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イアン様の手の中にあった小さな瓶は跡形もなく消え去り、イアン様は呆気に取られたように呟いた。
「──はっ、? え……っ」
イアン様は動揺し、瞳をゆらゆらと揺らしているが、私やアーヴィング様、ジョマル様も同じように動揺が広がっている。
だが、いち早くこの状況の有り得なさを理解し、正気を取り戻したのもイアン様で。
イアン様は小瓶がなくなってしまった手のひらを握り締め、怒りを顕にして職員さんを鋭く睨み付けた。
「──女ァっ! 貴様っ、何をした……っ!!」
ガシャン! と目の前の柵を握り締めガシャガシャと柵を揺らすイアン様の異常性、形相にソニーが小さく悲鳴を上げて、私のドレスの裾を握り締める。
「ソニー」
職員さんは怯え、怖がるソニーに安心させるような笑みを向けたあと、まるで視線だけで人を殺めてしまいそうな視線でイアン様を冷たく射貫く。
そして、ゆっくり口を開くと感情の籠っていない冷たい声音で言葉を発した。
「お前が……あの馬鹿な女に金を積んで碌でもないモンを作らせたんだねぇ……それで、そこにいるお嬢さんと、その旦那に碌でもないモンを使用したのか……そうかい」
「──は? なに、を……っ」
先程までは若い女性の声だったのに、職員さんの声が年配の女性のような声を発する。
話し方も若い職員さんのような口調ではなく、まるでお婆さん、のような話し口調になっていることに私が動揺していると私達の方に職員さんがくるり、と振り返った。
振り返った職員さんの姿は、今まで見ていた若い職員さんと同じ姿で。
先程の声を出していたのが目の前にいる職員さんだとは到底思えない。
職員さんはにっこり笑顔を浮かべ、何が何だか良く分かっていない私とアーヴィング様に向かって優しい表情で言葉を紡いだ。
「──暫く貴方達を見させてもらったが……、善良な貴方達を恨み、酷い薬を使う奴を許してはおけない。……貴方達に使われた薬の効果は私が解除してあげよう」
その後、職員さんは「そして」と言葉を続けてイアン様に視線を戻す。
「──人の心を操るような、禁忌の薬を作った馬鹿女も、それを依頼したこいつ等もしっかりお灸を据えてやらないとだね」
職員さんはにこやかな笑顔とは裏腹に、どこか底知れない恐ろしさを感じる雰囲気に、イアン様は慌てて逃げ出そうとした。
だが、職員さんは軽い口調で「逃がすかい」と告げると柵の向こう側。
イアン様がいる方向に手を伸ばした。
途端、逃げるために柵から離れていたイアン様の体が勢い良く柵に戻ってきて、その速度でイアン様の体が柵にぶつかり派手な音を立てる。
声にならない声を上げたイアン様の首を職員さんは軽々と持ち上げ、苦しさにバタバタと暴れるアイン様の足が突然力を失ったかのようにぱたり、と静かになった。
直後、職員さんが掴んでいた手を離すとイアン様の体は支えを失いそのまま力なくどさり、と地面に崩れ落ちた——。
私達は一連の流れに呆気に取られていたが、直ぐにアーヴィング様がはっと気を取り戻し、急いで柵の奥に崩れ落ちたイアン様を到着した街の警備隊と共に拘束に向かった。
孤児院の職員さんは、孤児院の他の職員さんを呼んでいたのだろう。
少し経ってやって来た別の孤児院の職員さんにソニーを預け、孤児院に帰らせる。
イアン様を捕え、詳しい話を聞くため一先ずルドイツ子爵邸に運び込み、街の警備隊も数人イアン様が暴れないように、と邸に残ってくれた。
そうして、ある程度落ち着いた頃合を見計らって、私達は邸のサロンに向かうことにした。
慌ただしく時間が過ぎ、場所を移した私達はサロンで向かいのソファに座る職員さんに緊張した面持ちで話しかける。
口火を切って下さったのは、もちろんアーヴィングだ。
「──それで、職員殿……、と呼べばいいだろうか? 説明をして貰っても?」
イアン様の突然の訪問に、私達の間に走った緊張感は職員さんが「何か」をしてイアン様の手にあった小瓶を消し去ってくれたお陰で事無きを得た。
小瓶の正体と、そして——職員さんの正体。
私はもちろん、きっとアーヴィング様、ジョマル様も察している。
だけど、職員さんの口から説明されないと何が起きたのか、理解が出来ない。
アーヴィング様に問いかけられた職員さんはゆるり、と口元を笑みの形に変えて言葉を返した。
「そうさね、……今の私は職員ではなく、お前さん達が良く知っている呼び名で呼んでくれて構わないよ。……青の魔女、と呼んでくれ」
──魔女。
その言葉を聞いた瞬間、やっぱりそうだった、とストンと納得する。
イアン様が持っていた小瓶をあのようにどこかに消してしまうことも、私達に使われた薬の効果を消してしまえるのも、同じ魔女でなければ無理だろう。
