38.
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春の月の初めに開催される侯爵家の舞踏会は、社交界シーズンの始まりを告げるものであり、貴族であれば誰しもが憧れるものだった。
屋敷の半分はあろうかという広間に、貴族達がひしめき合っている。
だが、今年はいつもと様子が違う。
「アバルト侯爵家――ロメオ・アバルト卿」
名読みと共に現れたアバルト侯爵家の嫡男が、見たこともない美しい女性をエスコートして会場に入ってきたのだ。
カインとどこかよく似た面持ちのロメオが連れている女性は、青から緑へと混ざり合うよう染められたドレスに、金糸の刺繍がこれでもかと施された飾り袖を引きずるように、ロメオ隣に立っている。
18歳の今まで、婚約はおろか恋人の噂さえなかったアバルト公子が連れている女性は、登場の瞬間から貴族達の注目を集めた。
「あんな美しいご令嬢、いらっしゃったかしら」
「まて、名読みがされなかったぞ――つまり」
貴族達の囁く声が、ロメオ達の耳にも届いていた。
名読みがされない――つまり、平民なのだ。
侯爵家の嫡男が平民をパートナーに選ぶなどあり得ない。
だが、貴族達はその理由をすぐに理解した。
アバルト公子の隣に立つ子の女性こそ、エスクード公子と騎士隊を救った貧民街の薬師見習いなのだと。
二人は階段の踊り場に立つと、揃って恭しく礼をした。
その所作の美しさに、会場は感嘆の溜息を漏らした。
「ここまでは上々だねぇ」
頭をあげながら、ロメオはイレリアの顔を見る事もなく笑った。
イレリアは返事をする余裕もなく、教えられた通りに階段を降りる事に集中していた。
「エスクード侯爵家――カイン・エスクード卿、シトロン伯爵家――ジルダ・シトロン嬢」
主役の名読みに招待客は皆現実に引き戻されたように、階段を見上げた。
礼服を着たカインの横に、カインの瞳の色のドレスを着たジルダが立っている。
せめてドレスに見劣りしないようにと、ジルダの侍女が準備にやたらと力を入れていたが、意味がない事をジルダは知っていた。
だが、まさかロメオのエスコートでイレリアを紹介するとは――
考えれば正当だった。
イレリアはエスクード侯爵家の後見を受けている。その女性がカイン以外にエスコートされるならロメオ以外いないのだ。
だが、ロメオもティン=クエンもイレリアとの接触を断っていた為、ジルダはこのことを想定から外していた。
してやられた。
ジルダは溜息をついた。カインの瞳と髪の色をあしらったこのドレスよりも、イレリアのドレスは二人の瞳の色が混ざり合い、カインの髪色の金色で縁取るように囲んでいるそれは、より濃厚な関係を印象付けるものとなっていた。
カインがエスコートをする自分を引き立て役にして、イレリアをこのように演出するなんて――これでは自分の真の寵愛はイレリアにあると、憚らずに公言しているものではないか。
ジルダはカインの浅はかさを恨まずにはいられなかった。
何のために侯爵が後見だと名乗りを上げたのか。何のために教育を受けさせたのか。
まずはその存在を認知させ、ゆっくりと社交界に溶け込ませた後、恋人だと匂わせていくことが最善であるのに、なぜこの人はこうも性急に物事を進めようというのか――
珍しくジルダが苛立っているのを感じたカインは、自慢げに微笑んでいた。
主役が登場し、エスクード侯爵の挨拶が終わると、最初のダンスが始まる。
流石のカインもそこはジルダと踊るのが当然と思っているのか、ジルダの手を取ってホールの中央に躍り出た。
「オレリオ様には事前に報告はされたのでしょうね」
踊りながらジルダはカインに尋ねた。
子供の頃から一緒に踊っていることもあり、二人の息は周囲が見惚れるほどにぴったりだ。
「何のことだ」
「ドレスの事です。あれではまるで――」
「ドレスの事などで一々相談するわけないだろう。父上はお忙しい方だ」
ジルダはカインが別人になってしまったのではないかと一瞬疑わざるを得なかった。
ドレスどころか、自分の衣装にも興味を持たなかったあの男が、このようなことをするとは。
相手の色を入れた服を着るのは恋人同士や婚約者に多い。また、そこに自分の色を入れるのはより深くお互いを愛し合っているという意味になる。
カインとてそれを知らないわけではない。いや、むしろ知っていたからこそやったに違いないのだ。
「君にも僕の色のドレスを送っている。よく似合っているじゃないか」
皮肉げな口調だが、一瞬だけ交わした眼差しはどこか懐かしさを感じるものだった。
しかし、次にカインと目が合った時には懐かしさは消え去り、いつもの無機質にジルダを見つめる瞳だけだった。
ジルダはカインに何かを言おうとしたが、その前に曲が終わり、にぎやかな夜会が始まってしまった。
カインとジルダは初めて参加した夜会からずっと、最初のダンスだけは一緒に踊っていた。
だが、その後は傍にこそいれど、視線を合わせるわけでもなく、ただ夜会に参加して頃合いを見て退出するといった具合だった。
カインにとってはジルダは同伴しなくてはならないパートナーだったし、他の令嬢からの風除けとしても役に立っていた。その程度だった。
だが、今日は違うと招待された貴族全員が奇跡を目撃した。
カインがイレリアと踊っていたのだ。
夜会で演奏される曲順は事前に知らされていたので、イレリアは安心して踊ることができるはずだった。
問題は練習用のピアノではなく、夜会では楽団が演奏するのだが、イレリアは楽団の音を聞いたことがなかったのだ。
様々な音が重なり聞こえてくる中で、ダンスのリズムを取ることができず、イレリアはロメオの手を取ったまま顔面を蒼白にしていた。
ロメオがリードしようとしても、すっかり怖気づいたイレリアはステップを踏み出すこともできず、ただ周りの嘲笑を体で感じるしかなった。
始まりのダンスではカインとジルダはとても息が合っていた。確かにジルダは顔こそ不器量であるが、カインと並ばなければそこまで酷いとも思えない。むしろ、入場する時の所作は美しく、ダンスも申し分なかった。
ああいう人を完璧な淑女と言うのだわ――イレリアは自分が貧民街の出身で作法もダンスも全て付け焼き刃でしかなく、ジルダのような人の前では全部無意味なものでしかないのではないかと目の前が真っ暗になった。
「次は私とお相手いただけますか」
そう言って手を取ったのはカインその人だった。
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