魔女は微笑むⅣ
みれいは、床に転がった男の死体を凝視していた。胸にあるナイフは深く刺さっており、心臓に達しているように思える。一ノ瀬の言う通り、死んでいると考えるのが妥当だろう。
ここで一つ疑問が浮かんだ。まず大前提として、この人が本当に船長なのかどうか、みれいは知らない。
「一ノ瀬さん、どうしてこの方が船長だと?」
「制服の肩に線が四本入ってる。これがあるのは最高責任者である船長と、チーフエンジニアぐらい」
そんなことまで知っているのかとみれいは一ノ瀬の博識っぷりに驚いた。だがそうなると、この船は船長を失ったことになる。
「さて……」みれいは落ち着いて周りを見た。「こういう場合まずどうするのが正解なんですの?」
「通報」
一ノ瀬から単純明快な言葉が返ってくる。もっともだ、とみれいが思っていると、突然部屋の入口から男の声が飛び込んできた。
「お前たち何してるんだ!?」
びくりと肩を震わせてみれいは声の主を見る。そこには背が高くがっしりとした制服を着た三十代ぐらいの男性が立っていた。倒れている船長を見つけると、目を丸くして口を開けた。
「船長にお食事を届けるよう頼まれまして、返事がなかったので上がったら……お亡くなりになっていたんですの」
勘違いされても困るのでみれいが説明すると、男はすぐさま船長に飛びついた。あんまり触れないほうがいいのでは、と思ったがあまりの速度に何も口を出せなかった。
「そ、そんな……船長! 嘘だろ、さっきまで元気だったのに……」
揺すったところで、返答はなかった。男は悲痛な面持ちで立ち上がると、胸に深々と刺さったナイフを見てようやくこれが他殺なのだと理解したようだった。ぎゅっと口を結んでみれいと一ノ瀬を睨むように見た。
「君たちは、この船のスタッフか?」
「いえ」一ノ瀬が首を振った。「新人のクルーに頼まれて配膳に来ただけです」
「そうか……。このことは、他に誰が知っている?」
「誰も知らないと思います」
「やはりそうか。では……犯人をとっ捕まえようじゃないか」
みれいはその発言に驚いて思わず一ノ瀬を見た。彼女は何食わぬ顔で死体を見つめている。まずは通報といっていたのに、思ったよりも乗り気なのかもしれない。こういった場面をフィクションの世界で何度も経験しているみれいのほうが、逆に現実的に物事を考えていた。
「犯人を捕まえるといったって、この船には多くの人が乗っていますわよね? その中から捕まえるなんて、無理ですわ」
「実はそうでもないさ。何故なら船長室の入口は、操舵室からも近いのは知っているね? 君たち、船長室に来るまでの通路で誰かとすれ違ったかい?」
思い返してみても、エレベーターを降りてから新人クルーにしか会っていない。だが道中にいくつか扉はあった。確実とは言えないが、見てはいないのでみれいは頷いた。
「そもそもこの時間帯はあまり人がいなくてね」男は腕時計をちらりと見た。「操舵室にいる三人が、一番怪しいかもしれない」
「そういうあなたは誰ですか?」
一ノ瀬が素直に訊くと、男は「ああ、名乗っていなかったな」と自己紹介を始めた。
「俺はカイバラ。チーフオフィサーって言っても多分伝わらないよな。分かりやすくいえばまぁ、副船長みたいなものだ。現状、船長代理として動かざるを得なくなったわけだが……犯人探しを手伝ってくれないか」
カイバラが小さく頭を下げた。
「ええ、分かりましたわ。私たちでよろしければ」
「本当かい!? ありがとう、助かるよ」
「では、早速ですけれど」みれいはトントン拍子に話を進める。「操舵室にいる三人が怪しいと仰いましたわよね? その根拠はあるんですの?」
「今このフロアには俺を含めた四人しかいないはずだ。交代で業務にあたっているからね。そして操舵室から外に出て通路へ行こうとすると、船長室の入口は見える。だからもし怪しいやつが来ていたらすぐに分かる。現に、君たちがワゴンをいつまでも置きっぱなしにしているのが不思議に思ったから、こうして俺が顔を出したわけだしな」
更にカイバラは、通路のほうには監視カメラもあると答えた。そうなると確かに、他のフロアにいる外部犯の可能性は薄いだろう。
