13
急いでベル奥様の下に向かい、自室の扉をノックする。
使用人が言ったように中には人の気配は無く、返事が戻って来る事も無い。
「──旦那様に許可を頂こう」
「は、はいっ」
流石に侯爵家の奥様の部屋に、無断で使用人が入室する事は出来ない。
今は夜も更けている時間帯。きっとベル奥様は中で眠っているだけだ、と自分自身に言い聞かせながら私と使用人はアーヴィング様の下に急ぎ足で向かった。
「──旦那様」
アーヴィング様が使われている寝室の扉を控えめにノックすると、まだ起きていらっしゃったのだろう。
扉の向こうで人の気配が動いた。
「……シヴァン? こんな時間にどうした……?」
ガチャリ、と扉を開けて出て来て下さったアーヴィング様に私はほっとしたのも束の間、ベル奥様がもしかしたらお部屋に居ないかもしれない、と言う事を伝える。
「このような時間に申し訳ございません……。ベル奥様が……お部屋にいらっしゃらない可能性がございまして……」
「──ベル嬢、が?」
私の言葉を聞くなり、アーヴィング様はサッと顔色を変えた。
アーヴィング様はまだお休みになる予定では無かったのだろう。
夜着には着替えておらず、お部屋でまだ仕事でもしていたのだろう。楽な格好には着替えていらっしゃるが、アーヴィング様は直ぐにベル奥様の下に向かうため、歩き始めた。
アーヴィング様の後ろ姿を見て、私はやはりベル奥様の事を少しずつでも思い出して来られているのでは、と希望を抱く。
そうでなければ、以前のアーヴィング様であれば。
親しくもない女性に対して、このように必死にはならないのだから。
「──ベル嬢、ベル嬢いらっしゃるか?」
ベル奥様のお部屋の前に到着したアーヴィング様と私達。
直ぐにアーヴィング様が扉をノックして中に声を掛けるが、先程私達が来た時のように室内から返事が返って来る事は無い。
「本当に、ベル嬢が中に居なかったのを確認したのか?」
アーヴィング様は女性使用人に顔を向けて硬い声音で確認する。
女性使用人は、「え、えっと……」と声を震わせて曖昧に頷くとアーヴィング様に言葉を返した。
「は、はい……。いつも、このお時間帯にベル奥様に寝付きの良くなる紅茶をお出ししているのです……いつもは、直ぐにお返事が返って来られるのに、今日は何度お声を掛けてもお返事が返って来ないのです……。ですから、お部屋にいらっしゃらない、と……」
「……ただ単に疲れて眠ってしまっているだけなら良いのだが……」
アーヴィング様は一度部屋の扉に視線を戻したあと、再度扉の向こうに向かって声を掛ける。
「ベル嬢、失礼するぞ」
アーヴィング様は一言断りの言葉を告げ、扉に手を掛けてそっとベル奥様の部屋の扉を開けた。
「ベル嬢……?」
「お、奥様……?」
ベル奥様の室内はランプの明かりが灯っておらず、真っ暗だ。
この暗さから、やはりベル奥様は少し早めにお休みになっているのでは……、と私は考えたのだがアーヴィング様はスタスタとベル奥様の寝室に向かって歩いて行く。
アーヴィング様が記憶を失われてからこの部屋には入っていない筈なのに、何故寝室の場所がお分かりになるのか、という違和感は、次に発されたアーヴィング様の言葉によって一瞬で何処かに行ってしまった。
「ベル嬢が、居ないな……」
アーヴィング様はベッドのシーツに手を当て、その冷たさに表情を歪める。
「……シーツも冷たい。長い時間外に居るのだろう……こんな寒い時間帯に……風邪でもひいてしまったらどうするんだ……っ」
アーヴィング様は焦ったように、心配するように声を荒らげると早足でベル奥様の部屋を出て行かれる。
「──ベル嬢が居るかもしれない場所に心当たりは?」
廊下を進みながらアーヴィング様にそう声を掛けられ、私は返す言葉に悩む。
ベル奥様はこの邸の隅から隅まで熟知していらっしゃる。その為、ベル奥様が行かれる可能性がある場所は邸内全体だ。
「──っ、心当たり、は……あり過ぎて……」
「……っ、ならば近日中にベル嬢が行った場所は?」
「それならば……」
アーヴィング様に聞かれた言葉に、複数の部屋や場所を答える。
流石にこの時間帯に庭園には行かれる事は無いだろう、と考え庭園を探すのは後回しにする。
何ヶ所か、アーヴィング様と共に心当たりのある場所を探し続けて、数刻。
何部屋目かの客室で、ベル奥様のお姿を見付ける事が出来た。
「──ベル奥様!」
女性使用人の悲鳴にも似た声が聞こえ、使用人が駆け寄る先に、ベル奥様は暖炉に火が灯った客室内にあるソファで横たわり、眠っているようだった。
