47.
夏を迎える舞踏会から3日後、イレリアはアバルト侯爵家の昼食会に招待されていた。
あれからアバルト侯爵家に招待されるのは、今回が初めてだ。
アバルト侯爵邸に向かう獣車で、イレリアはぼんやりと窓の外を眺めていた。
あれからカインとは寝室を共にしてはいない。
お茶や食事などの短い時間のみで、ゆっくり触れ合うこともできない。
気持ちが離れたのかと不安になったが、カインの態度やイレリアに向ける熱っぽい視線は今までと変わらない。
「君とのことを真剣に考えているからこそ、今はけじめをつけなければいけないんだ。わかってくれ」
そう優しく諭されると、イレリアも強く出ることができない。
「君のことばかり考えてしまって、ついあり得ない失敗をしてしまったんだ」
その反省を込めてしばらくは仕事に集中したいのだと、申し訳なさそうに言うカインに、イレリアは何も言えなかった。
その日はそれで終わりだった。
イレリアは、口付けも抱擁もないカインの態度に少し違和感を持ったものの、仕事で失敗をしたのなら仕方ないことかもしれないと納得することにした。
イレリアが物思いに耽っている間に、獣車はアバルト侯爵家に到着した。
御者がキャビンの扉を開け、イレリアが降りるのを手助けしようとしたが、すぐに別の手が差し出された。
「またお会いできたね。イレリア嬢」
ロメオがイレリアに微笑んだ。
イレリアはその手を取ると、軽やかにステップを踏んで獣車から降りた。
「今度はちゃんと私の手を取ってくれたね」
ロメオの悪戯ぽい微笑みに、イレリアは頬が赤らむのを感じた。
戸惑いを覚えつつ、ロメオのエスコートで屋敷の玄関に入ると、侯爵夫人が出迎えてくれた。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
イレリアが膝を曲げて深く礼をするのを見て、ロメオは軽く眉根を寄せた。
随分と上達して不自然さがなくなり、優雅に見える。――だが、どこかで見覚えがあるような。
「お越しいただけて光栄ですわ。社交界ではあなたを讃える話題でいっぱいですのよ」
侯爵夫人は朗らかに笑うと、ロメオにイレリアをダイニングに案内するよう伝えた。
ダイニングには既に到着していた招待客がそれぞれパートナーと着席しており、イレリアだけが一人で来ていた事に気が付いた。
――招待状には同伴者が必要なんて書かれていなかったわ。
正確にはイレリアは難しい文章は読めない。ヨルジュが読み上げるのを聞いていたのだが、ヨルジュがうっかり読み飛ばしたのか?
ロメオの腕に回した手に思わず力が入ったが、ロメオがその手をそっと包んだ。
不意の行動にイレリアは驚いてロメオの顔を見上げた。
「あなたのパートナーは僕だよ。母のいたずらだ。こういうことが好きな人なんだ。付き合ってやってくれないか」
イレリアの心の内を察したのか、ロメオが小声でイレリアに教えた。
その顔はどことなくカインにも似ていて、イレリアは急に胸が高鳴るのが分かった。
イレリアとロメオが席に着くと、彼らが最後の参加者だったようで、昼食会は始まった。
いつもの茶会とは違い、男性も参加する席はイレリアには初めてで、いつものようなゴシップやファッションと言った話ではなく、政治や経済の話が所々に飛び交っている。
イレリアは理解が追い付かず、ただ微笑みを浮かべて皆の話に頷くだけで、イレリアに向けられた質問の殆どは、隣に座っているロメオが受け答えをしていた。
イレリアはその姿を見て、カインと違う何かを感じ、再び頬が赤くなるのが分かった。
食事も終盤に差し掛かり、果物やケーキなどの甘味が皿に取り分けられた頃。
「昨夜は見ものだったそうじゃないか」
紳士の一人が口を開いた。
「ああ。あのお話ですわね」
以前茶会に招かれたフィッツバーグ子爵夫人だった。
夫人は嬉しそうにイレリアに視線を投げかけた。
「わたくしは参加しておりませんでしたが、噂は耳にしていますわ。なんでも夏を迎える夜会の場で、シトロン公女が求婚されたそうで――」
その言葉に、イレリアは全身の毛が逆立つのを感じた。
まさか、カインが――?
イレリアは皿に置かれた果物を見つめていた。
どうすればいい――?私はどんな顔をすればいいの?カインが私を裏切ったの?
