36.
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完結まであと50話です
冬が深まった頃、イレリアは侯爵家のサロンでカインと向き合ってお茶の時間を楽しんでいた。
「元々君の所作はひどくなかったけど、最近は見違えるように美しくなったね」
カインはイレリアの所作の美しさをため息交じりに褒め称えた。
事実、イレリアの所作はジルダには及ばないものの、一般的な貴族の令嬢と比べても遜色がないと思われた。
「薬師になると、商人や貴族ともお茶をする機会があるからと、師匠に教えられていたの――」
恥ずかしそうにイレリアが頬を赤らめた。
すっかり貧民街に戻りたいと言わなくなったイレリアの口から、久しぶりに薬師の名を聞いて、カインは一瞬身構えた。
しかし、イレリアの口から貧民街に関する言葉はそれ以上出てこなかった。
カインは安堵したが、同時になぜ貧民街の薬師が商人や貴族に招かれるのなどと思ったのか、疑問が頭をよぎった。
薬師は沢山いる。貴族ともなれば、お抱えの薬師の2人や3人はいるものだ。
それをわざわざ貧民街の薬師などを呼ぶことがあるのだろうか。
カインの顔が曇ったのを見て、自分に里心が芽生えてカインが不安がっていると思ったイレリアは「今はカインの傍にいることが私の望みよ」と言ってカインの手に自分の手を重ねた。
その温もりにカインは心が満たされる気がして、イレリアの手を強く握り返した。
「君がいてくれることだけが、僕の人生の救いだよ」
カインの言葉は甘くイレリアの胸に染み渡る。だが、すぐにイレリアは顔を曇らせた。
「どうしたんだ?」
イレリアの視線は、カインの手に注がれている。
この手は、さっきまで別の女の手を握っていたのだ――いや、違う。あれは単なる役目で、カインの命を救うための大事なことだ。
だが、イレリアの心はざわついていた。
「シトロン公女さまの魔力吸収は触れ合わなくても行えるのよね?」
掠れた声だったことに、自分でも驚いている。
「イレリア?」
「私、見たの。あなたとシトロン公女さまが手を繋いているところを。魔力吸収の為だというのはわかってる――でも、あの魔力暴走の日、シトロン公女はあなたの魔力を触れる事無く吸収したって言ってたじゃない」
一気にまくし立てるイレリアに、カインは困惑した。
彼女がジルダに対して、遠慮以外の感情を見せる事は初めてだったから。
「イレリア。不安にさせてすまない」
カインは、イレリアの右手を両手で力強く包み込んだ。
「ジルダは触れずとも僕の魔力を吸収できる。だけど、そうすると大気に漂う魔力まで過剰に吸収してしまう事になるんだ」
カインはゆっくりと説明した。
「僕の魔力だけを効率的に吸収するには、やはり他の魔力吸収の能力者と同じように、触れることが一番なんだ。だから――」
いや、それなら他の魔力吸収の能力者と同じように、背中や胸に手を当てるだけでよいのではないのか。
カインはなぜ手を握るのか、理由を探そうとしたが、考えようとした途端にひどい頭痛が襲ってきた。
「カイン――大丈夫?ごめんなさい――私、私どうかしてた」
イレリアがカインを抱き締めると、頭痛は嘘のように消えた。
所作については問題なく覚えられたが、それ以外の教養は教師からもまだまだと指摘され続けていて、イレリアは疲れていた。
しかし、自分が貴族となって認められれば侯爵に認められ、カインの妻――そうでなくとも愛妾として傍にいれるのだという思いがイレリアを奮い立たせていた。
「お茶をお願いしていいかしら」
イレリアは自室に戻ると女中に声をかけた。
女中は頭を下げると、茶の用意をするために部屋から下がった。
侯爵家に来た頃はあの女中にも頭を下げていたが、今のイレリアは侯爵家の後見を得た客人だ。
卑屈になることはないのだ――それに貴族は身分が下の者にはへりくだってはいけない。
教師もそう言っていた。
侯爵家の後見を得た自分は、社交界ではどの令嬢よりも身分が高いのも同然なのだ。
優雅に、尊大に、しかし慈しみ深く――イレリアは女中の淹れた茶を飲みながら今日の授業を思い返していた。
