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青の魔女は、「よっこいしょ」と声を上げながらソファから立ち上がり、その瞬間今まで見ていた若い職員さんの姿から老齢のお婆さんの姿に変わって。
私達は驚き、目を見開く。
「効果を解く際には余分な魔力を使用しないようにしないといけないからねぇ」
「──職員さん、のお姿も……魔法、で……?」
私の言葉に、青の魔女はにんまりと口角を上げて笑み、特に答えを返すことはしない。
否定しない、ということは肯定したも同然だろう。
「さて、……それじゃあベルと、ベルの旦那の薬の効果を消すから……無関係な奴はこの部屋から出て行きな。……ああ、坊やも一緒に連れて出て行っておくれよ」
「しょ、承知した……青の魔女殿……」
ジョマル様は、私とアーヴィング様に「外にいるよ」と声をかけると、イアン様を連れて出て行った。
ぱたん、と扉が閉まり。
室内に私とアーヴィング様、青の魔女の三人だけになる。
私とアーヴィング様に向かって青の魔女がゆったりと近付いてきた。
「──さて、災難だったねぇベル。気持ちを変えられるなんて、とても辛い思いをしただろうにねぇ」
「初め、は……大変でしたが……でも周囲の方々にいっぱい助けてもらいましたし……その……夫とも、時間をかけて再び気持ちを通い合わせることができたので……辛いだけの日々ではありませんでした」
「ベル……」
私の言葉に、アーヴィング様が小さく呟き、肩をそっと抱いてくれる。
きっと、アーヴィング様もこの数ヶ月。辛い思いや、自分の感情に悩まされてきた日々だっただろう。
私は肩を抱いてくれたアーヴィング様の手に、自分の手のひらを重ねるときゅうっ、と握る。
「そうかい……。あの馬鹿女のせいでベルや、その旦那が不幸にならなくて良かったよ……。二人にかけられた魔法の効果は、そのままそっくり依頼した二人に返してやろうねぇ」
「──えっ、返す……ですか?」
私は、魔女の言葉にきょとんと目を丸くしてしまう。
効果を返す、ということはイアン様とルシアナ様がお互い想い合う仲になる、ということだろうか。
私の疑問に青の魔女は答えてくれず、私とアーヴィング様の目の前にくると腕を伸ばし、青の魔女の手のひらが胸元──心臓の辺りに触れる。
「じっとしてるんだよ、馬鹿女の魔力を抽出するからねぇ」
「は、はいっ」
魔女の手のひらが置かれた場所が、じんわりと温かくなっている気がして。
そして、そこ──心臓、だろうか。その辺りから何かがシュルシュルと抜けて行くような、今まで感じたことのない不思議な感覚に襲われる。
隣にいるアーヴィング様も不思議な感覚に眉を顰めているのが分かる。
私とアーヴィング様はお互い無意識の内にお互いの手を探し、求め、ぎゅっと握り合う。
「気持ち悪い感覚だろうが……耐えておくれよ。あんたら二人、しっかりと根を張ってるからちょっと時間がかかるからねぇ」
「──、はいっ」
「──あぁ……っ」
ぐるぐる、と頭の中が回るような。
胸の辺りがもやもや、としているような。
今まで感じたことのない、例えようのない気持ちの悪さに私はアーヴィング様と繋いだ手に、ぎゅうっ、と力を込める。
気持ち悪い、気持ち悪過ぎるこの行為を止めてしまいたい、という感情が込み上がって来るが止めては駄目だ、と必死に自分に言い聞かせる。
今止めてしまったら、この先もずっとイアン様やルシアナ様に怯える日々が続いてしまう。
どれくらいの間不快感に、不安感に耐えていただろうか。
自分の胸元に当てられていた青の魔女の手のひらがふっ、となくなった。
「──……っ、」
その瞬間、今まで自分を襲っていた様々な不快感や不安が綺麗さっぱりとなくなる。
「終わったよ」
