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◇◆◇


 しん、と静まり返った廊下をアーヴィング様と歩きながら、私は気まずさをどうにか表に出さないように押し隠す。

 何故、自分があの部屋で眠っていたのか……全く覚えていない。

 何処かに行かなくては、と言う強い感情を抱いた事は覚えていたが、自分の部屋を出て廊下を歩いている記憶は残っているが、それ以降の記憶がさっぱりと無くなっていて、私は言いようの無い不安感にきゅっと唇を噛み締めた。

 昼も、アーヴィング様にご迷惑をかけて……そして今も、こんな夜遅くにアーヴィング様のお手を煩わせてしまった。

 面倒臭い女だ、と思われていないだろうか。

 手間を掛けさせるような女と結婚してしまった事を後悔しているのではないだろうか。

 一度その考えが浮かんで来てしまうと、それがまるで本当の事のように感じてしまって私はじわじわと滲み出す視界に、こんな所で涙を零してしまわないように必死に頬の内側を噛んで涙が零れ落ちてしまわないように耐える。


「──何故、ベル嬢はあんな場所に……? 暖炉の火を入れたと言っても、部屋が温まるまでは室内は冷えているだろう。あのような場所で寝てしまっては、風邪をひいてしまう」


 私が物思いに耽っていると、隣を歩いていたアーヴィング様が私に話しかけて下さる。

 以前のように冷たい声ではなくて、私を気遣って下さるような優しい声で、その声音がまた更に涙を誘う。


「──申し訳、ございません……」

「いや、私はベル嬢を責めている訳では無く──……っ、」


 アーヴィング様が私の方へ顔を向けたのが分かる。

 そして、アーヴィング様の声が不自然に止まってしまった事に、私は「しまった」と心の中で呟いた。

 もしかしたら、アーヴィング様は私が涙を耐えている事に気付いてしまったのかもしれない。

 アーヴィング様を煩わせたくない、と咄嗟に思い、私はさっと顔を背けるが、やはりアーヴィング様は私の瞳に溜まった涙に気付いていた。

 隣を歩いていたアーヴィング様が悲痛な声で私の名前を呼んだ。


「──ベル嬢、責めていないから、そんな顔をしないでくれ」

「……っ、申し訳ございません……っ」


 そっと、遠慮がちにアーヴィング様の指先が、零れ落ちそうになっていた涙を拭うように触れる。

 触れ方も、気遣いも、声音もアーヴィング様そのものなのに、何処か遠慮を感じさせるアーヴィング様の雰囲気に私は更に胸が痛む。

 何故、アーヴィング様は私を忘れてしまったのか。

 致し方ない事だと頭では分かってはいるものの、感情がどうしても追い付かない。

 このままだと、自分勝手にアーヴィング様を責めるような言葉が口から出てきてしまいそうで、頬に添えられたアーヴィング様の手のひらを私はそっと自分の頬から離す。


「──申し訳ございません。……ここで、結構ですわ……。ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございません。旦那様も、お部屋にお戻り下さい」