「イレリア嬢は優秀な生徒です。意欲的で吸収も早い。薬師見習いをしていただけあって、地頭がよいのでしょう」
領地の家令と務めるフィガロの報告に、エスクード侯爵は頷いて見せた。
イレリアの後見を決めたのは、貴族に対する体裁だけではなかった。
イレリアの存在がカインの魔力を安定させているので、イレリアとの関係を認めてほしいというジルダの要望によるものだった。
ジルダの要望は、侯爵には理解しがたいものだったが、彼女の事を考えると納得せざるを得ない。
侯爵は注意深くカインの動向を観察しながら、然るべき時に最善の方法を取れるよう準備をしていた。
結界の魔法陣の件さえなければ、もう少し穏便にイレリアの存在を明るみにすることができたのだが。
だが、オルフィアス伯爵のおかげで、イレリアの存在は効果的に貴族のみならず平民にも知れ渡る事となった。
侯爵家の跡取りを救った勇気ある貧民街の女性として。
その結果、庶民からの評価が上がり、イレリアの存在は首都のみならず、国中で語られることとなっている。
庶民の人気を取り込みたい貴族達や物見遊山の貴族達からはこぞってイレリアに茶会やパーティーの招待状が届いているらしい。
しかし、いざ貴族の社会に送り出すにはまだまだ不安が残る間は、招待には応じないようアレッツォやカインに言い含めていた。
貴族社会はちょっとした失敗を針小棒大にあげつらえて足を引っ張るものだ。
イレリア本人はともかく、カインがその矢面に立つことは避けねばならなかった。
次期侯爵ともなる存在が、たかだか貧民街の女性によって傷つけられるわけにはいかない。
今はまだ社交に関心のないカインも、その重要性を認識すれば自分の言っていることも理解できるだろう。
侯爵は教師にイレリアの教育を急ぐよう言いつけると、フィガロを下がらせて窓の外を見た。
この雪が解けたら春の月がやってくる――カインとジルダの婚姻の年になるのだ。
イレリアはダンスの授業が一番好きだった。
薬師見習いをしていた時から、机に向かって勉強するのは慣れていたが、一番好きなのは体を動かしている時だった。
農場で農作業をしたり、森で薬草を摘んだり、駆けまわっていると、必ず誰かが声を掛けてくれる。
「イレリア、今日はいい天気だね」「あっちにカルドスが花をつけていたよ。薬に使うんだろう?」
そうやってイレリアは育ってきた。
だが、このドレスではもう農作業は出来ない。
エスクード侯爵から贈られた大量のドレスは、イレリアが見た事の無いものばかりだった。
肌触りの良い麻の下着に、高級な綿をふんだんに使ったドレス。毛織物でできた上掛けや室内履きもある。
どれも見た事もない高級品ばかりだ。
それまでカインが用意させたドレスたちも、高級品だと思っていたが、侯爵から贈られたそれらは比べ物にならないほどの品だということは、イレリアにもわかった。
ダンスの授業は、その多くをカインがパートナーを務めてくれていた。
カインが来られないときは、エスクード侯爵家の騎士や執事のアレッツォがパートナーになってくれていたが、他の男性と踊るからこそカインのエスコートが完璧で最も優雅であると、理解できた。
カインの蟄居の間は、もっと二人で過ごすことができると思っていたのに、カインが部屋に来たのは数回のみだった。
カインの罰が終わって、ようやく一緒に過ごせると思ったが、その目論見は甘かった。
イレリア自身、朝から晩まで授業が組まれて、自由なのはお茶の時間と授業が終わった夜だけだった。
食事の時間でさえマナーだの会話だので常に教師や執事と共にしなければならない。
夜の短い間――寝室に入り眠りにつくまでのひと時だけが、カインとイレリアの癒しの時間だった。
だから、堂々とカインと一緒にいられるダンスの授業は大好きだった。
ステップを踏みながらこそこそとおしゃべりを楽しむ。
晴れて授業が免除されたら二人でどこに遊びに行こうか、春になったら別荘に行こうか――
冬が終わる頃には、イレリアのダンスの腕前はカインに引けを取らないものになっていた。
イレリアのシーンを加筆してます
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