18
アーヴィング様は私の背中に回した手のひらで私を慰めて下さるように優しく背中を撫でて下さる。
大丈夫だ、と言うように元気付けて下さるようにぽん、ぽんと背中を優しく叩かれ、私は抱き締めて下さっていたアーヴィング様の腕の中でぐっ、とアーヴィング様の胸に手を当てて力を込める。
私のその行動に気付いたのだろう。アーヴィング様は今度はあっさりと腕の力を緩め、体を離した私の顔を優しく覗き込んで下さる。
「──落ち着いた、か……? 体調に変化は……? その……、私に触れられて、気分が悪くなったり、は……」
アーヴィング様が辛そうにお顔を歪め気遣うように声をかけて下さる。
アーヴィング様に触れられて気分が悪くなるなどある訳が無い私は、ぶんぶんと首を横に振って慌てて口を開いた。
「とんでもございません……! 旦那様に触れて頂いて、そのような感情を覚える筈がございませんわ……!」
「そ、そうか……、それなら良かったよ……」
私がハッキリと口にした言葉に、アーヴィング様は薄らと頬を染め恥ずかしそうにしながら緩めた腕にもう一度力を込める。まるで私の事を忘れる前のアーヴィング様のように至極自然に、再び引き寄せてそっと私を抱き締めて下さった。
まるで大切な、壊れ物に触れるように優しく私を引き寄せて下さり、ふわりとアーヴィング様の腕に包まれる。
トク、トク、とアーヴィング様の心臓の音が聞こえて、私はその鼓動に瞼を閉じ、アーヴィング様のお体に体を預ける。
しっかりと私の体を抱き留めて下さるアーヴィング様に安心感を覚えて、私はゆるゆるとやって来る睡魔にこのまま眠ってはいけない、とは思いながら優しく頭を撫でられるその心地良さにそのまま眠りについてしまった。
◇◆◇
「ベ、ベル奥様……?」
「シヴァン、静かに──」
旦那様は、私に向かって声を潜めてそう告げるとベル奥様を優しく見つめながらゆるゆるとベル奥様の背中をご自身の腕で撫で続けていらっしゃる。
旦那様のご様子が、まるで記憶を失う前の旦那様と同じようで、私は自分の視界が涙で滲んできてしまう。
「──ベル嬢に対して不埒な感情を、イアンは抱いているのか……」
ベル奥様の眠りを妨げないように声を落としてはいらっしゃるが、その声音にはありありと怒りが滲んでおり、旦那様はイアン様に対して抑えきれない程の感情が今にも爆発してしまうのでは、と些か心配になってしまわれる程のご様子だ。
それ程の怒りを覚えていらっしゃる旦那様に、私はもしや旦那様は全て思い出されたのでは? と気持ちが弾む。
旦那様の記憶が全て戻っているのであれば、ベル奥様を守るために危険なものを全て排除して下さるだろう。
それに、未だにベル奥様を抱きしめる旦那様が時折ベル奥様に愛しげな視線を送っているお姿を見て、私は恐る恐る旦那様に向かって話しかけた。
「旦那様……、もしや……ベル奥様に関しての記憶が全て戻られた、のでしょうか……?」
「──いや……。未だにベル嬢の記憶は一切思い出せていない」
旦那様からキッパリと告げられた言葉に、私は肩を落としてしまうが、旦那様が続けた言葉に瞳を見開く。
「だが……ベル嬢を、大切に……愛しく思っていたのだろう、と言う事は……分かる」
旦那様はベル奥様を抱きしめる腕に力を込めると、ハッとしたように顔を上げて私に向かって言葉を続けた。
「──ベル嬢が、このままの体勢だと疲れてしまう。ベル嬢をベッドに運ぶから、シヴァンは侍女を呼んで来てくれ」
「──! そうですね、かしこまりました。直ぐに呼んで参ります」
「ああ、頼んだぞ」
旦那様の言葉に私は慌ててベル奥様付きの侍女を呼ぶため、お部屋を出るために扉へ足早に向かう。
眠ってしまわれたベル奥様の着替えを侍女に任せたいのだろう。
旦那様がソファからベル奥様を抱き上げてベッドのある方向へと向かって行かれるのが、閉まる扉の隙間から見えて私は近い内にいつものお二人に戻られるのだろう、とにっこりと笑顔を浮かべてそっと扉を閉めた。
◇◆◇