「……っ、」


 何故、アーヴィング様が私の言葉に傷付いたような表情を浮かべるのですか。

 私の事なんて、何も覚えていらっしゃらないのに。


「……っ、ベル嬢!」


 私は、アーヴィング様を振り切るようにその場から駆け出すと自分の部屋へと急いで向かい、扉の取っ手に手を掛けて開けた。

 だが、扉が少しだけ開いた所で、背後から伸びてきた手が取っ手を掴む私の手の上に重なって、扉を直ぐにまた閉めてしまう。


「……っ、何故っ」


 こんな事をするのは一人しか思い付かず、私は背後に立っているアーヴィング様に振り向かないまま、小さく言葉を絞り出す。


「……分からない、分からないが……っ! このままだと、駄目なような気がして……っ!」


 アーヴィング様のどこか必死な声が直ぐ後ろから聞こえて来て、私は再び唇を噛み締め、アーヴィング様に向かって言葉を返す。


「大丈夫です、明日になればまた元通りになりますから……!」


 お願いだから、今だけは放っておいて欲しい。

 アーヴィング様は何も悪く無いのに、心配して私を探して下さっただけなのに、今はお顔を見るのが辛い。

 私は背後に居るアーヴィング様に向かってそう叫ぶと、アーヴィング様の力が一瞬だけ緩んだ隙を付いて部屋の扉を開け、中に体を滑り込ませた。


「──ベル嬢っ」


 背後で再び私の名前を呼ぶアーヴィング様の言葉を聞こえるけれど、私は扉を閉めて施錠し、足早にベッドに向かった。

 そのまま倒れ込むようにして横になる。

 感情がぐちゃぐちゃになってしまっていて、今は落ち着く時間が欲しい。

 すぐに気持ちを落ち着かせて、明日の朝にはいつもの私に戻るから、だから今だけはアーヴィング様の事を何も考えたくない。

 私は掛け布を頭から被ると、早く寝てしまおう、と強く強く瞼を閉じた。



 いつの間に眠ってしまっていたのだろう。

 早朝に目が覚め、私はベッドからのそり、と体を起こした。


「──頭が、痛い……」


 昨日、泣きすぎてしまったからだろうか。

 それとも暖炉に火を灯したとは言え、あのような場所で眠ってしまったから風邪をひいてしまったのだろうか。


「──……、?」


 けれど、どうにも私が今感じている頭の痛さは覚えのある風邪の症状とも、泣き過ぎて頭痛を引き起こした時の感覚とも少しだけ違い、違和感を覚える。

 何処か、ぼやっと霞掛かったような変な違和感。

 不安感を煽るようなその違和感に、私は急いでベッドから降りるとベルをチリリ、と鳴らした。

 程なくして侍女が部屋にやって来て、私の着替えを手伝ってくれる。


「少し早いけれど、朝食の席に向かおうと思うの」

「まあ……! それは良かったですわ、奥様! ここ数日、奥様のお食事の量が減っており、勝手ながらご心配いたしておりました」

「心配をかけてしまってごめんなさいね。今日は元気だからしっかり朝食をとるわね」


 私は心配してくれている侍女に笑顔を浮かべて微笑み、元気だ、と言う事を表すかのように晴れやかに笑って見せる。

 頭が痛い、などと告げてしまえば再び要らぬ心配をかけてしまう。

 私の言葉に心から嬉しそうに笑顔を零しながら、侍女は支度を終えてくれた。


 着替え終わった私は、食堂へ向かう。

 「アーヴィング様と長い時間会わなければ、お顔を合わせなければ」という良く分からぬ感情に突き動かされるようにして足を動かす。

 先日、気を失ってから何だかおかしい。

 そして、自覚していてもそのおかしな感情を止める事が出来ない事に混乱する。


「──昨夜は……記憶にも無いし、おかしな事よね……」


 行った覚えのない客間に、何故私はあれ程までに「行かなければいけない」と強く感じたのだろうか。


「ジョマル様と、お会いして……この状況をご相談したら、解決策が見付かるかしら……?」


 シヴァンさんが今日もジョマル様が訪問して下さると言っていた。

 確か、午後に来て下さると言っていたのでその時間までにジョマル様にご相談する内容を纏めておこう、と私が考えている内に食堂に到着した。

 アーヴィング様が少し遅れてやって来た事で、少しだけぎこちない朝食が始まり、私とアーヴィング様は途切れ途切れではあるが、ぽつりぽつりと会話をしながら食事を楽しむ。

 アーヴィング様はやはり、私の体調を心配して下さっていて、その優しさにアーヴィング様は記憶を失われてもお変わりないのね、と何処かほっとする。


「ベル嬢……。今日、私は領地へ赴くため朝食後すぐに出る予定だ……。昨夜急に入ってしまったのだが、午前中の訪問客などの対応は貴女に任せてしまっても大丈夫だろうか?」

「──はい。かしこまりました。私で判断出来ぬ事柄は、すぐにご連絡いたしますね」

「ああ、申し訳無いが頼む」


 気遣うようなアーヴィング様の視線と、声音に私は微笑みを浮かべて言葉を返す。

 今日は午後にジョマル様がやって来る予定だが、この後直ぐにお出かけになられるのであればジョマル様の訪問には間に合うかもしれない。

 急にお仕事が入ってしまったのであれば、仕方ない。もしジョマル様のお帰りまでにアーヴィング様が間に合わなかったとしても仕方がないだろう。

 それに、アーヴィング様の領地にルシアナ様が単身でやって来る可能性は低いだろう。

 ルシアナ様のお家、ハーバー伯爵領とアーヴィング様のトルイセン領は離れている。

 夜会シーズンの為、今は王都に滞在されているけれど、流石に昨夜入ったお仕事の内容をルシアナ様がご存知な筈は無いし、シヴァンさんが同行する使用人や侍従の方にもルシアナ様の事はご説明済だ、と仰っていた。

 だから私は、安心してアーヴィング様を笑顔でお見送りした。



 朝食が済み、アーヴィング様をお見送りした後。

 私がいつものように侯爵夫人としての仕事に取り掛かろうと考えながら正面玄関近くの邸内を歩いていると、そちらの方向から誰かの声が響いてきた。

 アーヴィング様は、正面玄関からではなく馬をお使いになるから、と別の門から出て行かれた。


「旦那様では、無いわよね……?」


 私が不思議に思っていると、その声はどうやら家令のシヴァンさんの物であり、もうおひとり。誰か男性の方とお話をしているようだった。


「シヴァンさんが声を荒らげるなんて珍しいわね──」


 私が呟き、次の瞬間に聞こえて来た男性の声に私は頭の中が一瞬で真っ白になり、そのお声に引き寄せられるように聞こえる方向に足を動かした。



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