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ジョマルが部屋を出て行ってからどれくらい経っただろうか。
ジョマルは、あの令嬢と話をしてくると言って席を立ったがもう帰ったのだろうか、と俺は懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
「──まだ、数刻も経っていない、か……」
あの令嬢──確か、ベル嬢と言ったか。
目が覚めた時にベル嬢に向かって「誰だ」と言葉を発した際に浮かべていた悲しげな表情が、シヴァンと話をしている時に俺がベル嬢に発した言葉で彼女を傷付けてしまった時の表情が頭の中から離れない。
「くそ……っ、ルシアナ……俺はルシアナを愛しているのに……」
愛する人が居るのに、他の女性が気になっているという矛盾した感情を抱く自分自身に嫌気がさす。
「それにしても……何で俺は……ルシアナが居るのにベル嬢と結婚したんだ……」
何か、そうせざるを得なかった事情でもあったのだろうか。
「いや、シヴァンは確か俺がベル嬢を想っていた、と言っていた……。ベル嬢と結婚する為に奔走していた、とも言っていたな……」
ルシアナの事を考えると、こんなにも心が締め付けられ、ルシアナを求めていると言うのに、記憶を失う前の自分は本当にルシアナと婚約を解消したのか、と疑いたくなってしまう。
「何か……手掛かりのような物は無いだろうか……」
日記、は書くような性格では無い。
ベル嬢と結婚する為に奔走した、と言うのだから何かその証拠──書類のような物が残っていやしないだろうか、と書斎の中を探し回ったが書類一つ出てくる事も無い。
「──これ、は……?」
そこで俺はふ、と書斎の机の引き出しの中に閉まってあった小さな箱を取り出す。
それは、どこからどう見ても贈り物として用意していたようで、化粧箱には美しい薔薇の花の装飾が施されていた。
見た目からして女性への贈り物だろう。
そして、贈り物と言うのであれば恐らく自分の妻の為に贈る為に用意された物だろう。
「──何か、メッセージカード等……無いか……」
例え自分の妻だとしてもメッセージカードを書くとは思えない。
そんな手間の掛かる事を果たして過去の自分はしているのだろうか、と思いながら化粧箱を開ける。
シヴァンの言葉を信じるならば、記憶を失う前の自分はあのベルと言う女性を愛していたらしい。
「それならば、もしかして……」
自分の読みが当たった。
化粧箱を開けると、その中には髪飾りだろうか。ベル嬢の瞳と同じ晴れた空のような真っ青で澄んだ綺麗なサファイアの宝石があしらわれ、俺の瞳の色であるアメジストの宝石も少量ではあるが確かに使われている。
「──ベル嬢の瞳、と……俺の瞳……」
明らかにオーダーメイド品である事が分かるその装飾品を見て、俺は自分自身の独占欲に何とも言えない苦い気持ちを抱く。
「……これほど……」
あの、ベル嬢と言う女性を愛していたのだろう。
書くわけが無いだろう、と思っていたメッセージカードもしっかりと添えられており、俺は過去の自分が書いたと思われるメッセージカードを取り出すと、くるりと裏返してその文面に目を通す。
「──……っ」
その文字を見て、俺は自分の顔を手のひらで覆うと本当に自分が書いたのか、ともう一度そのメッセージカードに視線を落とす。
だが、見返してもカードに記載されている言葉は見間違いでも何でも無く、確かに自分の筆跡でベル嬢への気持ちが込められていた。
見ているのが恥ずかしくなり、俺はそのメッセージカードを贈り物の箱の中に戻すと、視界から追い出すようにしてしっかりと蓋をして引き出しの中に戻す。
「──っ、寝室には……何かないか……っ」
ベル嬢の私物は運び出されてしまっているが、自分の私物は残っているはずだ。
俺はジョマルやシヴァン、ベル嬢が戻って来ない事をいい事に、書斎を出て寝室へと向かった。
書斎を出て階段を上がり、寝室に到着する。
「普段、は……ここを利用していた……」
夫婦の寝室としてベル嬢も、この寝室を共に使用していたのだろう。
だが、今ではベル嬢の私物が全て運び出されてしまっており、室内は味気が無いほどただ本当に睡眠を取るだけの部屋のような内装になってしまっている。
扉を開けて中へと入り込み、寝室を見回す。
ベル嬢が使用していたのだろう。
ドレッサーがあった場所は、ぽっかりと穴が空いたかのように何も無くなっており、ベル嬢が使用していたクローゼットからも服が無くなり、ガラリと空いてしまっている。
