16.労働条件と雇用契約
朝の運動を雪音と済ます。
今日は運動中誰とも出会うことはなく、本当にただランニングとストレッチをしただけだった。
またティナに出会って雪音と喧嘩し始めたらどうしよう、と考えていたが、杞憂だったようだ。
「兄上、今日はグリモワールのところに行くのか?」
「ん?うん、その予定」
家で朝食を摂りながらテレビを見ていると、雪音がそう聞いてくる。
ガチャッと食器が音を立てた。音の方に目を向ければ、食器を洗っていた母の顔が少し引きつっている。
今度雪音に、母の前でこの話題を出さないようにそれとなく言おう。
「我もついていくのだ」
「え、働きに行くんだよ?」
「グリモワールも我にいつでも来いと言っておったし、昨日だけで二人もかどわかして兄上のスケコマシ具合に呆れたでの、監視させてもらうのだ」
「えぇ……友達と遊んでくればいいじゃん……」
「兄上よ」
確かになんか二人とも距離が近かったけどさ。それとこれとは話が別というか。
やれやれ、とでも言いたげに首を振って、雪音は僕の前に立つ。
手を猫の手の形にし、頭の上に掲げる。内股で少し腰を落として、ウインクをしながら雪音は。
「連れてってほしいニャン!」
恥を捨てた。
「まぁ別に許可など得ずとも勝手についてくる予定だったのだが」
「じゃあなんでやったの?あのポーズ」
厨二設定の家族への暴露と、家族の前で猫の真似をしながらぶりっ子おねだり。恥ずかしさなんてそう大差ない気がするのだが、いよいよ雪音の行動理念がわからない。
「可愛かったであろう?」
「まぁ……」
「うむ」
何故か満足げに頷く雪音。
自分の可愛さを理解して利用するのはまぁ悪いこととは言わないけど、あの路線は絶対に黒歴史となるので、これからも続けていくようなら注意しないとな。
厨二病に関しては……まぁそのうち治るでしょ。
などと雑談交じりに歩き、しばらくして便利屋アレグリに到着。
猫を探す……猫の観察日記になってしまいそうだが、この仕事はまだ終了していない。
アレさん曰く、僕の研修のために用意してくれた仕事だとのことなので、猫を探した末にやることも含めて仕事のやり方を教えてもらわなければ。
事前にメッセージを送信していたからか、アレさんは事務所の前に立っていた。
相変わらず身長が高い。
「おや、来たね。少年、それに雪音ちゃんも」
「おはようございます、アレさん」
「暇だから来たのだ」
建前も何もないストレートなことを雪音が言う。
やっぱり暇だったんじゃないか……。
それを聞いてもアレさんの表情には特に変化はなく、普通に話し始める。
「さて、それじゃあ少年。今日は一日空いているんだね?」
「はい、よろしくおねがいします」
元からゴールデンウィークに予定なんて入っていなかったし、ここ数日の忙しさは能力を手に入れて自主的に忙しくなっていただけだ。
友達と遊ぶ予定なんかも特に入っていない。
高校に入ってすぐというのもあるし、中学の時の友達も少ない。そもそも僕は狭く深く友達付き合いをしたいだけなのだ。
ゴールデンウィークの後半には幼馴染でも誘ってカラオケでも行こうかな。
「それじゃあとりあえず中に入ろう。君を雇うにあたって、労働条件や契約書を作っておいたんだ」
「わかりました」
「ふむふむ、いつ来ても素晴らしき場所であるのう。自然に富んでおる」
相変わらず事務所の前はジャングルのようだし、事務所の中もゴチャゴチャとしている。自然に富むとは聞こえがいいけど、皮肉にしか思えない。
だが【虚偽感知】には反応がない。本気で素晴らしい場所だと思っているようだ。
虫も出てきそうなのに、意外だ。
以前も利用した机の上には、既に数枚の書類が置いてあった。
察するに、あれが契約書や労働条件が書かれた紙なのだろう。
「ヨルの息子に悪いことしようなんて考えてないから、安心して呼んでくれたまえよ。さぁ、どうぞ座って」
「ありがとうございます」
「雪音ちゃんは適当に」
「うむ」
雪音はその辺に落ちていた本を拾い上げ、真剣な顔で読み始めた。
チラ、と本の中身を覗いてみたけど、何語で書いてあるのかがわからない。雪音、外国語イケるんだ。知らなかった。
と、そんなことはどうでもよくて。
労働条件とやらに目を通したが、なんだか僕に都合の良すぎる気が……。
小難しい書き方を想像していたけど、思ったより簡潔でわかりやすい。
要約すると、時給1500円。出退勤報告はメールを利用し、直行直帰可。
勤務時間は自由裁量で、出勤したいときだけ連絡すればいい。
但し、業務上どうしても必要な場合は出勤要請の可能性あり。
業務内容によって別途報酬の可能性あり。業務に係る交通費等の諸経費は全支給。
父さんが僕に紹介してくれ、母さんも嫌々ではあるが反対しなかっただけはあり、とんでもなく好条件だと思う。
1時間働いたら3日もガチャが引けてしまう!