「アシャールの族長の息子でしたか」
「確かシトロン伯爵の祖父が、アシャールの豪族だったとか」
ジルダに求婚したのがカインでないと知るや、イレリアは小さく、しかし深く安堵の溜息を漏らした。
何と好都合なのだろう。きっとカインは喜んで彼女を差し出したに違いない。
イレリアは微笑みを浮かべて、貴族達の話に耳を傾けていた。
「なんてお似合いなのかしら――ああ、でもエスクード公子は大変お怒りになっていらしたんでしょう?」
フィッツバーグ子爵夫人のギスギスした声が、イレリアの耳を不快に揺らした。
「アシャールの男性とエスクード公子がシトロン公女をめぐって修羅場になっていたとか」
フィッツバーグ子爵夫人の視線は、ずっとイレリアに注がれていた。
イレリアは話が飲み込めない。
なぜだ。カインは婚約を解消すると言っていた。ジルダが他の男に求婚されていたなら、喜んで解消するのではないのか。
「私も昨夜はその場におりましたが――」
ロメオが朗らかな声で割って入った。
「ナジーム・アシャール殿は酷く酒に酔っておられたようです。僕の親友は、酒で我を忘れた野蛮な男に婚約者を侮辱されて黙っているような情けない男ではありません」
それは、朗らかで人好きのする笑顔と、優しく張りのある声だったが、これ以上この話をしてはいけないという圧力を感じさせた。
その姿はとても頼もしく、イレリアはロメオから目が離せなくなっていることに気が付いていなかった。
「そ……そういえばご存知?最近貧民街に支援を行っている篤志家がいるという噂」
慌てた女性が、話題を変えようと口を開いた。
「私も聞いたことがあるな。なんでも定期的な炊き出しや物資の支援だけでなく、住居の整備も始めているとか」
見知らぬ男性が同意すると、我も我もと声が上がったが、イレリアは聞いていなかった。
イレリアの神経は自分の右側に座っているロメオの存在に集中していた。
「私も聞いた事がありますね。たしか、秋の月の終わり頃からだとか――」
微笑みを浮かべながらロメオはイレリアを見つめた。
知的なブルーグレーの瞳がイレリアを映すと、イレリアは胸が締め付けられるような、しかし甘い感覚が胸いっぱいに広がるのが分かった。
「イレリア嬢はお聞きになった事はございまして?」
侯爵夫人が好奇心を隠そうともしない表情でイレリアに問いかけたので、イレリアはいきなり現実に引き戻された。
「い……いえ。私はお恥ずかしながら世間の事には疎いもので――」
慌てて体裁を整えたイレリアは、微かに覚えていた会話から貧民街の話題だとすぐに知ることができた。
なぜここで貧民街の話など出すのだ。
イレリアは赤らめた頬が青ざめるのが分かった。
自分が貧民街の出身だという事は国中に知られている事だ。
イレリア自身もそれを隠すことなどしたことはなかった。
むしろ、貧民街の出であるにもかかわらず、カインからの寵愛を一身に受け、高度な教育を与えられた女性として、平民のみならず貴族からも羨望されているのだ。
だが、今はなぜか自分が貧民街の生まれだということを、ロメオに思い出させないで欲しかった。
「まぁ、イレリア様ったら謙虚でいらっしゃるのね。知らないふりなんて――世間ではその篤志家の正体はイレリア様じゃないかと噂でもちきりですのよ」
フィッツバーグ子爵夫人がギスギスした微笑みをイレリアに向けると、招待客たちは一斉にイレリアを見た。
「確かに、貧民街に支援など私共には考えも及びませんな。こう言っては失礼ですが、そちらの出身だからこそ、必要な事が分かり適切な支援ができるのかと――」
「しかもイレリア嬢は貧民街で生活しておられた時も慈悲深く、自分が得た金銭を全て自分より貧しい人々に分け与えていたと聞いていますわ」
「なんと素晴らしい――」
招待客たちは何を言っているのか、全く理解できなかった。
理解できたのは、彼らが口々にイレリアを褒め称えていること。
そしてロメオが尊敬と情熱が入り混じった熱っぽい目でイレリアを見つめていることだ。
その眼差しにイレリアはロメオに嫌われたくないという思いを一層強く持ってしまい、ほぼ無意識に口を開いていた。
「――お恥ずかしい事ですわ」




