41.
イレリアがアバルト侯爵夫人に招待されたのは、当然の事だった。
ヨルジュの手配でロメオがエスコートを引き受けてくれた礼を贈ると、3日と空けずに夫人からお茶の招待を受けた。
アリッサに付き添われて獣車に乗り込むと、初めての感覚におかしくなりそうだった。
よくよく考えると、侯爵家に来てから初めての外出だった。
獣車の窓から見える街は、イレリアがいた貧民街とは違って広々とした屋敷が広がる貴族街だった。
エスクード侯爵家を出た獣車は、石畳の道を走っているとも思えないほど穏やかに進んでいる。
イレリアが時折借りていたマーヴが牽く荷車は、速度も遅く乗り心地も非常に悪かったのに、随分と違うものだと感心した。
「アバルト侯爵邸は、エスクード侯爵邸に次いで大きなお屋敷なんですよ」
「アリッサは行ったことがあるの?」
興奮気味に言うアリッサに、イレリアは尋ねた。
自分はふわふわとした乗り心地に困惑しているのに、アリッサは慣れているようにも見える。
「はい。一度だけ前の奥様のお付き添いで……と、言っても獣車の中でお待ちしていた程度ですが」
アリッサが笑うと、イレリアも微笑んだ。
アバルト侯爵邸の車寄せに到着すると、迎えてくれたのはロメオだった。
「やあ、イレリア嬢。数日ぶりだね」
ロメオが差し出した左手を不思議そうに眺めるイレリアに、ロメオは笑って「手を取るんだよ」と教えてくれた。
イレリアは一瞬顔を赤らめたが、すぐにロメオの手を掴んで獣車を降りた。
「カインはこんな事も教えてくれなかったんだな。まったく――君を連れ帰ってからの間、一体何をしていたのやら」
ロメオの軽口に、イレリアは顔を更に赤くして俯いた。
町に出たがっていたイレリアだが、カインはそれを許さなかった。
屋敷の中でも与えられた自室と、いくつかの部屋、そして庭を散歩する程度しか許してくれなかったのだ。
イレリアがカインと共にいると約束しても、それは変わらなかった。
「まぁ、こんなに綺麗なお嬢さんだ。閉じ込めていたい気もわかるがね」
ロメオは悪戯っぽく笑うと、イレリアを屋敷の中へと案内した。
初めて会う侯爵夫人は、とても美しい人だった。
飛びぬけて美しい、というわけではないが、顔の造形だけではなく気品や所作の全てが、彼女を美しく見せているのだと、イレリアは納得した。
「ご令嬢は、刺繍や楽器は嗜まれているのかしら」
目の前に積まれた、見た事もない果物や菓子に圧倒されていると、侯爵夫人は口を開いた。
「いえ――恥ずかしながらそういったものは全く」
イレリアは一瞬気圧されそうになったが、カインから侯爵夫人は自分達の事情を知っていると聞いていたので、安心して答えた。
「そう。朗読会や演奏会はお断りしていいわ。あれは暇な夫人たちが集まる口実なの。お茶会にさえ顔を出していれば文句は言われないわ。でも、流行の物語の1つ2つは知っておいた方がよろしくてよ。お茶会でも話題にでるの。刺繍もそうね、お勉強なさい。教養は大事よ」
夫人はそう言うと、鳶色の瞳でイレリアを見つめた。
まるでイレリアの心の奥を覗くような視線は、恐ろしくもあったが、同時に安心も覚えた。
「母は君を気に入ったようだ」
見送りに出てきたロメオが、来た時と同じくイレリアを獣車にエスコートしながら微笑んだ。
どことなくカインによく似た笑顔だが、その目はカインとは全く違う。
カインのような優しく、熱っぽい視線ではなく、どこか値踏みするような、そんな目だ。
「ありがとう存じます」
イレリアはできるだけ感情を乗せずに答えた。
「母は気に入った人はまた招待する。近いうちにまたお会いしましょう。イレリア嬢」
どこか皮肉めいた言い方だったが、イレリアは微笑んで会釈を返した。
教師から教えられた仕草だ。きっとうまくやれたに違いない。
初めての社交はイレリアに大きな自信を付けさせた。
招待される相手の格が高ければ高いほど、社交界での地位が上がるのだと、教師から教えてもらったからだ。
「その通りですわ。お嬢さまを初めて招待なさったのが侯爵夫人という噂が広まれば、貴族のご婦人方は今以上にお嬢さまをご招待したいと思うに違いありませんわ」
「そういうものなのかしら」
イレリアはわざと不安げに訊ねてみた。
「まぁ。お嬢さまったら――こんなにお美しいのに、無垢で純真でいらっしゃるなんて」
「わたくしは社交というものをまだよく理解していないの。アリッサが教えてくれると助かるわ」
イレリアがアリッサの手を握りながら言うと、アリッサは頬を赤くして頷いた。
「もちろんでございます」
「心強いわ。わたくしが失敗してしまっては、後見してくださるエスクード侯爵家に恥をかかせてしまうことになるのですもの。そう思うと不安で……」
「ご安心ください。応じる招待については、ヨルジュにもきつく言い含めておきますわ」
「ありがとう。頼りにしているわね」
イレリアが微笑むと、アリッサはうっとりとした顔でイレリアを見つめた。
イレリアはその様子を見て、満足気に頷いた。




