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 翌日。

 今日は午前中にカティアと一緒に孤児院に出掛ける予定がある。

 だから、その事をアーヴィング様にも伝えておかないと、と思い朝食の時間に私はアーヴィング様に話すことにした。

 昨夜はお仕事が終わらなかったのか、それとも急にお仕事が入ってしまったのか。

 アーヴィング様は、私が眠る時間帯に寝室に戻って来ることはなくって。昨夜私が寝ている間に寝室にやって来たのだろう、私が朝目覚めるとアーヴィング様の腕の中で。

 私がびくりと体を震わせてしまい、アーヴィング様を起こしてしまった。

 寝惚け眼のアーヴィング様は何だか可愛らしくって、ふふ、と笑みを浮かべながら私はアーヴィング様に声をかける。


「アーヴィング様。今日は、午前中にカティアと孤児院に行って来ますね。午後には戻って来る予定です」

「──ああ、そうか、今日だったか……!」


 アーヴィング様はハッとしたように瞳を瞬かせると、私の顔を見つめながら何か言い淀んでいるようなお顔をしている。


「アーヴィング様、何か……? もしや、行かぬ方がよろしいでしょうか?」


 アーヴィング様のお顔に、ちらりと不安気な色が見えて。私がそう声をかけるとアーヴィング様は「いや」と首を横に振った。


「──大丈夫、だとは思うが……せっかくの子爵夫人との約束だ。外出を控え、下手に心配をかけてしまうのは避けたい……ベル」

「な、何でしょうか……?」


 アーヴィング様の真剣なお顔と声音から、私たちはベッドに起き上がり向き合う。

 そして私は背筋を伸ばし、何処か緊張した面持ちで答えた。


「──イアンが姿を消したらしい。……ベル、君を探している可能性がある。……決して一人では行動しないようにして欲しい」

「……っ、イアン様、が……っ」


 イアン様の名前を聞いて、どきりと心臓が嫌な音を立てる。


「護衛も、普段よりは増やしてくれ」

「分かりましたわ……、アーヴィング様」


 心配そうに私を見やるアーヴィング様に、私はこくりと深く頷いた。



 朝食が済み、アーヴィング様はお仕事を。

 私はカティアと共に訪問の準備を行う傍ら、朝食の時に聞いたイアン様のお名前にどきりどきりと胸が騒ぐ。

 アーヴィング様と共にいる時とは違う、胸騒ぎ、と言うものだろうか。アーヴィング様と共に過ごす間は高鳴る鼓動が心地良いのに比べ、イアン様のことを考えると緊張や、不安で胸がざわつく。

 アーヴィング様から聞かされたイアン様のお名前が頭の中から離れず、私はままならない自分の思考回路に嫌気がさす。


「考えたくないのに……イアン様のお顔がちらついてしまう……」


 これが、魔女の秘薬の効果なのだろうか。

 アーヴィング様を想う気持ちに嘘は無いのに、時折イアン様のお顔や、声、姿を思い出してしまい、頭にこびり付いて離れない。


「恐ろしい感覚だわ……」


 今はイアン様と接触をしていないお陰か、このように考えてしまうことが「異常」だと分かるが、あのまま侯爵家に居続ければきっと私はイアン様と会い続けてしまっていただろう。

 そうして、イアン様と会い続けて、アーヴィング様を愛していたことを徐々に忘れていく。


「──……っ」


 想像しただけで、ぎゅう、と胸が苦しくなる。

 イアン様の声を聞いた瞬間に、自分の意識が遠のいた感覚を思い出してしまい、私は自分の体を抱き締めるようにぎゅう、と腕に力を込めた。

 意識が遠のいているのだから当然なのだが、恐らくその間はアーヴィング様を一切思い出していなかった。

 この感覚を、アーヴィング様も味わっていたのだろうか、と考えて私は唇を噛み締める。


「一晩で私を忘れてしまったアーヴィング様より、徐々にアーヴィング様から気持ちが離れて行くような……徐々に時間をかけてアーヴィング様を忘れて行くような秘薬を、イアン様はお使いになったのね……なんて残酷なことを……」


 アーヴィング様が、ルシアナ様と距離を置いたからこそアーヴィング様は私のことを少しずつ思い出してくれている。

 けれど、もしアーヴィング様が自分の気持ち──感情のままに動き、ルシアナ様と頻繁に接触していたら、きっとアーヴィング様も私を思い出すことはなかっただろう。

 その様子を見続ける私は、きっと傷付き、心を壊していたかもしれない。

 そうして、イアン様と会っている時だけアーヴィング様を忘れられることに、私はきっと縋る。

 アーヴィング様のことを考えたくないから、とイアン様と会うことが増えて、そして──。


「──ベル、? 子爵夫人が見えたが……。──っ、大丈夫か!? 顔が真っ青だぞ!」


 自室にいた私をわざわざ呼びに来てくれたのだろう。

 アーヴィング様が自室の扉を開けて、私の顔を見た瞬間さっと顔色を変え部屋に駆け込んだ。


「だ、大丈夫です……」

「すまない、先程朝食の席で俺があいつの名前を出したからだな……。考えが至らずすまない……っ」


 アーヴィング様は部屋に入るなり、私の体をぎゅうっ、と抱き締めてくれる。

 背中に回ったアーヴィング様の腕が、私の背中を落ち着かせるようにとん、とん、と優しく叩いてくれて、私はアーヴィング様の腕の中でほうっと息を吐き出す。


「どうする? 子爵夫人に今日の孤児院訪問は断るか……?」

「いえ……行きますわ……カティアと約束したので……」


 力強く抱き締めてくれるアーヴィング様の胸に抱かれ、私もアーヴィング様の背中に腕を回してきゅうっ、と抱き締め返したあと、私はぱっと体を離してアーヴィング様から離れる。