「それに……」カイバラはまた腕時計を見た。「一時間ほど前までは、船長は生きていたんだ。俺に引き継ぎをしてから、休まれる予定だったからここで話をしていたんだよ」
おおよその犯行時刻と、容疑者と、ここまで簡単に絞れるものかとみれいは淀みなく進んでいく推理になんだか疑問を覚えた。しかし物的証拠がこの推理を裏付けている。
「ということは、操舵室にいる人たちの中に犯人がいる可能性が高いですね」
一ノ瀬は冷静に分析している。みれいも少し考えてみることにした。
まずは、凶器だ。
船長はナイフで胸を刺されている。このナイフはどこから持ってきたものなのだろうか。
「カイバラさん。凶器に使われたこのナイフは、どこのものかお分かりになりますか?」
「ああ、簡易的だがあっちにキッチンがある。そこにあるナイフと同じだと思う」
カイバラが歩き出してシンクへ向かう。下にある棚を開けると、そこにナイフを収納するスペースがあった。今はそこに何も刺さっていない。
「なるほど……」みれいは腕組みして、再び質問した。「元々、船長はどれぐらいこの部屋でおやすみになられる予定だったんですの?」
「ざっと九時間ぐらいかな。俺と代わる代わるだし、何より原則八時間勤務だからな。君たちが来なければ普通に休んでいたと思うよ」
みれいたちは食事を持って行ってほしいと頼まれてここへ来た。その食事を頼んだのは船長だったのだろうか。一応部屋には内線電話があるようだ。
「食事は、船長さんが自ら頼んだものと考えてよろしいですの?」
「そうだと思うけど……ええと、君たちは何を運んできたんだ?」
そういえば何を運んでいたのかみれいたちは知らなかった。入口に置きっぱなしになっているワゴンへ行って、皿に被っている銀製のクローシュを開けてみる。
そこには、カプリーゼと、薄く切ったパンの上に色鮮やかな具材が乗ったものが置いてあった。
「これ、名前なんですの?」
「ピンチョス」一ノ瀬が即答した。「イタリアのおつまみみたいなものばっかり」
「船長は、ワインとか、コーヒーとか好きなんだよ。一杯呑んでから寝るつもりだったのかな」
ということは、部屋のどこかにワインがあるはずだ、とみれいは再び船長の死体があるところまで戻る。棚のところに、コーヒーメーカーが置いてあり、その横にワインが並んでいるのが見えた。すぐ隣にはコルク抜きも置いてある。何かあったときに酔っぱらっていて大丈夫なのだろうか。
部屋をざっと見渡す。テーブルの上には、空のワイングラスとコーヒーカップが置いてあり、カップの中は黒い液体が半分ほど入っている。食事を頼む前に飲んでいたんだろうか。ゴミ箱の中にはスティックシュガーの袋と、丸まったティッシュが入っていた。
他には特に気になるものはない。
つまり船長は一仕事終えて、コーヒーを淹れて一杯飲んでいた。寝る前に軽く何かつまんでワインを飲もうと内線電話で通話をした。その後、何者かが部屋に入ってきてキッチン下にあったナイフで胸を刺された。それからしばらくして、食事を持ったみれいと一ノ瀬がやってきたことになる。
仮にこれが計画的な殺人だとすると、とてもお粗末なものになってくる。船上は一種のクローズドサークルだ。ここに勤めているものなら、通路にある監視カメラなどについても当然知っているだろう。わざと犯人をしぼりやすくするような状況を作るだろうか。
凶器を現場で調達していることからして、これは突発的な殺人に違いない。ついカッとなって刺してしまったというのも、ありそうなものだ。
「カイバラさん、ひとまず操舵室にいる方たちに現状を説明して、事情聴取を行いましょう。一ノ瀬さんも、それでよろしいですわよね?」
「問題ない」
「なんだか頼りなるな、あんたたち。まるで探偵だ」
カイバラはそう言い残して船長室を出て行った。
「探偵……」
思わず小さな声が漏れる。みれいにとっての探偵はたった一人。今どこで何をしているんだろう、とつい考えてしまう。
いつも何か事件が起きるとき、傍には冴木がいた。そして最終的に冴木が答え合わせをしてくれるという安心感がどこかにあった。それに甘えて、突飛な推理をしたり、思い付きで推理をすることもあった。だが、今回はそうはいかない。今ここに冴木はいないのだ。
みれいはぐっと拳を握って意気込んだ。
「きっと、犯人を捕まえてみせますわ!」