「ああ、少年。君はまだ学生だから、働きすぎには注意してくれたまえよ?」
「はい、えっと、扶養とかでしたっけ」
「そう。ワタシも一応気は使うが、この国はそこのあたり少々面倒だからね」
僕も別に詳しくはないけど、収入が一定金額を上回ると扶養だとか保険だとか、色々手間が増えるらしい。
そこのあたりは調べてきたので多分大丈夫だ。スマホにも給料計算のアプリは入れてあるので、後で時給の項目を更新しておこう。
契約書の方も、別紙労働条件に従い雇用契約を結ぶ~とか簡潔に書いてあっただけである。ここでサインしないなんて逆張りする理由もないので、素直に名前を書き押印しておいた。
それにしても、アレさんの故郷はどこなんだろう。
名前や容姿、この国って言い方からしても、元々日本人ではないと思うが……容姿だけ見れば雪音も完全に外国人なので、決めつけはよくないか。
いやでも名前が……。グリモワールって、中世ヨーロッパとかの魔術書みたいなイメージだけど。それがファミリーネームになるってどこの国なんだ?雪音やティナと以前から知り合いのようだし、僕の知らないところで雪音たちと話もしているようだし、雪音の口調が変わらないことから厨二設定を知っている可能性も高い。
そのうえで、ベリアルだのバエルだのと理解を示している様子なのは……アレさんも、そっち側の人なのだろうか。
いやでも、その考えだと父さんや母さんもそうなってしまうし……。
まぁ、これ以上考えてもわからないな。
そうだ、あまり憶測で周囲の人の評価を決定してもよくない。アレさんは母さんたちの知り合いで、僕の雇用主。今の状況で確実なのはそれだけ。それだけでいいか。
「……うむ、サインは完璧だ。それでは少年よ。ここに契約は完了した。少年の運命はワタシと共にある」
「どこの英霊なのだおぬし」
「冗談だよ」
ククク、と凶悪そうなギザ歯を隠さずに笑うアレさん。
残念ながら僕にはネタがわからなかったが、二人には通じ合う何かがあったようだ。
雪音は厨二趣味に加えて普通にオタクなので、そこと難なく会話ができるあたりアレさんも割とそういう趣味があるのかもしれない。
「とりあえず書類関係はこれで大丈夫だね。少年、とりあえず午前は猫探しの仕事をそのまま続けてもらえるかい?」
「わかりました」
「クク、物分かりが良くて大変好ましいね。ワタシは事務所にいるから、とりあえずお昼になったら戻っておいで。昼食を用意しておくから」
「我もここで時間を潰しておくからの、行ってらっしゃいなのだ」
「わかりました。ありがとうございます。雪音、行儀悪いよ。迷惑かけないようにね」
気付いたら雪音は、ソファのひじ掛けの部分に頭を預け、膝を立てて横になって本を読んでいた。
家ならともかく外ではやめてほしい。阿武堂さんを見習え。
それだけアレさんとの関係が良好であることの証明なのかもしれないが、身内として、兄として妹の今後に一抹の不安がよぎったのであった。
というか、僕の監視するとか言ってなかったっけ。あれは嘘じゃなかったみたいなのに、面倒くさくなったのかな。




