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侯爵邸の玄関にやって来たジョマル様は大急ぎでやって来て下さったのだろう。
職場からどうにか都合を付けて来てくれたようで仕事着である宮廷の医務官の制服を身に付けたままで、私の姿を見付けると「ベル夫人!」と声を上げてこちらに駆け寄って来てくれた。
「報せは、聞いた……手紙と、ここに到着した時に使用人達にアーヴィングの事情は聞いたよ……。夫人も辛かっただろう……」
「お気遣い、頂きありがとうございますジョマル様」
眉を下げて心配そうに声を掛けてくれるジョマル様に、私の睫毛がじわり、と涙に濡れて来るのが分かる。
ジョマル様は私の様子を見て慌てたように懐からハンカチを取り出すと、手渡してくれる。
そのハンカチは、ジョマル様の夫人が刺繍を縫って渡した物なのだろう。ジョマル様の家門に描かれている百合の花が品良く刺繍されている。
「──も、申し訳ございませんジョマル様……。お仕事中にも関わらず、このように来て頂きありがとうございます……っ」
「なに、気にしないでくれ。何が原因でアーヴィングがベル夫人の記憶を失ったかは分からないが……忘れた方より、忘れられた人間の方が辛いだろう……」
ジョマル様の言葉に、私は昨夜流し切ったと思っていた涙が再びじわり、じわりと込み上げて来るのを自覚する。
もう、流し切ったと思ったのにそれでも涙は後から後から零れ落ちて来て、私の目の前にいるジョマル様が焦ったようにあわあわと両手を忙しなく動かしている。
ジョマル様に申し訳無い、と感じながらも私は涙を止める術が見つからず、ジョマル様が貸して下さったハンカチをそっと目元に押し当てた。
すると、ここで聞こえる筈の無い方の声が背後から響いた。
「──そこで、何をしている……!?」
「……っ、」
アーヴィング様の鋭い声音が飛んで来て、私は自分が叱責されたのか、と思いビクリと体を震わせた。
玄関ホールにある階段を急ぎ足で降りて来る足音が背後から聞こえて来て、私は涙を止める事が出来ないままおろおろとジョマル様の顔を見ながら今すぐ何処かに姿を消した方が良い、と考える。
恐らく、アーヴィング様は私の姿を見て苛立ちを感じているのだろう。
自分の邸にやって来た客人を、見知らぬ人物が出迎えて居る事に違和感や怒りを感じているのかもしれない。
(もう、あのような視線でアーヴィング様に睨まれるのは、嫌──)
ジョマル様に貸して頂いたハンカチは、洗った後に後日ご自宅にお返ししようと考え、私はその場から離れようとしたが、背後からアーヴィング様の焦ったような声が聞こえたと思ったら。
「──泣いているのか……!?」
「──ひゃっ、」
がしり、と肩を捕まれアーヴィング様が居る背後にくるりと振り向かされる。
私の顔を目にしたアーヴィング様は、眉を顰めるとご自分の目の前に居るジョマル様に責めるような視線を向ける。
「──ジョマル……、この女性に何かよからぬ事を……? 奥方が居るだろう、何をしようとしていたんだ……?」
「ちょ、ちょっと待て待て……!」
「ち、違います旦那様……! ジョマル様はハンカチを貸して下さっただけですわ……!」
アーヴィング様の言葉に、ジョマル様は顔色を悪くさせると疚しい事など何も無い、と言うように両手を胸の前に上げる。
私も、アーヴィング様が何か良からぬ勘違いをしている事に気付くと慌てて口を開く。
ジョマル様が、女性に対して酷い言動を取る事など有り得ない。
それはジョマル様と長年お付き合いのあるアーヴィング様だって分かっている筈なのに、何故そのような勘違いを、と考えて私は思い付く。
もしかしたら、アーヴィング様は私と出会ってからの記憶を失い、ジョマル様が奥様と結婚した事を知らないのかもしれない。
ジョマル様が独身の時は結婚相手を探す為に沢山のご令嬢に声を掛けていた、と聞いた事がある。
だからこそ、私は誤解を解こうとアーヴィング様に向かって声を掛けようとしたが、私が口を開く前にアーヴィング様がジョマル様に向かって唇を開く方が早かった。
「ジョマル、自分の奥方が妊娠中だからと言って……、他の女性に声を掛けるなどあってはならない事だ……! 自分の奥方を悲しませるような事はするな……!」
アーヴィング様が口にした言葉を聞いて、私とジョマル様は驚きに目を見開く。
ジョマル様が結婚したのも、ジョマル様の奥様が妊娠したのも。
私とアーヴィング様が結婚した後だ。
何故、ジョマル様の結婚も、ジョマル様の奥様が妊娠した事も、アーヴィング様が知って……いえ、「覚えている」のだろうか。
これでは、まるでアーヴィング様は私だけを忘れているようではないか。
そう言えば、先程もアーヴィング様はジョマル様に向かって奥方が居るだろう、と仰っていた事を思い出す。
二度も奥方の事を口にしたと言う事はアーヴィング様自身もしっかりと認識し、ジョマル様が結婚した事を覚えているのだろう。
ジョマル様も私と考えは同じなようで、慌てた様子でアーヴィング様の肩に手を置き、唇を開く。