そして、そのベル奥様の胸元には見慣れぬ花束が抱えられていた。
「ベル嬢!?」
アーヴィング様が声を荒らげ、駆け寄ると慌ててベル奥様を抱き起こす。
「何故、こんな場所に……っ! ベル嬢、ベル嬢!」
焦燥感に滲んだ声音と、アーヴィング様の表情。
悲痛な面持ちでアーヴィング様がベル奥様の体を何度か優しく揺すると、静かに寝息を立てていたベル奥様の睫毛がふるり、と震えて。
固唾を飲んで見守る我々の前で、ベル奥様はゆっくり瞳を開いた。
「──……」
「ベル嬢、何故こんな所で眠っていた!? このようなっ、夜は冷えるのに……っ体調を崩しては──……っ」
アーヴィング様が必死にベル奥様に話し掛けるが、ベル奥様はぼやっと焦点の合わぬ瞳でアーヴィング様を通り越して天井を見詰めているようだ。
私は、ベル奥様が大切そうに胸に抱える花束に妙に胸騒ぎを覚えて、そっとベル奥様に向かって声を掛けた。
「──ベル奥様……、大丈夫ですか?」
「──っ、」
ベル奥様は、私の声にはっと反応するとそこで漸く焦点が合ったかのように瞳に意思を取り戻すと、声を掛けた私にそのお顔を向けた。
「シヴァンさん……? ご、ごめんなさい……私、いつの間に眠って……?」
嫌だわ、と声を上げるベル奥様はいつものような態度で。
使用人である私達に変わらぬ態度で言葉を返してくれるが、そこで違和感を覚える。
何故、ベル奥様は自分を抱き起こしているアーヴィング様の事に一切触れないのだろうか。
あれ程、アーヴィング様の事を想い、アーヴィング様の事を第一に考えていらっしゃるベル様が、自分の目の前に居るアーヴィング様に一切触れない。
まるで、アーヴィング様を認識していないようなその態度に、私はどくどくと心臓が嫌な鼓動を立てるのを認識しながら、恐る恐る唇を開いた。
「ベル、奥様……。旦那様も、心配されていたのですよ?」
「だんな、様?」
私の言葉に、ベル奥様は不思議そうに言葉を紡ぐ。
まるで、アーヴィング様の存在など初めから知らない、と言うような態度に私はひゅっ、と息を飲み込む。
ベル奥様の言葉に、ベル奥様を抱き起こしていたアーヴィング様の横顔がくしゃり、と歪んだのが鮮明に視界に映り、どうしたら、と私が悩んだのもつかの間。
「えっ、あっ! 旦那様っ、申し訳ございません……っ! 大丈夫、大丈夫です!」
ベル奥様ははっと表情を変えると慌ててアーヴィング様に向かって言葉を紡ぎ、アーヴィング様の腕から逃れるように胸に手を付き、ぐっと体を離した。
その行動がまるでアーヴィング様を拒絶するようで。
私は話を変えようと、慌ててベル奥様に声を掛けた。
「ベル奥様、ご体調は大丈夫ですか? いくら暖炉の火を灯していたといっても、夜は冷え込みます。風邪を召されてしまう前に、お部屋に戻りましょう」
「えっ、ええ。そうね……。旦那様、えっと……お気遣い頂きありがとうございます。部屋に戻りますわ」
「──倒れてしまっては大変だ。……ベル嬢の部屋まで送ろう」
「えっ、大丈夫ですよ? そこに居る女性使用人に送って頂きますので……っ!」
「いや、何かあってからでは大変だ。部屋の前まで一緒に行こう……」
「わ、分かりました。ありがとうございます」
ベル奥様は、アーヴィング様の申し出に申し訳なさそうにしゅん、と眉を下げるとソファから立ち上がる。
ベル奥様と共に並んで歩きながら、アーヴィング様はふと私に視線を向けてこの部屋の片付けをしておくように告げられて、扉を開けてお二人は廊下を歩いて行かれた。
私はお二人が出て行かれた後、残った使用人と共に暖炉の火を消し、ベル奥様が大切に抱えていらした花束を回収する。
「──そう言えば……暖炉の火は、ベル奥様が?」
ご自分で火を灯し、花束を抱えてこの場所で眠ってしまわれたのだろうか。
だが、何故。
私は、ベル奥様が抱えていた花束を注意深く観察する。
贈り物はこの部屋に、と指示をしたのは私だ。
だから、この部屋にあると言う事は花束は誰かからの贈り物だと分かる。
「いくら……花を好んでおられるベル奥様でも……花束を抱えて眠ってしまうなんて……」
何かがおかしい。
私は花束にそっと鼻先を近付けると、深く吸い込んでしまわないように注意しながらすん、と鼻を鳴らす。
だが、その花束からは花の香りしか届かず、首を傾げて再び先程よりも深く吸い込む。
「──……、?」
花の香りに隠れて、何か嗅ぎ慣れない、何処か甘ったるい香りが一瞬だけほのかに香るような感じがしたが、それも一瞬で。
私は、翌朝ジョマル様にこの花束を調べて貰おうと部屋から花束を持ち出して仕事に戻った。




