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◇◆◇
あの日から、アーヴィング様とは度々夜会の会場でお会いする事が増えた。
私がいつものように壁際でダンスを踊る方達を見ている時や、ドリンクを片手にフロアの隅の方にあるテーブルへ向かっている時などに、バッタリ顔を合わせる事が増えた。
アーヴィング様は気さくに話し掛けて下さるけれど、婚約者の方に申し訳ない、と思いアーヴィング様の近くを探すけれど、アーヴィング様の側に婚約者様が居た事は一度も無くて。
アーヴィング様はいつも人の目がある場所で会話をして下さるから少し夜会会場でお話して、そして「また」と言って別れる。
ほんの少し、顔見知り程度の間柄になれた事に私は浮かれていたけれど、アーヴィング様には婚約者様が居る。
私は、アーヴィング様と夜会の会場でお会いする度に、お話する度にアーヴィング様に惹かれていて、その事を考えないようにしていたのだ。
そうして、アーヴィング様と出会ってから数ヶ月。
私は、婚約者探しにこの夜会へ赴いていた事を今更ながら思い出し、今度こそ真面目にお相手を探す事に決めた。
家の事情は相変わらず厳しい状態だったけれど、それでも、探せばどこかに一人だけでも私自身を気に入って下さり、夫婦となってくれる人が居るかもしれない。
だから、その日は普段よりも積極的にダンスフロアの近場で令嬢達や、令息達とお話をしていた。
ダンスフロア付近に居れば、ダンスの誘いを受ける可能性も増える。
そうして、私はその日頑張った甲斐があり数人の男性からダンスのお誘いを受ける事に成功したのです。
ダンスが終わり、少しだけれどお相手の方と会話が弾み、今日を切っ掛けにお近付きになれれば、と考えながらいつものようにフロア中心部では無く、壁際へと戻って来た時の事。
「──ご令嬢、こんばんは」
「──……っ、こ、こんばんはトルイセン卿……!」
突然、背後から声を掛けられてびっくりして振り返ればそこに居たのはアーヴィング様で。
いつも穏やかな微笑みを浮かべているアーヴィング様にしては珍しく、その時のアーヴィング様は何故か苛立っているような、怒っているような雰囲気で少しだけ、ほんの少しだけ怖かった。
「ト、トルイセン卿……? どうされたのですか……?」
「──いえ、自分の愚かな考えに……悠長に構えていたことに呆れ、自分自身に怒りを抱いているのです」
「そ、そうなの、ですか……? その、トルイセン卿がそのようなお考えをしてしまうとは、驚きました……トルイセン卿はとても博識で、聡明な方ですもの」
「ありがとうございます。ですが、私自身得意な分野ではありませんので……」
アーヴィング様がじいっ、と何だか熱の篭った瞳で私を見つめるので、私は何故だか分からないけれど咄嗟に顔を逸らしてしまう。
私から顔を背けられてしまったアーヴィング様は一瞬だけ表情を悲しげな物に変えたけれど、それも一瞬で。
直ぐに表情を取り繕うと私に向かって笑いかけて下さる。
「今、自分の愚かさを自覚致しました。この場に来られているご令嬢は、お相手を探されていたり、婚約者と共に来られている方が多いと言うのに……何を余裕ぶった考えでいたのだろう、と悔いていたのです」
「──え、」
じっ、とアーヴィング様から真っ直ぐ見つめられ、そう告げられる。
アーヴィング様の口ぶりからその言葉は私に向けられているように感じてしまうけれど、だけどアーヴィング様には婚約者の方がいるのに、と頭が混乱してしまう。
私の戸惑いがアーヴィング様にもしっかりと伝わっているのだろう。
アーヴィング様は私にそっと近付くと、触れてしまわない程度の距離を保って私に向かって蕩けてしまいそうな瞳と声音で言葉を紡いだ。
「──自分自身の気持ちに嘘は付けない、と言う事が分かりました。次回の夜会の際には、人目の無い場所で結構ですので……一曲踊って頂けませんか? 私も、それまでには様々な事を片しておきますので」
どきり、と心臓が跳ねる。
はっきりとした言葉はないけれど、明確な言葉は告げられていないけれど。
「ト、トルイセン卿……」
私が信じられない、と言う心地でアーヴィング様を見上げると、アーヴィング様は優しげに瞳を細めて私の名前を愛おしそうに口にした。
「──ご令嬢、……いえ、ベル嬢……。次の夜会の時に伝えたい言葉があります。お聞き頂いても宜しいですか?」
「は、はい……」
そうして、アーヴィング様は夜会の会場から私を優雅にエスコートして下さると、しっかりと馬車の元まで見送って下さった。
◇◆◇
昔の事を思い出してしまっていたのは、一種の現実逃避だろうか。
