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◇◆◇


 今にも泣き出しそうな程、悲しげな表情を浮かべ部屋を出て行った令嬢は一体誰なのだろうか。

 シヴァンが口にしたベル、と言う名前にも一切覚えが無いし、何故自分がルシアナと婚約を解消したのかも覚えて居ない。


「──シヴァン……俺は、本当にあの令嬢と結婚したのか? あれだけ愛していたルシアナを捨てて?」


 くるり、とシヴァンが居るであろう方向に体の向きを変え言葉にすると、幼い頃からこのトルイセン侯爵家に仕えてくれていたシヴァンが悲痛な面持ちでこくり、と頷く。


「旦那様は……詳しくは分かりませんが……、確かにルシアナ嬢とは円満にお別れをした、と旦那様から伺っておりました……。そうして、先程この部屋にいらっしゃったベル様……奥様と新たに婚約を結び直し、旦那様が求婚なさったのですよ……? 私から見ても、旦那様はベル様を愛しておいででしたし、ベル様と婚約を結ぶ為にとても奔走されておりました……」

「あの令嬢を、俺が……? ……全く思い出せないし、何も感じない……。それよりも、今はただただルシアナに会いたい気持ちが溢れてくる……」


 そこで、俺はふ、と疑問を感じてシヴァンへと視線を移すとその疑問を口にする。


「──それよりも、何故俺はベッドに……? 先程の女性が俺の体を心配していたような言葉を発していたが……俺の体に何かあったのか?」


 自分の体をペタペタと触り、確認するが怪我などもしていないし、体調も何処もおかしくない。

 頭もすっきりとしていて、あの女性の事は覚えて居ないが、シヴァンの事も覚えているし、他の事だってしっかりと覚えて居る。


「旦那様は……奥様とご結婚されてから久しぶりに、ご友人方とお会いする為に夜会に奥様とご一緒に行かれました……」

「──夜会に、先程の女性と?」


 駄目だ。全く思い出さない。


「ええ、それで……そのご友人方──……奥様が仰っていたのは、ジョマル様、イアン様、奥様のご友人のマリー様、そして……」


 そこで、シヴァンが何故か言葉を濁した。

 何故言葉を濁すのだ、と思いシヴァンへ続きを促せば、シヴァンが躊躇いがちに唇を開く。


「旦那様のご友人、としてルシアナ嬢も同じ部屋に居て、談笑していた、と……伺っております」

「──ルシアナも居たのか!?」


 ガバリ、と起き上がるとシヴァンへ確認するように声を上げる。

 同じ室内で、俺と先程の令嬢が夫婦として共に居る姿を見ていたルシアナの気持ちが心配になり、急いでシヴァンにルシアナへ報せを送るように告げる。

 あれだけ、愛し合っていたのだ。

 しかも、あの令嬢と結婚したのは一年程前で、まだ結婚してから日は浅い。

 一年前の俺が、何を考え愛しいルシアナと別れたのかは分からないが、あれだけ想いを伝え合い、気持ちを通じ合わせた相手が、他の人間と結婚し、自分の目の前に現れたとしたら。

 俺が逆の立場であればきっと耐えきれない。


「ルシアナに、事情を説明しないと……! 愛しているのはルシアナだけだ、と……! きっとルシアナは深く傷付いている筈だから……!」

「──お待ち下さい、旦那様! 貴方様はもう既に奥様を迎えているのですぞ! そのような事をしたら、奥様は、ベル奥様はどれだけ悲しむか……っ、ルシアナ嬢も突然旦那様にそのような事を言われて混乱するでしょう!」

「──だがっ、」

「一度、奥様としっかりお話をして下さい旦那様。ベル奥様は、旦那様が愛し、相当な無茶をして求婚した女性です。もしかしたら今は倒れられた衝撃で、混乱しているだけの可能性もございます……。一度落ち着いて、ベル奥様とお話をして下さい、いいですね?」


 全く持って腑に落ちない。

 先程の令嬢に、俺がそこまで惚れ込んでいたのだろうか。

 確かに、美しい容姿はしていたが、それだけだ。

 令嬢の何処に惹かれ、無茶をしてまで求婚したのか。

 シヴァンから語られているのは紛れもなく自分自身の事なのだろうが、まるで他人の話を聞いているように実感が湧かない。


「──分かった……。明日先程の令嬢と話してみよう……」


 俺の言葉に、シヴァンはホッとしたように表情を緩ませて頷いたが、先程の令嬢の事を考えるともやもやとした気持ち悪さが湧き上がって来て、俺は早々にその令嬢の事を頭の中から追いやり、改めてベッドに横になった。


