39.
イレリアはカインの姿を見て安心で泣きそうになったが、カインの笑顔が「泣いてはだめだ」と言っているように見えて、何とかこらえることができた。
「カイン――私、私……」
「大丈夫。僕を見て。ほら、これは僕たちが好きな曲だよ」
カインが耳元で囁き、イレリアは耳を音楽へと集中させた。
確かに旋律の中に、二人が好きでよく踊った曲が見えてきた。
「僕に合わせて――」
そこからは魔法のような時間だった。
さっきまでまるで知らない曲だったのが、カインのリードで二人が好んで練習した曲へと表情を変えた。
曲に合わせて軽快なステップを踏む。カインの手が次は右、次は左とイレリアをリードし、カインがイレリアを抱き上げる。
イレリアとカインは、周りに人がいる事も忘れて軽やかに、のびやかに踊っていた。
そして、それはここに集まった招待客の目にも、奇跡と映ったのだった。
「ご覧になりまして?公子が微笑んでいらっしゃるわ」
「お相手のイレリア嬢もお美しくて――まるで神話の絵画を見ているようですわ」
貴族たちは口々にカインとイレリアを褒め称え、同時にジルダに憐みの眼差しを向けた。
だが、ジルダは静かに壁際に立ち踊っている人たちを眺めている。
「ジルダ――よかったら僕と踊らないかい」
ロメオがジルダに右手を差し出し、ジルダはその右手をじっと見つめた。
そして、少し考えた後ロメオの手を取ると二人はホールへ歩き出した。
「エスコートの件はカインに頼まれたんだ。だがドレスの事は聞いていない」
ジルダの腰に手を当てながら、ロメオはジルダに懸命に釈明した。
「あなたが止めたところで聞くような人ではないわ。――それより」
「ああ。やはりカインはどこかおかしい」
ロメオの言葉にジルダは静かに頷いた。
「魔力吸収の時に何か異変を感じたりは?」
「いいえ――この頃は魔力も安定しているし――おかしいのは性格だけね」
ジルダが横目でカインとイレリアが踊っているのを見ると、ロメオも頷いた。
「僕が知っているカインは恋愛なんかに溺れるような奴じゃなかった。――もっとも、奴が誰かを好きになったのなんて一人しか知らないんだけどね」
ロメオは含みを持たせた言い方をしたが、ジルダは静かに無視した。
「溺れたとしても自分のお立場を忘れるような人ではなくてよ」
だから尚更ジルダ達にはカインの変化が分からなかった。
ただ一つだけ明らかなのは、カインの異変は全てイレリアに出会ってからだったのだ。
「飲み物は足りているか?軽食は追加した方がいいな」
「台所にお伝えいたします」
「チェルニー男爵夫人の具合が悪そうだ――侍女殿に控室をご案内するように」
広間の隅では、侯爵が会場の様子を眺めながらアレッツォに事細かな指示を出している。
こういった仕事は本来は夫人の仕事なのだが、妻を亡くしてから10年もの間、その代わりを務めている。
もっとも、カインが結婚したら、その役割は早々にジルダに譲るつもりだったのだが――
「父上」
カインが美しい女性を連れて笑顔で話しかけてきた。
「紹介します。イレリアです――まだ、お会いになられていないと聞いたもので」
カインなりに気を利かせたつもりなのだろう。
だが、侯爵は横目でアレッツォを睨んだ。
アレッツォは申し訳なさそうに目を臥せている。
いや、カインは言い出したら聞かないところがある。そこが悪い方に出たのだろう。
「忙しくて君には挨拶ができなかったが、感謝はしているのだよ」
侯爵はイレリアの指先に口付けをすると、微笑みながら言った。
我ながら言い訳じみたことを言ったものだと思ったが、本心を隠す必要もない。
侯爵はイレリアとカインの関係こそ認めているが、イレリアを信用しているわけではなかった。
「とんでもないことです。わたくしの方こそ、過分な贈り物をいただきましたのに、お礼すらまともにできておりません。この度は、お目通りをいただきまして感謝申し上げます」
