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ゆっくりと意識が浮上してくるのを感じる。
私は、まだ眠っていたいという気持ちと、起きなければいけないという二つの感情と戦いながら、まだ眠っていたいと言う欲の方が勝り、私は暖かく自分の体を包んでくれる「何か」に体を擦り寄せた。
私を包む「何か」がビクリ、と跳ねてそっと遠慮がちに私の背中に腕が回って、そっと優しくだがしっかりと抱きしめられて引き寄せられる。
「──、……、?」
腕? どうして私は腕だと思ったのだろう、と考えてそして一瞬で微睡んでいた意識が覚醒する。
私が慌ててばちり、と閉じていた瞼を開けると、目の前には誰か──誰、なんて考えようもない。間違いなくアーヴィング様の胸元が瞳に写り、私は頭の中が混乱する。
「──ッ、」
驚きによりひゅっ、と息を吸い込んでしまう。
その私の動きにアーヴィング様がぴくり、と瞼を痙攣させた。
起こしてしまったかしら、と私がハラハラしているとアーヴィング様がゆっくり目を開いた。
アメジストの宝石のような美しいアーヴィング様の瞳に、真っ赤に顔を染めた私が写っている。
「──ベル、おはよう……」
「お、おはようございますアーヴィング様」
アーヴィング様はふわりと微笑み、瞳を細める。
アーヴィング様が意識を失ってから、今日まで。
こうして目覚める時にアーヴィング様におはよう、と言って頂いたことがなかった。
久しぶりに共に目覚めることが嬉しくて。
今までは当たり前のようにできていた。
共にいることが当たり前だった過去が、今はどれほど尊く難しいことか。
「おは、ようございます……っ」
アーヴィング様とこうして今までのように同じベッドで朝を迎え、朝一番に挨拶ができる幸せに私が思わずくしゃり、と顔を歪ませるとアーヴィング様も悲しげに眉を下げ、先程私を抱きしめて下さっていたように、再びそっと抱きしめられる。
「──ベル。……これからは、一緒に眠ろう……。あちらに帰っても、ベルをもう一人では寝させたくない……」
「ありがとうっ、ございます……っ」
独り寝はとても寂しくて、苦しくて。
毎夜、隣にあったアーヴィング様の温もりを探していた。
けれど、アーヴィング様が侯爵家に戻っても共に、と言って下さったことが嬉しくて私はアーヴィング様に笑顔でお礼を告げた。
何処か気恥しい雰囲気の中、私とアーヴィング様は着替えを終え、朝食のため食堂に向かい、朝食を食べ終える。
朝食が終わったアーヴィング様は、こちらでもできるお仕事を済ませてしまう、と言って午前中はお仕事のために書斎へ向かった。
だが、午後はルドイツ子爵邸の庭園を一緒に散策しようと誘って下さった。
アーヴィング様が、私との時間を取り戻そうとして下さっているように感じて、私は嬉しさを抑えることができずに何度も頷いてしまった。
◇
午後。
アーヴィング様と散策のため、私はデイドレスの中でも比較的動きやすいドレスに着替え、以前アーヴィング様から贈って頂いた髪飾りを付けて別邸の玄関に向かう。
玄関に繋がる大階段に辿り着くと、既にアーヴィング様の姿があって私は慌てて階段を降りた。
「──っ、アーヴィング様っお待たせしてしまい申し訳ございません……っ」
「いや、俺が早く来過ぎてしまっただけだから焦って来なくても大丈夫だ。怪我をしたら大変だろう」
アーヴィング様が、私の前で自分のことを「俺」と仰った。
記憶を失ってからアーヴィング様は、私の前では決してご自分のことを「俺」とは言わず、自分のことを「私」と言っていたのに。記憶を失う前のように、一人称が戻っている。
ここ最近のアーヴィング様のちょっとした変化がとても嬉しくて、私は「大丈夫です」と笑顔でアーヴィング様の元に向かった。