「アーヴィング……! 俺が結婚した事を覚えているのか……!? 式に来てくれた事も、妻が妊娠した時に祝いの贈り物をした事も覚えているのか!?」
アーヴィング様は、ジョマル様の勢いに若干押されたじろぎつつ「ああ……」と頷いた。
「も、勿論だろう……。親友の結婚だ、こんなに喜ばしい事は無い。だから俺は式に参列して──」
「ああ、そうだな。お前はここに居るベル夫人と揃って式に来てくれた……! 妻が妊娠した時もベル夫人と一緒に祝いに来てくれた……! 覚えているだろう?」
「──えっ」
ジョマル様の言葉を聞いて、アーヴィング様は困惑したように僅かに瞳を見開くと、無意識だろうか。私の方へ視線を向けると、途端に痛みに耐えるように顔を顰めた。
「だ、旦那様……!?」
「アーヴィング!? 大丈夫か!?」
私とジョマル様が慌ててアーヴィング様に声を掛けると、アーヴィング様は私から距離を取るように一歩体を遠ざけながら「大丈夫だ」と小さく声を上げる。
──距離を取られた。
その事実が悲しくて、私がきゅう、と悲しみに目を細めるとジョマル様が私達二人の様子を見て気遣うように提案してくれる。
「──アーヴィング。少し部屋で話さないか? お前が覚えている記憶に齟齬が無いか、確認しよう。知ってるだろう? 俺は優秀な医務官だからな。お前が記憶を取り戻すいい方法が見つかるかもしれない」
「記憶……。そうか、本当に俺はあの女性の記憶を失っているんだな……」
今まで、半信半疑だったのだろう。
アーヴィング様は私の方へ視線を向けると申し訳無さそうに視線を床へと落とす。
そんなアーヴィング様の様子を見て、ジョマル様はアーヴィング様の背中に手を添えると唇を開く。
「それじゃあ、客間にでも案内してくれ。ベル夫人は──」
「私は後程、ジョマル様からお話をお伺い致します。……旦那様も、私が同席しない方がお気持ち的によろしいかと思いますので……」
私は辛い気持ちを何とか押し留めると、ジョマル様に向かって笑い掛ける。
私の顔を見たジョマル様は「分かった」と眉を下げて笑いながら、アーヴィング様と共に階段を上がって行った。
その間、アーヴィング様は私に視線を向ける事は無く、遠ざかるアーヴィング様のお姿を私はただただ見詰め続けた。
自室でソワソワと何処か落ち着きなく待ち続ける事数時間。
私の自室の扉がこんこん、とノックされる音が響き、私は座っていたソファから立ち上がると「はいっ」と声を上げた。
「──奥様、ジョマル様がサロンでお待ちです」
「ありがとう、今行くわね」
伝えに来てくれた侍女にお礼を告げて部屋を出ると、私は急ぎ足でジョマル様が待っていると言うサロンへと向かった。
サロンに到着し、入室するとそこにはソファに座り家令であるシヴァンさんと談笑しているジョマル様の姿がある。
アーヴィング様はいらっしゃらないので、このサロンにはジョマル様とシヴァンさんのみしかいない。
私がやって来た事に気付いたのだろう。
ジョマル様はソファから立ち上がり、私をソファまで案内してくれる。
「ベル夫人、待っていたよ」
「ジョマル様、今日は本当にありがとうございます。お仕事中だと言うのに駆け付けて頂いて、感謝してもしきれませんわ」
「親友の一大事だからね。これでも医療を齧っているから……何か手助けになれれば、と言う気持ちで来たのだけれど……」
言葉を紡いでいたジョマル様は、そこで言葉を区切り申し訳無さそうに顔を俯かせた。
覚悟は、していた。
ジョマル様が結婚した事はあんなにもしっかりと覚えていたのだ。
けれど、私と結婚した事は綺麗さっぱりと忘れてしまっている。
時間が経った今朝になってもアーヴィング様は私の事を思い出されていなかった。だから、予測は着いているけれど改めて認識してしまうと悲しくて悲しくて辛い気持ちになってしまうのは仕方がない事だ。
「──分かって、おります……。私の事だけ、覚えていらっしゃらないのですよね……?」
私の声に、ジョマル様は悲しそうに頷くとアーヴィング様とお話した事を話して聞かせてくれた。
「──記憶の、欠如……消失は、ベル夫人に関してのみ、だった……。俺と妻の結婚や、妻の妊娠はしっかり覚えているし、ベル夫人と出会ってから今日までに起きた事件や、仕事内容なども覚えている。……まるで、ベル夫人だけ存在を綺麗さっぱりと忘れている状態だ……。ベル夫人と共に行った慈善活動や、俺達の式への出席なども、自分一人で赴いている事に、まるで"記憶がすり替えられている"」
「──……っ、そんな事って……」
ジョマル様の言葉に、驚きで上手く言葉が紡げない。
次にジョマル様は、不思議そうに首を傾げると言葉を続ける。
「──そして、一番おかしいのは……ルシアナ嬢と想いを通じ合わせている、とアーヴィングが思い込んでいる事だ……。俺が知る限り、アーヴィングはルシアナ嬢とそこまで親密な関係では無かったし……傍から見ていて二人の関係は淡白で素っ気なかった……お互い……その、婚約はしていたが……、家の事情でただ無感情に政略的に婚約をしていたのに、だ」