胸の前で手を組み合わせ、恭しく腰を落とす。目上の者にする礼は完璧と思えた。
アレッツォの手配した教師は、よい仕事をしている。
「不足があると、アレッツォに――いや、彼は忙しいか。君の世話をする者を用意しよう。その者につたえるといい」
侯爵の計らいに、カインは満足気に頷いた。
侯爵は内心で、来年の舞踏会も自分の仕事になりそうだと溜息をついた。
「シトロン公女がエスクード公子以外と踊るのは初めて見ましたわ」
ジルダがロメオとのダンスを終えて戻ると、中年の女性が話しかけてきた。
息子がエスクード侯爵家の傍系と婚姻を結んだとか言う……名は何と言ったか――確か、茶会にも誘われていた気がする。
「アバルト公子は時折カイン様の代わりに夜会にお付き合いいただいてますのよ」
断れない夜会の時だけ、ジルダは数度ロメオと参加している。
そこにこのご婦人が招待されていなかっただけなのだ。その程度の地位なのだろう。
「左様でしたの。とても親密な雰囲気でしたので、さすが幼馴染なだけあると感心いたしましたのよ」
「わたくしのパートナーがアバルト公子のお相手をお借りしたもので――そのお詫びですわ。フィッツバーグ子爵夫人」
漸く名前を思い出して、淑女の微笑みで答えたが、なぜ夫人が話しかけてきたのかわからない。
ジルダは注意深く付け足した。
「……もっとも、わたくしごときではあの美しい方の代役なんて恐れ多いことですが」
ジルダが社交界に出てから、数える程度しか夜会には出ていない。
そのうちの1回だけ、挨拶を交わしたことがあっただけだ。
エスクード侯爵家からしても、家門の末端――とも言えない程の遠縁だ。馴れ馴れしく話しかけられるほどの関係でもないはずだが。
「ええ――確かにお美しい方ですわね。エスクード侯爵が後見を発表なさってから、どのような女性なのかと私どもの間でも持ち切りでしたのよ」
ジルダがカインの婚約者であるのはいつ迄か――大方そんなところだろう。
つまり、婚約者の座からいつ転がり落ちるかもわからないジルダを、エスクード家と同等に尊重する必要がないと言いたいのだろうと、ジルダは夫人を見定めた。
ジルダが答えずにいると、やり込めたと勘違いした夫人が嬉しそうに続けた。
「ですが、一目見てわかりましたわ――あの素敵なドレス。とてもお似合いですわ――ねぇ」
ジルダにとってはこの程度は嫌がらせにもならない。
ただ、社交好きのフィッツバーグ夫人が、ジルダをやり込めたと風潮しては後々面倒だ。
ジルダの失態はエスクード侯爵家の失態にもなるのだ――少なくともまだ、今は。
ジルダは通りかかった召使いから、飲み物の入ったグラスを受け取ると、喉を潤した。
「ええ――とってもお似合いですわ。エスクード侯爵の後見を表すにふさわしいドレスですもの」
ジルダの言葉に、夫人は扇を口元にやると、眉を上げて見せた。
「エスクード侯爵家のシンボルは緑のドラゴンに青のゴブレット、金色の蔦ですわ。お忘れになりまして?」
そう言うと、ジルダは自分の指にはめられたエスクード侯爵家の紋章入りの指輪を夫人に差し出した。
ジルダが首都のエスクード侯爵邸について決裁を行う際の印璽であり、婚約者の証なのだ。
「え……ええ。そうですわね」
「侯爵のご配慮により、イレリア嬢は侯爵家の後見を受け、その身を侯爵家の預かりとされております。冬の月のわずかな間にあれだけの所作を身につけられた才覚はさすがとしか言いようはございませんわ――ねぇ?」
事実、イレリアの成長は目覚ましかった。初めてイレリアを見た人間なら、彼女が貧民街の出身とは露ほども思わないだろう。
ジルダはフィッツバーグ夫人にそう言うと、淑女の微笑みのままやんわりと礼をしてその場を去った。
イレリアとカインの瞳が侯爵家の色でよかった――ジルダはなぜだか二人に感謝した。
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カインは今日もダメな子です