◇◆◇


 翌朝。

 私は、アーヴィング様と結婚してから初めて夫婦の寝室では無く、自室で朝を迎えた。

 未だに、昨夜のアーヴィング様の態度が信じられなくて、冷たい視線と口調を思い出すだけでじわり、と涙が滲んで来てしまう。


「──あ、そう言えばガウン……」


 いつもは夫婦の寝室で寝起きしている為、普段使用している物をこの自室には持って来ていなかったんだった、と思い出して私は一晩経った今でもこの状況が嘘では無く、現実なのだと突き付けられる。

 私がベッドから起き上がり、さてどうしようか、と考えるとタイミング良く私室の扉がノックされる。


「──奥様、お支度のお手伝いに参りました」

「……入って」


 使用人の声音も、何処か緊張を孕んでおり硬い。

 家令のシヴァンにでもアーヴィング様の状態を共有されたのだろうか。

 いつもはハキハキと明るい使用人の声音も、何処か暗くて私は苦笑してしまう。

 失礼致します、と口にして入室してきた使用人は手早く私の支度を終えると、言いにくそうに唇を開いた。


「──奥様のお支度が終わりましたら、旦那様が寝室に、と仰っておりました……」

「──分かったわ。ありがとう」


 私は使用人ににこり、と笑みを返すとアーヴィング様が待っているだろう寝室へと向かった。


 いつもは、私が声を掛けるまで寝台から決して起きる事が無かったアーヴィング様。「お一人でも起きれるのね」と私は小さく呟くと寝室へと続く廊下を足早に歩き、寝室の扉の目の前へとやって来た。

 緊張感からか、若干乱れてしまった息を整え、覚悟を決めて扉をノックすると、聞き慣れたアーヴィング様の声が扉の奥から返って来る。

 けれど、その声は見知らぬ人間に向けているような冷たい声音で、私は唇をきゅっ、と噛むと扉の取っ手に手を当てて開いた。


「──おはようございます」

「ああ、おはよう。……呼び出してすまない」


 ちらり、とアーヴィング様から視線を向けられるが、それも直ぐにすっとそらされてしまう。

 室内には、家令であるシヴァンさんの姿があり、シヴァンさんが眉を下げながら同じく挨拶の言葉を掛けてくれる。


「奥様、おはようございます」

「ええ、おはよう。シヴァンさん」


 私も眉を下げてシヴァンさんに言葉を返すと、自分の家令と親しげに言葉を交わす私を、訝しげに見詰めるアーヴィング様と目が合う。

 ぱちり、と視線が合ってしまい、アーヴィング様は気まずそうに私から視線を外しながら、躊躇うように唇を開いた。


「──ベル嬢、と言ったね……。すまない、私は昨夜貴女の記憶を無くし、一晩経った後も貴女を思い出す事が出来なかった。……本当に、私と貴女は婚姻関係なのだな……」

「いえ……アーヴィ……旦那様も、突然の事で戸惑っていらっしゃるでしょう……」


 アーヴィング様は、私に確認するように言葉を紡いだが、私の返答を特に必要としていないような気がする。

 本当に私との婚姻が事実なのかお調べになったのだろう。

 私は、アーヴィング様の言葉に否定も肯定もせずにアーヴィング様を気遣う言葉しか返す事が出来ない。

 昨夜、アーヴィング様の名前を呼んだら、不快感を顕にされていたので、不用意にアーヴィング様のお名前を呼ばす、「旦那様」とお呼びすると、アーヴィング様がぴくり、と肩を震わせた。


 アーヴィング様は、深く溜息を吐き出すとやや間を置いて俯いていた顔を上げ、私の顔を見てしっかりと言葉を紡いだ。


「申し訳無いが、私には貴女の記憶が無い。貴女と結婚した事も覚えていないし、貴女を愛していた記憶も無い……。だが、婚姻関係にある事は理解している。貴女を愛していた記憶は無いが、婚姻は事実だ。侯爵夫人としての仕事のみ、貴女には行って頂きたい」


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