寝台の横にあるローチェストもベル嬢が置いていた私物が全て回収されて、ローチェストの上には何も物が残っていない。
「──違和感、など……」
自分自身でベル嬢を拒んだくせに、ベル嬢の私物が全て無くなっている寝室が物悲しく感じて、俺はそう感じてしまう事そのものに違和感を覚える。
俺が愛しているのはルシアナで、ベル嬢では無い。
寧ろ、ルシアナとの未来があった筈なのに、その場所には見知らぬ女性が居て。
見知らぬ女性に対して邸の者達は皆親切に、楽しそうに会話をしていて、自分だけがその女性を知らない事にもやもやとした言い表せないような感情が胸を支配する。
「──くそっ」
苛立ちをそのままに、俺は寝台の横にあるローチェストに近付くとローチェストの引き出しを開けて中に何が入っているのかを確認した。
ローチェストの引き出しから出てきた小さな小瓶に見覚えが無かった俺は、その小瓶を取り出すとそっと自分の眼前に翳す。
小さなラベルがその小瓶には貼ってあり、そのラベルに書かれている文字を見て、俺は小さく「は?」と声を漏らすとその小瓶を元あった場所に急いで戻した。
困惑と、羞恥と、疑問。
ぐるぐると頭の中には「何故」と言う言葉が駆け巡るが、その答えを知っているのは今の俺では無くて昔の自分だ。
それと、ベル嬢もその答えを知ってはいるだろうが、流石にベル嬢には聞けない。
俺が慌ててローチェストの引き出しを閉めた時、寝室の扉の奥からシヴァンが俺の名前を呼ぶ声を聞いた。
「旦那様、こちらにいらっしゃいますか?」
「──あ、ああ。居る」
シヴァンへの返答に、些か声が上擦ってしまう。
俺のあからさまに取り乱したような声を疑問に思っているだろうが、シヴァンは特に追求するでも無く、「失礼しますね」と声を上げると扉を開いた。
入室して来たシヴァンは一人で、俺はその場に居ないベル嬢に疑問を持つ。
シヴァンは、俺が不思議そうな表情を浮かべたのはジョマルの事だと思ったのだろう。
「ああ、ジョマル様はまた明日にお伺いすると言った後帰宅しましたよ」
「そう、か。医務官の仕事が忙しいだろうに、ジョマルには手間を掛けてしまっているな……」
「旦那様が気に病む必要は無い、とジョマル様から言付けを受けております。それに、これが俺の仕事でもある、と仰っておりましたよ」
「──そう、か……。有難い事だな……。今度、ジョマルに礼を送らねば」
「それでしたら、奥様が既にお手配をされております。近日中に、ジョマル様がお好きなワインを手配すると仰っていましたので」
「──そうか」
ジョマルが、ワインを好いているのを知っているのか、と考え、俺は何とも言えない胃のむかつきを覚える。
結婚相手である人物の友人の好みまで把握している、と言う事はベル嬢はジョマルと良く話す機会があるのだろう。
「──……、?」
「旦那様?」
もやっ、と胸に落ちた違和感に、俺が眉を顰めていると不思議そうにシヴァンが俺に話し掛けて来る。
「い、いや。なんでもない……。その、他には何かあるのか?」
「──そうでした。旦那様にお伝えしなくてはいけない事がございます」
「何だ? 言ってくれ」
シヴァンに向かって俺が続きを促すと、シヴァンは少し言葉にし辛そうにしながらも、ゆっくりと唇を開いた。
「──明日、ルシアナ嬢がこちらに参ります。旦那様のお見舞いに、やって参ります」
「ルシアナが……っ」
どくり、と心臓が跳ねる。
ルシアナが邸にやって来る、と言う言葉を聞き、俺は込み上げて来る感情に突き動かされるまま、口元を緩めた。
「そうか、分かった……。会えるんだな……」
声音に喜びが滲んでいたのだろう。
シヴァンは床へ視線を落とすと、「はい」と俺の言葉に返した後に言葉を続ける。
「ですが、旦那様のご体調を鑑みて、ジョマル様も同席致します。ジョマル様の同席が無ければ、面会は不可、との事です」
「──ジョマルが? そこまで気遣ってくれているのか、有難い……。分かった。──明日、ルシアナは何時頃に来る予定なんだ?」
「午前中に、とだけ伺っております」
「そうか。ルシアナに心配をかけぬようにしっかり体調管理をしておかないとな」
ルシアナに会える、と言う事で気分が高揚してくる。
俺が、ルシアナとの対面の為に体調を整えておかなければ、と発言をするとシヴァンは何とも言えないような表情を浮かべて、「それでは失礼します」と言い、寝室から退出した。
がらん、とこざっぱりとしてしまった寝室の違和感を無理矢理頭の隅に追いやり、俺はルシアナと会えると言う事だけを楽しみにその日一日を過ごした。