いつの間に眠ってしまったのだろう。
私はゆるりと意識が浮上してくるのを感じる。
暖かい何かに体が包まれていて、私は無意識にその温もりに擦り寄る。
目を瞑ったまま、眠ってしまう前の出来事をゆっくりと思い出して行く。
イアン様の件で取り乱してしまい、情けなく泣き出してしまった私に、アーヴィング様が優しく接して下さったのだ。
記憶を失ってしまわれる前のように私を優しく抱きしめて下さって、沢山お声をかけて下さった。
そうして、私はどうしたのかしら、とハタリと考える。
そうしているうちにいつの間にか眠ってしまったのだろう。
それでは、私は最後までアーヴィング様にご迷惑をおかけしてしまったのではないか──、との考えに至った瞬間、パチリと瞳を開いた。
「──っ、!!」
「……、? ああ、目が覚めたか? ベル嬢?」
「な、ななななぜ旦那様が……っ」
私は、私の体を優しく包み込んで下さっているアーヴィング様の姿を認めた瞬間、ガチリと体が固まってしまう。
私の問いにアーヴィング様はとても落ち着かれた様子でゆっくりと私の背中を摩って下さりながらこの状況のご説明をしてくれた。
「ベル嬢が眠ってしまったのでな……きっと色々な事があって、疲れが出たんだろう。だからベル嬢を寝台に運んだのだが……その……無理矢理離してしまうと、ベル嬢を起こしてしまいそうで」
「──え、」
気まずそうにアーヴィング様が視線を向けた先に私も視線を向け、ぎょっと瞳を見開く。
「も、申し訳ございません……っ!」
私の手は、あろう事かアーヴィング様がお召になられているシャツを強く握り締めていたのだ。
アーヴィング様が私を気遣って下さり、そのまま共にベッドに横になって下さった事が分かる。
「ご、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません、直ぐに離れます……っ!」
「──っ! 不快など……っ、そんな気持ちは抱いていない……っ」
私が慌ててアーヴィング様から体を離そうとした瞬間、アーヴィング様が慌てたように言葉を紡いだ。
「いや、ベル嬢がそのように思ってしまうのは当然だ……、目覚めた後の私は妻である貴女に酷い態度を取っていたのだから……」
「旦那様……、?」
苦しそうにくしゃり、と表情を歪ませるアーヴィング様に私はアーヴィング様をじっと見詰めてしまう。
まるで迷子になった幼子のように不安そうに、悲しそうに瞳を揺らめかせながらアーヴィング様が言葉を続ける。
「酷い態度を取り続けた私を……、許せないのは勿論承知している……。だが、ベル嬢が私の大切な妻である事が、分かる……。都合の良い事を言っている、と軽蔑するのは分かるんだ……。ベル嬢を傷付けてしまった私を……直ぐに許して欲しいとは言わないから、どうかベル嬢を私に守らせてくれ……」
「……っ、旦那様」
ぎゅうっ、と抱きしめられて。
私の視界がじわじわと涙で滲んで来るのが分かる。
まだ、アーヴィング様は全てを思い出されてはいらっしゃらないだろう。
けれど、それでもその状態でも、私を「大切な妻」だと仰って下さり、「守る」と仰った。
アーヴィング様は、段々と無くされた記憶を、感情を取り戻されて来ているのでは、と希望を抱いてしまう。
このまま、何事も無くアーヴィング様の記憶が戻ってくれれば。
そうすればまた以前のように幸せに暮らせるのに。
なのに、私はイアン様におかしな薬を使用されてしまっている。
また、再びイアン様と接触してしまったら。戻りつつある幸せが再び手の中から零れ落ちてしまいそうで、私は抱き締めて下さるアーヴィング様の腕の中で自分からもアーヴィング様の背中に腕を回し、抱きしめ返した。
「──はいっ、はいっ、旦那様……っ」
ぎゅう、と抱き着いてじわじわと足元からせり上って来る真っ黒い不安を、私は何とか見ない振りをした。
そして、数時間後。
ジョマル様が邸にやって来て下さって、私とアーヴィング様はイアン様が使用した薬の報告を受ける事となった。