青の魔女に手を離された瞬間。ふっ、と私の体から力が抜けてソファの上で倒れ込みそうになってしまった所を、隣に座っていたアーヴィング様が咄嗟に抱えてくれる。
「ベル、大丈夫か……? 辛ければソファに横になっていると良い」
「だ、大丈夫です……ありがとうございますアーヴィング様」
「それなら……俺に寄りかかっていれば良い。無理はしないでくれ」
私達がそう言葉を交わしていると、青の魔女が眩しい物を見るように目を細め、ゆるりと微笑みつつ私達を見つめている。
「抽出した馬鹿女……黒の魔女の魔力は、どうするかね? このまま私が持って帰ってもいいのかな?」
青の魔女の言葉に、私がどうしようか、とアーヴィング様に顔を向ける。
するとアーヴィング様は顔色を悪くしたまま、魔女に縋るような瞳を向けている。
「……アーヴィング、様……どうされたのですか……」
どこか具合でも悪いのだろうか、と私が心配してアーヴィング様に声をかけると、アーヴィング様は今にも泣き出してしまいそうなほど顔をくしゃり、と歪め青の魔女に向かって震える声を発した。
「……っ、青の魔女殿……っ、記憶が……俺の……ベルに関わる記憶が戻らない!」
「──えっ!」
アーヴィング様の言葉に驚き、私が顔を向けるとアーヴィング様はぐしゃり、と表情を歪めながら「なぜだ」と繰り返している。
赤く染まっていくアーヴィング様の目元に。今にも涙が零れ落ちてしまいそうなアーヴィング様に、私の胸もぎゅう、と苦しくなってくる。
「うん……、? おかしいねぇ」
青の魔女はアーヴィング様の胸元にひたり、と再び手を触れさせたあと確認するように訝しむように頭上に視線を向けた。
「あの馬鹿女の魔力を抽出しちまえば記憶も戻るはずなんだが……」
青の魔女は、何かを探るようにアーヴィング様の胸元に手を当てたまま目を閉じ、何事かぶつぶつと呟いている。
そして、どれくらいそうしていただろうか。
魔女はぱちり、と目を開けると「分かったよ」と明るい声を出した。
「今日は、この薬を飲んでから眠りなさいな。忘却の魔法が胸──心臓に巣食っていたせいだね。馬鹿女の魔力は、血液に乗って身体中に流れちまった。そのため、記憶を司る脳にまで結構な量の魔力が絡み付いちまってるよ。だから、この薬を飲めば寝ている間にその魔力を全て吸収して消し去ってくれるよ」
「──っ、それを飲めばっ! 朝起きた時にはベルのことを思い出しているだろうか!?」
「ああ。問題ないよ。あの馬鹿女に魔法を教えたのは私だからね、これで間違いなく記憶は戻るさね」
自信満々に頷く青の魔女の言葉に、私とアーヴィング様は笑顔を浮かべ、抱き締め合う。
「ありがとうございますっ! 本当に、ありがとうございます青の魔女さん……っ!」
「恩に着る……! 青の魔女殿には感謝してもし切れないっ! 私にできることがあれば、何でも言ってくれ! いくらでもお礼はしよう!」
私達の喜びように、魔女も嬉しそうにくしゃり、と目尻に沢山皺を刻みながらにっこりと笑った。
そうして、私達の魔法の解除が終わった後。
部屋の外に退出して頂いていたジョマル様に部屋に戻ってきてもらう。
気絶したままのイアン様は、街の警備隊に運んでもらい、今後のことを話し合う。
私が警備隊の面々も同席して大丈夫か、と不安に思っていると青の魔女は「構わないよ」とあっさりと頷いてくれた。
そして、話し合いが始まる。
さきほど青の魔女が私達から抽出した魔力は、私達が保管してもどうすることもできないので、青の魔女に処理をお願いした。
ジョマル様はちょっぴり残念そうにその魔力を名残惜しそうに見ていたけれど。
そうして一息ついたのち、青の魔女は未だ気絶していたイアン様に視線を向け、イアン様を起こすため頬を強く叩いた。