「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません。カティアと出掛けてまいりますね」


 心配そうな顔をしているアーヴィング様に私は笑いながら声をかけると、アーヴィング様は私の手を取って一緒にカティアの下へ向かってくれた。

 私とアーヴィング様が一緒に階段を降りて玄関に向かうと、カティアが庭園にある椅子に腰を下ろして庭園を眺めていた。


「ルドイツ子爵夫人」


 アーヴィング様がカティアに声をかけると、カティアは椅子から立ち上がり、アーヴィング様と一緒にいる私に笑顔を向けた。


「トルイセン侯爵様、ベル、こんにちわ。今日はベルをお借りいたしますね」

「カティア、今日は宜しくね」

「ベルを宜しく頼むよ」


 私とアーヴィング様はカティアに笑顔で言葉を返すと、アーヴィング様と繋いでいた手を離してカティアに近付いていく。

 アーヴィング様に手を振り、何人かの護衛の人達と一緒に馬車に乗り込み、ルドイツ子爵の別邸を後にした。

 私とマリーを乗せた馬車が見えなくなるまでアーヴィング様は少し不安そうに、寂しそうな表情でずっと見送ってくれていた。



「──ふふふっ、侯爵様のあのお顔。ベルを取っちゃって、私恨まれちゃいそうだわ」


 馬車に乗り込んで暫し。

 カティアがクスクスと笑いながら揶揄うように私に向かって声をかけてくる。


「そ、そうかしら……? そんなことないわよ。私こそカティアを取っちゃって、ルドイツ子爵から恨まれちゃわないかしら?」

「そんなことないわよ~。あの人は今回ベル達が来てくれた事に大興奮よ? 侯爵様と少しでもお近付きになるんだっ、て息巻いていたからね」

「アーヴィング様と?」

「ええ、ベルはいつも侯爵様と一緒にいるから慣れちゃってるんだと思うけど……。侯爵様はお若い時に爵位を継いで、曲者揃いの貴族達とやり合って来た人だもの。頭の回転も早いし、人脈も広い。子爵位の自分は中々お話する機会がないからこの機会に顔と名前を覚えて貰うんだ、って息巻いていたわ」


 カティアの言葉に、私はぱちくりと瞳を瞬かせてしまう。

 確かに、アーヴィング様と共にいることが当たり前となってしまって感覚が麻痺してしまっているが、アーヴィングは未だ二十歳。

 爵位を継いだのは私と出会う前、数年前に侯爵の爵位を継いでいる。

 カティアの言う通り、アーヴィング様は若い頃に侯爵を継ぎ、大変な苦労をしただろう。

 周りの貴族達は殆ど自分より年上で、「年若い侯爵」とどのように接していたのか想像にかたくない。


「──そう、ね……。確かにカティアの言う通りだわ。……アーヴィング様は大変な苦労をなさっていたと思うわ……」

「……あっ、でもね! 私とベルが友達だから今回は少しズルしちゃってるけれど、旦那様は私達を抜きに、自分で何とか侯爵様と切っ掛けを作れれば、と考えているからね……!」


 こんな話をしちゃったけど、気にしないで! とカティアが慌てたように声を上げる。

 私は大丈夫、というように笑顔を浮かべた。


「ふふ、大丈夫よ。カティアがそんなことをするなんて、思っていないわ」

「ありがとう、ベル」


 私達が顔を見合わせて笑いあっていると、話をしている間に到着したのだろう。

 馬車ががたん、と小さく揺れて停車した。


「あら、もう着いたみたいね」


 カティアが馬車の窓から外を見て、腰を上げる。


「ベル。孤児院の人達はみんな穏やかで優しいから、そんなに緊張しなくて平気よ。さ、行きましょう?」

「──ええ。分かったわ」


 外に出るカティアに続き、私も馬車から下りた。


 ルドイツ子爵の治める領地にある孤児院は、こじんまりとした古い外観だけれど、どこか暖かさの感じる孤児院で。

 子供達がみんな明るい笑顔を浮かべ、庭で遊んでいる姿が見える。

 庭先で遊んでいた小さな子供がカティアに気付いたのだろう。

 ぱあっ、と表情を輝かせると「カティアさま!」と声を上げて走り寄って来た。


「あら、ジム! 元気いっぱいね?」

「──へへっ、カティアさまが来てくれたのが嬉しくて!」


 走り寄って来たジム、と呼ばれた男の子がカティアのお腹に抱き着くとマリーがジムの頭を撫でてやる。

 頭を撫でられるのが嬉しいのだろう、ジムは嬉しそうに頬を染めた後、マリーの隣にいる私に気が付き、きょとん、と目を瞬かせ首を傾げた。


「──カティアさま。この綺麗な人はだれ?」

「この人は、ベルと言うのよ。私の大切なお友達」


 カティアが私を紹介してくれた後、私は膝を付いて目線をジムに合わせて挨拶をする。


「初めまして、ジム。ベルって言うの、よろしくね?」


 私がそう言うと、ジムは恥ずかしそうにもじもじとしながら「よろしく」と小さく返事を返してくれる。

 ジムの可愛さについつい頬を緩めていると、背後から若い女性の声が聞こえた。


「──あら、カティア夫人? と、そちらの女性は……」


 声が聞こえた方向にカティアが振り向き、小さく「あ」と声を出したあと私に向かってこそりと教えてくれた。


「ベル。あの女性が、占いが得意な職員さんよ」


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