい母がいた。
カインはそっと上掛けから出ていた手に触れてみた。
小さな手が初めて触れた母の手は、使用人のそれとは違い、優しくて柔らかく、カインがずっと憧れていた通りの手だった。
カインはもっと母に触れていたかったが、起してしまう事を恐れて、来た時と同じようにそっと部屋を出ると部屋に戻った。
しかし、その足取りは来た時とは違い、軽やかなものだった。
その日からカインは、しばしば使用人の目を盗んでは、両親の寝室に忍び込み母に触れていた。
それは小さなカインにとって、唯一の救いの時間であり、母への想いを維持し続けるための儀式でもあった。
「7歳の時、魔力漏れを起こしたのも、魔力暴走を起したのも、僕が母上のお心を無駄にしてしまったからだったんだ」
カインは声だけでなく、体までもが震えていた。
イレリアはカインを抱き締めた腕に力を込めた。
「カイン――あなたもお母様も、お互いを愛してたからこそよ。誰も悪くはないわ」
カインはイレリアの腕の中でしばらくの間、声を殺して泣き続けた。
二人がそれぞれ部屋に戻ったのは日付も変わろうかという時間だった。
カインは日記をイレリアから預かると、その手でイレリアを抱き締めて「ありがとう」と言った。
「君がこれを見つけてくれなかったら、僕はこの先もずっと母上を恨み、憎んだままだった。それを救ってくれたのは君だよ、イレリア。――ただ、少しだけ僕は父上と話さないといけない事ができた。すまないが明日の約束は――」
「いいのよ」
申し訳なさそうに言うカインに、イレリアは慈しみ深く微笑んだ。
「夕食は一緒に食べよう。――必ずだ。約束する」
イレリアが頷くと、カインはイレリアに口付けをして、二人は別れた。
イレリアはカインが寝室に来ない事を残念に思ったが、昼間に体を重ねたばかりだったし、あの日記を読んだ後ではその気も起きないのかもしれないと思いなおした。
ただ――カインに日記を渡してしまったのは失敗だったかもしれないと思った。
カインの事が書かれた箇所だけ読み飛ばしていたが、読み飛ばした中には、社交界での出来事やイレリアが望んでいた慈善事業の事が書かれたページがいくつか見られたからだ。
まぁいい。明日の夕食の席でカインにお願いをしてみよう。カインなら自分のいう事はなんでも聞いてくれる――
イレリアは親と言うものがよく分かっていなかった。
アルティシアの愛と献身にはとても感動した。だが、それはイレリアの中には知り得る事ができない物語のような感覚だった。
イレリアにとっての愛とは、カインと育んだ燃えるような愛で、体を重ね合って実感するものだけだったのだ。