バシン! と痛そうな音が響き、私は思わず「痛そう」と思ってしまう。そっとイアン様から目を逸らすとアーヴィング様の背に隠される。
「──ベル。イアンが目覚めたら君に何をするか分からない。決してイアンの近くには行かないように」
「分かりましたわ、アーヴィング様」
イアン様は、両手足をきつく拘束されており両隣には街の警備隊がぴったりと付いている。暴れたり、私に何かをしてきたり、といった心配はなさそうではあるが追い詰められたイアン様が苦し紛れに何かをする可能性だってある。
だからこそ、私はアーヴィング様の背からそっと覗き込むようにしてイアン様に視線を向けた。
叩かれ、起こされたイアン様は文句を言いながら体を動かそうとして、そして自分の体が拘束されていることに気が付いた。
「──痛ぇ……っ、……!? 何だこれは……!? おいっ、誰がこんなことを……っ」
「俺が命じたんだよ、イアン……」
イアン様の叫び声に、アーヴィング様はそれはもう恐ろしいほど低い声でイアン様に言葉を返した。
「アーヴィング……? くそっ、お前が俺を拘束したのか……っ!? 解け、縄を解けよ……っ!」
「解く訳がないだろう……! お前がベルにした行為が全て露見しているんだぞ!」
「──……へぇ」
アーヴィング様の怒声に、イアン様はにたりと嫌な笑みを浮かべると私の姿を探しているのだろうか。
室内を見回すような仕草をして、アーヴィング様の後ろに隠れている私を見付けた。
気色の悪い、甘ったるい声音で私の名前を口にした。
「ベル、迎えに来たよベル。俺と一緒に俺の邸に行こう。アーヴィングだって、全て知ったんだろう? ベルは、俺のことを愛している。そうなるように俺が、した……。今は不思議な感覚かもしれないが、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、ベルの俺への気持ちや感情は本物になるんだ……!」
「──最低な人間だな……っ」
イアン様はうっとりと熱に魘されたような潤んだ瞳で虚空を見上げると、ぎょろっとしたその瞳を私へ向けてくる。
「俺、が……! 最初にベルを見つけた……! それなのに、お前が急に横からベルをかっさらったんだろう! 最初にベルを見つけた俺の物になるのは当然だ……!」
「ベルを好いていたならば、最初から……俺より早くベルに声をかけていれば良かったんだ……。それを、後からベルに気があったなどと言われて……っ、しかも……ベルの気持ちをまるで無視したようなこの仕打ちは到底許されない……!」
「そんなこと知るか……! 借金まみれのベルをそのまま妻になどできないだろう……! だからこそ、俺はベルの家が借金を返したら……っ、赤字経営が黒字に回復したら、と目を付けていたのに……!」
「──なんだ、その理由は……」
アーヴィング様は、イアン様の身勝手な言葉に呆れたように呟く。
アーヴィング様は私の家が借金に苦しんでいた時、私の父と一緒に考え奔走し、我が伯爵家の借金問題を解決して下さった。
アーヴィング様の侯爵家で借金を肩代わりしては、私が負い目を感じるだろうから、と返済に向けて父と共同事業を興したり、領地経営の見直しに専門家を入れて下さったり、と沢山手を貸して下さったのだ。
そうして、憂いを全て絶ったアーヴィング様は、私に求婚してくれたのに。
それなのに、イアン様は身勝手なことを言い、一緒になる努力をしようともせずにいたくせに、とふつふつと怒りが湧いて来てしまう。
「──ベルっ! ベル、もういいだろう……!? 早く俺の手を取ってくれ……!」
イアン様から私の名前を呼ばれる度に、ぞわっと背中に寒気が走る。
私は、嫌な気持ちをそのままに、イアン様に向かって口を開いた。
「これ以上、私の名前を呼ばないで下さい……! 貴方に呼ばれる度にとても不快な気分になります!」




