魔女は微笑むⅥ
周囲がざわつくなか、冴木は努めて冷静に等身大のフィギュアがあった辺りを観察した。周りにあるベッドや机、小物などはそのままのようだった。あくまで、エプシィちゃんというキャラクターのフィギュアのみが消えている状況だった。足元にあった三十センチほどの台座はそのまま残されている。台座の表面に固定する穴があるかどうかは、冴木たちのいる位置からはよく見えなかった。
「おい、賢。あれみろ」
隣の大樹が、展示スペースより手前の、関係者以外立ち入り禁止の線の内側を指さしていた。冴木が覗き込むと、一枚の紙切れ――いや、カードのようなものが落ちている。
『エプシィは頂いた。 怪盗アトラス』
なんだ、と冴木は鼻白む。結局はこの展示スペースのイベントだったわけだ。消えたエプシィちゃんはよく見かける十二分の一スケールなどではなく、等身大なのだ。それをさっきの照明が消えているあいだに客のだれかがこの場から消すことなど不可能なのだから当然だろう。
それに、展示場所はガラス張りになっていて外からでは手が出せないようになっている。これは迷惑な客などが手を触れないためであったり、フィギュアが汚されたりしないためだろう。
「結局イベントだったわけだ」冴木は呆れたようにいった。「怪盗アトラスって、ゲームで出てくるのか?」
「いや、出てこない……けど、新しいアップデートで追加されるキャラなのかもしれないな」
大樹はいまだに信じられないといった表情だった。
すると、少し前のほうにいた小太りの男が何か大声で喚いている。見ると、その周りだけ少し空間が出来ていた。あまりの熱で語っているので周囲が引いている。
「こんなイベントきいてない! 僕は昨日も見に来たのに、こんなイベントやっていなかったぞ!」
小太りの男は唾液を飛ばしながら熱弁している。
このレッドアトランティスのイベントは土日両日の開催となっており、冴木たちは日曜日に訪れていた。喚いている男の言い分が本当だとしたら、初日の土曜日にこの怪盗が現れるイベントは行われていなかったことになる。しかし、この展示スペースにずっといたわけではないだろうし、彼の発言の真意を確かめる術がない。
だが、彼のように両日ともに参加している人間は少なくないようだった。昨日はやっていなかったイベントだ、と同意見を述べる者が二名現れる。そのせいで、再びこの場が騒然となった。
周りにスタッフはいないのか、と冴木は非常灯があった場所を見てみるが、人の姿は見えなかった。こういったイベントが行われるなら、スタッフが常駐していそうなものだが、どうなっているんだろう。
やがて後方から野次が飛び、列が進みだす。相変わらずエプシィちゃんは不在のままだ。冴木たちより後に並んでいる人たちはあの等身大フィギュアが見られないことになる。これではメインディッシュがないに等しいのではないか、と思ったが冴木たちにはどうすることもできない。
その後の展示物を、大樹は心ここにあらずといった様子で眺めていた。展示スペースを抜けて、近くのベンチに腰掛ける。何だか立ちっぱなしで足が疲れていた。
「なぁ、賢。どう思う」
「展示物のクオリティ高かったな。これはスイーツも期待できそうだ」
「そうじゃないだろ。エプシィちゃんのことだよ」
「主催者側が仕掛けたイベントだろう?」
「でも、おかしくないか? なんで今日この時間に限って突発的にやるんだ? しかもちょうど、俺たちの目の前でだ」
確かにタイミング的には不可解かもしれないが、前日の土曜には何かしらのトラブルがあって決行できず、二日目の今日、ようやく実現しただけかもしれない。
「向こうの都合もあったんじゃないか?」
「……百歩譲ってそうだとしよう。でもどうやってエプシィちゃんを消したんだと思う?」
確かにその仕掛けについては、冴木は考えていなかった。そして考えるつもりもなかった。
「さぁ……」
「あそこは俺たちみたいな客が入れないようなスペースになっていただろ? てっきり、あの寮部屋の後ろ側が開くようになっていて持ち運べるようになっているのかなとも思った」
「そうなんじゃないか?」
「適当なこというなよ」大樹は難しそうな顔をしている。「仮に開いたとして、あの高いフィギュアを抱きかかえて外に出て、非常口やバックヤードのほうまで運びだすなんて……無謀じゃないか?」
「高いフィギュアっていっても、一メートル五十センチぐらいだろう」
「身長じゃなくて、値段な」
「……あれそんなに高いのか?」
大樹が呆れたように肩を竦めた。
「なに言ってんだ。あれは製作費一千万以上かかってるんだって、番組の公式生放送で言ってたぞ」
「一千万?」
冴木は珍しくオウム返ししてしまった。