アーヴィング様にエスコートをして頂きながら、私達は庭園へ向かう。
カティアが好きだ、と言っていたアネモネの花を沢山集めた花壇が作られていて、ルドイツ子爵のカティアへの愛情を感じられる。
大好きな友人のカティアがルドイツ子爵に愛されているということが自分のことのように嬉しくて、私が思わず「ふふ」と小さく声を出して笑うと、隣を歩いていたアーヴィング様が不思議そうに視線を向けた。
「──ベル?」
「あ、申し訳ございません。カティアが好きな花がアネモネなのです。ルドイツ子爵は、それを知って沢山アネモネを集めたのだろうな、と考えて」
「──ああ、確かに見事な花壇だな」
アーヴィング様も、目尻をふわりと和らげ薄ら笑みを浮かべながら花壇に咲き誇る様々な色のアネモネを見つめる。
「ベルは、かすみ草が好きだったな……?」
「──……っ、はいっ、そうです……っ」
ぽつり、と呟いたアーヴィング様の言葉に私は驚き、上擦った声を出してしまう。
何故、私が好きな花を覚えているのか。もしかしてアーヴィング様は記憶を思い出したのだろうか、と思いアーヴィング様に視線を向ける。
すると、先程まで花壇のアネモネに向いていたアーヴィング様の視線がいつの間にか私をじっと見つめていて、真っ直ぐ見つめて来るアーヴィング様に私は期待と、不安と、緊張でドキドキと鼓動を速める。
すると、するりとアーヴィング様の腕が伸びてきて。私が髪留めに使用した髪飾りに、アーヴィング様の指先がそっと触れた。
「──確か……、この髪飾りは俺が……。そうだ、確かベルと街へ出掛けた時に。貴女に似合いそうだから、と宝飾店で購入したんだ……。貴女に、俺の瞳と同じ色を付けて欲しくて……」
「アーヴィング様……っ、思い出して……っ」
顔を顰め、過去の記憶を思い出そうとするように額に手を当てるアーヴィング様についつい記憶が全て戻ったのか、と期待してしまうのを止められない。
ジョマル様からは、過度に期待して相手に負担を掛けてしまうのは良くない、と聞いてはいるがアーヴィング様の言動についつい期待してしまう。
すると、私の言葉にアーヴィング様は申し訳なさそうに小さく頭を横に振ると眉を下げて口を開いた。
「──すまない。……ふとベルと出掛けたことを思い出しただけで……。他のことはまだ、何も……」
「いいえ、いいえ。いいのです、アーヴィング様が謝ることではございません……っ」
辛そうに表情を歪めるアーヴィング様に、私はふるふると首を横に振り、そっとアーヴィング様の腕に手を添える。
アーヴィング様は、私が添えた腕に視線を落とすと、まるで縋るようにぎゅうっ、と私の手を握った。
「──必ず、思い出す……。思い出したい……。魔女の秘薬を作った人物を探すから、あと少しだけ待っていてくれベル……」
悲痛な面持ちでそう絞り出すアーヴィング様が、私を強く抱きしめた。
◇
夕方。
アーヴィング様との散策を終え、私が自室に戻ったタイミングで友人のカティアが部屋にやってきた。
「見ちゃったっ」
「──え?」
にんまり、と笑い、口元を手で覆って居るカティアがつんつん、と私の腕を肘でつついてくる。
「とぼけちゃって……っ! ベルと侯爵様、庭園でいちゃいちゃしてたでしょう。──もう、あなた達二人は結婚して一年経ってもお熱いのね?」
「──見て、っ!?」
カティアに、先程庭園でアーヴィング様と抱き合っていた場面を見られていたのだろう。
私が恥ずかしさに頬を染めると、カティアは更に揶揄うようににまにまと笑みを深める。
「侯爵様と仲が良いのは結構だけど、私との約束も忘れないでよね?」
「え、ええ。大丈夫よ、ちゃんと覚えているから」
カティアから誘われた孤児院への訪問。
それを明日に控えているのだが、その話をしに来たのだろう。
私とカティアは、訪問予定の孤児院で何をするか話し合い始めたのだった。