普通の人間には、到底不可能だ。
「青の魔女、さんとお呼びいたしますね。どうして、貴女は私とアーヴィング様を助けて下さるのですか……? 貴女とは、ここ最近孤児院で出会ったばかりなのに……」
私が青の魔女に向かって疑問を口にすると、青の魔女は私に優しい目を向けてその問いに答えてくれた。
「そうさね……。孤児院に来る前から、あんた達のことは感じ取っていたよ。何か、変な物を飲まされて、体の内に魔女の魔力を入れられちまった人間が来るなぁ、と。最初は関わる気なんてこれっぽっちもなかったんだけどねぇ……」
青の魔女はそこで一旦言葉を切ると、ちらりと私に視線を向けた後、次いでアーヴィング様に視線を向けた。
「下手に関わって、私が魔女だと知られるのは嫌だったんだが……。あの孤児院は私にとても良くしてくれてね。皆お人好しで、暖かい奴らだろう? 色々あって、流れ着いた私をあそこの孤児院の奴らは私をほいほいと助けて、招き入れてくれたんだ。素性も知れない怪しい私をねぇ」
私は、青の魔女が孤児院を思い出し、話している表情を見て自然と笑みを浮かべた。孤児院のことを話す青の魔女の表情はとても暖かくて、瞳には慈愛が満ち溢れている。
「あの、孤児院が……大好きなんですね……?」
「大好き……そうなんだろうね……。そうか、私はあの孤児院の奴らが好きなんだよ……」
青の魔女は瞳を細めて嬉しそうに笑うと、うんうん、と頷いた。
「あの孤児院に、この領地の貴族の奥方が来てるのは私も知っていたよ。あの奥方もお人好しで、優しくて……いい人間だ。そして……その奥方が連れて来たのが……ベル、と言ったかな? あんただった。……ベルを見た時はびっくりしたよ。……心全体に真っ黒い根が張っちまってて……どれだけこの女は人の恨みを買ったのだろう、とな……」
「真っ黒い、根……」
私が青の魔女の言葉に怯み、自分の胸元に手を当てると、隣に座っていたアーヴィング様が安心させるように私の手を握ってくれる。
「青の魔女殿……、ベルは人の恨みなど買うような人間ではない……っ、全ては俺が原因なんだ……」
「ああ、それも今では分かっているさ」
アーヴィング様の言葉に青の魔女は私とアーヴィング様を優しい瞳で見つめたあと、からからと笑い声を上げて口元を笑みの形に変える。
「……初めはそんなとんでもない女が来るから、孤児院の奴らを関わらせないようにしなくては、と思っていたんだが。ベルを観察していたらどうもそんな、恨みを買うような奴ではなさそうだと分かってねぇ。……黒い根は、恨みや執念、歪んだ執着を表すんだよ。あとは……歪んだ欲望、とかね。……だからああ、ベルは変な奴に執着されているんだな、と暫く観察していて分かったよ。そして……それは旦那であるあんたも同じ状態だった……」
魔女の言葉に、私とアーヴィング様は押し黙る。
私達が説明をしなくとも、青の魔女は私達の事情が手に取るように分かるのだろう。
時折ふんふん、と頷きながら私とアーヴィング様の胸元──心臓の辺りをじぃっと見つめながら言葉を続けていた。
「──まあ、そんなことであんた達二人に執着の呪いのような物が根付いているから……注意深く観察していたら……今日のあの坊やの訪問だろう?」
「──坊や……」
イアン様のことを"坊や"と揶揄い、そしてその揶揄いの表情は一瞬で消えて。真顔になった青の魔女は「あれはいけない」と告げた。
「あれは、金にがめつい馬鹿魔女……黒の魔女に捕まったんだねぇ。そもそも、人の記憶をいじくる薬を作ること自体、私らの中でも禁忌。……それをあの黒の魔女は金に目が眩んでほいほいと作ったんだ……。普段、私ら魔女は人間の体力増強や、自己治癒力を高める程度の薬しか作らないからね。お前さん達が言う魔女の秘薬は、禁忌を犯して作られた薬のことさね」
まったく、嫌になっちまうね。と青の魔女は小さく溜息を吐き出し、私達の隣のソファに腰かけていたジョマル様に視線を向けて、肩を竦める。
「──だから、兄さんがどんなに調べても魔女の秘薬についてはあまり情報が出回っていなかっただろう? 秘薬は禁忌を犯した薬だ」
「私が、調べていたこともお見通しだったんですね……恐れ入りました、青の魔女殿」
ジョマル様が苦笑して魔女に頭を下げると、青の魔女はふん、と得意気に鼻を鳴らして「さてと」と小さく声を出す。
「まあ、私はベルを気に入ったから助けたってだけだな……。子供に好かれる者に悪い奴はいないんだ。子供達に好かれるベルは良い人間だからね……。じゃあ、ベルとそっちの旦那にかけられている薬の効果を消そうか」
からっと明るく言い放つ青の魔女に、私とアーヴィング様はお互い顔を合わせ、たまらず抱き合った。