「そうだよ。あんな暗がりの中でそんな運搬作業して……万が一傷がついたり、パーツが壊れでもしたらとんでもないことだろう」
そういわれると、フィギュアなどに無知な冴木でさえそんな気がしてくる。そこまでのリスクを負ってまでやるようなイベントにも思えない。ましてや怪盗なんていうのはいまだゲーム内に出ていないのならば尚更だ。
「じゃあどういうことだ?」
冴木が訊くと、大樹は首を横に振った。
「それはこっちの台詞だよ。なぁ、冴木ならどうやってエプシィちゃんを消すことができる?」
それは確かに不可思議な現象ではあったが、実際に現実で起きていることだ。それも、これだけお金をかけたイベント内で起きたことなのだから、それ相応の準備をしていたことになる。
「あのフィギュアは、そのまま運び出したんじゃなくて、分解できるようになっていたんじゃないか。何人かで分担して運んだのかもしれない」
冴木は特に深く考えずにぱっと思いついたことを言った。仮にこれが正解でなかったとはいえ、大樹が納得さえしてくれればいい。この話題にはさっさと見切りをつけて、早くスイーツのあるコラボカフェのほうに向かいたかった。
「あの暗闇の中でそれが可能なのか?」
「暗視スコープでもつけていたんじゃないか。四、五人いればあの短時間でも十分できそうだけど」
「賢よ、本当にそう思っているのか?」
もちろん冴木は微塵もそんなことは思っていない。特殊な装備をお金をかけてまで調達するとは思えなかった。だが百パーセントないともいいきけないものだと思ったが、適当な推理では冴木と長年の付き合いである大樹の目は誤魔化せなかった。
「思いついたことを言っただけだよ、そう真剣になるなよ」
「……悪い」
落ち込んだ様子を見せる大樹に、何だかもやもやする。なんでそんなに消えたフィギュアのことが気にかかるのか不思議だったが、冴木は少しだけ真面目に考えてやるか、という気持ちになった。普段だったらそんなことは微塵も考えないのだが、普段と違うこの環境下が少なからず影響しているような気がする。なんやかんやで自分もこのイベントを楽しんでいるのかもしれない、とどこか冷めた目で見ているもう一人の自分がいる感覚だった。
冴木はポケットから棒付きキャンディーを取り出して口に放り込んだ。
「じゃあ、こんなのはどうだ」冴木は人差し指を立てる。「実はあれはフィギュアではなくて、立体映像だった、とか」
「ホログラムだっていうのか? それは……ないな。立体的すぎたし、周りにそんな装置のようなものは見当たらなかったぞ」
「そうか。ゲーム会社だっていうからそういった映像技術なんかも進んでいるんじゃないかと思ったけど、大樹がそう言うならそうなんだろうな」
「確かにAR技術だったり、三次元映像の技術は進んでいるけど、あれだけの観客のうち誰も気が付かないなんてことはないと思う」
「ガラス越しになっていたけど、あのガラス自体が実はモニターだったなんてことは?」
「それもないな。第一、あのフィギュアは存在しているんだ。さっきも言ったけど、公式生放送のときに実際に制作過程だったりの映像も流れたんだ。そのときに数千万するっていう話が出てたんだよ」
「なるほど……じゃあ、実はフィギュアじゃなくて中に人間が入っていたみたいなことも考えていたけど、それもあり得ないってことか」
いかにもアニメキャラといった出で立ちだったので、これは元より突飛すぎる仮説だったが、大樹は真剣に考察しているようで「難しいだろうな」と答えた。
冴木は今一度、寮部屋のような空間を思い返す。
「ペッパーズゴーストなんてどうだ。照明が消えてから居なくなったわけだし」
ペッパーズコーストとは板ガラスと特殊な照明技術によってそこに存在しないものを映し出すものだ。よく劇場や、夢の国のアトラクションなどで使用される視覚トリックの一つである。
「うーん」大樹が唸った。「良い線いってそうだと思ったが、あれは俺たちとエプシィちゃんのあいだに四十五度の板ガラスがないと成立しないんじゃないか。流石にそこまでのスペースはあの展示スペースにないとおもう」
ぱっと思いつく限りの仮説は述べてみたが、もう弾倉は空だった。冴木はふぅ、と一息吐く。だが正直、フィギュア消失のトリックよりも不可解に思っている部分があった。何故大樹がここまで真剣になっているのか、だ。
「なんだってそんなにあのフィギュアにこだわるんだ?」
「あのな……賢」
大樹は至って真剣な表情だった。冴木は棒付きキャンディーを咥えたまま横目で様子を窺う。
「馬鹿にしないできいてくれよ。エプシィちゃんは……俺の嫁なんだ」
冴木が咥えていた棒付きキャンディーが、床に落ちた。