私は、邸に連れて帰って来たアーヴィング様の目が覚めた事に喜び、アーヴィング様の名前をお呼びして、そして私の方へ視線を向けて来たアーヴィング様の冷たく射るような視線を受けて思考が停止してしまっていた。
「──君、は……誰だ? 何故、私の邸に見知らぬ女性が……? ルシアナ……ルシアナは何処だ?」
愛おしげに私の名前を呼んで下さったアーヴィング様は、私を不審者を見るような冷たい目で見て、そうして私の名前を呼んでいた時のように愛しげに「ルシアナ」さんと言う女性のお名前を口にした。
ルシアナ・ハーバーさんとは、アーヴィング様が以前まで婚約していた方だ。
お互い、家の事情で婚約したと言っていた。
政略的な意味合いでの婚約だった為、恋焦がれるような熱情や恋愛感情がある訳でも無く、ただただ家の為に婚約後は結婚するのだろう、とアーヴィング様は思っていた、と以前お話して下さった。
お互いに愛情が無いからと、アーヴィング様は私と出会い、惹かれ、私を想って下さった時にルシアナさんと婚約の解消をして下さった。
お互い、特別な感情は抱いていないから、と。安心して欲しい、とアーヴィング様が仰って……。
けれど、今目の前に居るアーヴィング様は、確かにルシアナさんを求め、名を読んでいる。
「──ルシアナは、居ないのか……? 何故……。それにこのご令嬢は一体誰なんだ?」
「ア、アーヴィング様……」
訝しげに眉を顰め、視線を向けられて私は思わずアーヴィング様を呼んでしまった。
そうしたら、アーヴィング様は不快感を顕にして、この邸の家令の名を大声で呼んだ。
「シヴァン……! シヴァン!」
アーヴィング様の声に、扉の外に控えていた家令──シヴァンさんが慌てた様子で室内に入ってくる。
シヴァンさんは、アーヴィング様の表情と、私の顔を交互に見て何かあったのだろうか、と戸惑いながら唇を開いた。
「ど、どうされました旦那様? 何を慌てておいでで?」
「シヴァン。ルシアナは何処に……? それに、このご令嬢は一体誰だ? どうして私の名前を馴れ馴れしく呼び、私の寝室に居る?」
ぴしゃり、とアーヴィング様から冷たい声音でそう言われたシヴァンさんは、信じられないものを見るように瞳を見開き、アーヴィング様に悲鳴じみた声を上げた。
「奥様をお忘れですか……!? それに、ルシアナ嬢とはベル奥様と婚約を結ぶ際に旦那様が婚約を解消されたではないですか!!」
「──なに?」
シヴァンさんの言葉に、アーヴィング様が驚きに目を見開き、信じられないと言うような表情を浮かべる。
「──何故、私がルシアナと婚約を解消して、その令嬢と……奥様……? まさか、私はそこの令嬢と結婚をしたのか……!?」
「ええ、そうです! 旦那様が愛して止まない奥様ですよ、ベル奥様を何故そのような他人行儀な……っ」
シヴァンさんの言葉に、再びアーヴィング様から視線を向けられて、私はびくりと小さく体を跳ねさせた。
また、あのような冷たい視線で見られてしまう、と私が俯くと、アーヴィング様は唖然としたような口調で小さくぽつりと呟いた。
「何故、私はそんな血迷った事を仕出かしたんだ……」
アーヴィング様はそう零すと、シヴァンさんにも、私にも視線を向ける事無くただ一言「出て行ってくれ」と呟くとそのまま再びベッドに横になってしまう。
シヴァンさんは尚もアーヴィング様に何か言葉を掛けていたが、私はじわじわと滲んで来る視界にこれ以上この部屋に居ては泣き出してしまう、と思い焦ってアーヴィング様の部屋から出て行く。
──何故、アーヴィング様はルシアナさんの名前を愛しげに呼んだのか。
あの夜会の後、次の夜会で会って、アーヴィング様から想いを告げられて、婚約を申し込まれた時に説明をしてくれた事は全て嘘だったのだろうか。
政略的な婚約で、ルシアナさんの事は何とも思っていないと言っていたのに。そして、ルシアナさんもアーヴィング様には何の感情も抱いていない、と言っていたのに。
お互い、納得してあっさりと婚約の解消は済んだから、と言っていたのに。
「──アーヴィング様……アーヴィング様……」
私はアーヴィング様の部屋を出た後、よろよろと歩き廊下の壁に手を着くと、その場に蹲るようにして咽び泣いた。
何が、どうなっているのか全く分からない。
確かに、今日──夜会に行く前まではアーヴィング様に愛されていたのに。
あの夜会で突然意識を失ったアーヴィング様が目が覚めた時、何故か私の事を忘れて愛する人が他の女性を求めている。
そうして私は、瞳から涙を零しながらアーヴィング様と普段から共に使用していた夫婦の寝室から離れ、一人で自室に戻った。