嫌がらせ
テスト当日の朝。わたくしは登校の途中、落とし物をしていると声をかけられ、中庭に誘き出された後、上から泥を掛けられました。
落ちる泥は想像以上に重く、聖女の祈りを保有している私でなければ首を痛めていたでしょう。
頭から体を伝って地面に落ちる泥を見ているわたくしを見て、令嬢方はほくそ笑んでいます。
「何が目的ですの」
「目的も何も、私達はただスティア様に命じられただけなので。平民には理解できないかもしれませんが、貴族社会では権力に逆らえないんですよ」
以前もこんな調子で平民に嫌がらせを行っていたのでしょうね。わたくしに対して気に入らない事は多いでしょうし、きっと、今後も続くでしょう。ですが、ただでやられるわたくしではありません。
「いいえ、違います」
「何が違うのですか?」
わたくしは一歩歩みを進め、しっかりと目線を交わします。
「彼女は他人を扇動するような人ではありません。やるなら自分の手でやります。あなた方のように、他人を使って責任を逃れるような卑怯者ではありません。彼女の事、甘く見ないでくださいませ」
これは庇ったわけでも、わたくしの名を守る為でもありません。事実を言ったまでです。平民は他人を使ってわたくしを陥れたところで何も感じないでしょう。わたくしが婚約破棄された時の彼女の表情がその証拠です。ですが、自らの手でわたくしを陥れた時、彼女は満足する、大変嫌味な人間です。そう、嫌味な人間なのです。ですのに、こうして彼女を利用しようとする卑怯者に対して、どうしても腹が立ってしまいます。
「あなた方の名を教えてもらえませんか?」
「断らせていただきます」
「良い事は起こらないと自覚されているのですよね。それなのにこのような事をするなんて愚かですね。顔はしっかり覚えました。では、失礼します」
わたくしが背を向けた瞬間、後ろから勢いの強い水を頭に打たれました。わたくしを傷つける、いえ、死んでしまっても構わないという意志を感じるほどに。
平民にも感じたことのない、ドロドロとした知らない感情が沸々と湧き上がります。
我慢です。落ち着くのですスティア。わたくしは今平民。先ほど以上の事を口にするのは御法度です。手を出すのもダメです。わたくしの正義に反します。振り向いてはいけません。前だけを見て歩みを進めるのです。足を動かす簡単な事です。止まらないでください。手に入れた力を緩めるのです。全身の力を抜くのです。わたくしがわたくしでなくなってしまいます。落ち着きなさい。落ち着きなさい。落ち着きなさい。落ち着きなさい。落ち着き──
「何をしているの!」
令嬢とは思えぬ疾走をし、汚れる事も厭わず泥を踏んだ彼女は、わたくしを庇うように間に立ちました。
一体どういう風の吹き回しなのでしょうね。その睨みを効かせた顔を向けるのがわたくしではなく、相手の令嬢方だなんて。
変な感覚です。胸がザワザワとして落ち着きません。心底不快です。ですが先ほどに比べ、息はしやすくなりました。
「フォ、フォールド様。こ、これはその、誤解です!」
「何が誤解なの! 故意に人に魔法を向けるだなんて! 誤解だというなら、今私があなたに魔法を向けても何も文句言わないでしょうね⁉︎」
平民は右手に炎を纏わせ、その手を令嬢方に向けます。
「い、いえその、申し訳ありませんでした!」
令嬢方は足をもつれさせながら走り去っていきました。
平民はそんな彼女らの姿が見えなくなるまで炎を纏わせたまま睨みを効かせていました。同時に、わたくしも平民から視線を逸らしました。
妙な静寂がわたくし達の間に広がります。
風が肌を撫でる感触はしますし、髪も靡いていますのに、風に揺れる木々の音は不思議と聞こえません。夢にいるかのように現実味のない感覚がわたくしを包み込みます。
「どういうつもりですの。わたくしを庇うだなんて」
平民は舌打ちを響かせた後、魔法。と小さく呟きました。
「魔法、使って。全身に。傷と共に服も元に戻るはず。あなたが使いこなせればの話だけど」
「馬鹿にしないでくださいまし。魔法くらい完璧に使いこなせますわ。この魔法を使うのが嫌なだけです」
「馬鹿言わないで!」
平民が怒気を含ませた低い声を静かに張り上げました。
「あなたがこの体を、名を傷つけたくないって思うように、私も、自分の体が大切なの! だって、その体は、お父さんとお母さんが大切に育てて、守って、愛してくれた体なんだもん! あなたの心がいくら傷つこうが、崩れようがどうでもいいけど、その体だけは大切にしてよ!」
あなたはわたくしの体を大切にしていないのにと言いたくなりますが、お父様とお母様の顔が思い浮かばれますと、そんな言葉も無意識に飲み込んでしまいます。
わたくしは周囲に誰もいない事を確認し、自身に魔法を掛けました。
かすかについた傷も汚れた制服も、元通り綺麗に治っていきます。
「今後もきっと虐められる。私がそうだったから。だから、目、配っててあげる。その代わり、私の体守ってよ。あなたをいじめていいのは、あなたの心だけを壊せる私だけなんだから」
平民は見下すような目を向けて、肩を落として去っていきました。
わたくしは無意識に、本当に無意識に、彼女の背に、心に向けて、人生で初めて舌を鳴らしました。
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