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 振り向いた先にいたのは何故かイアン様で。

 私は驚き、ついつい大きな声を上げてしまった。

 

「──イ、イアン様!?」


 何故か、イアン様はトルイセン侯爵邸の敷地外。庭園を囲む格子の向こうから顔を覗かせ、嬉しそうに手を振っている。


「な、何故そのような所から……っ」

「いや、本当は邸にお邪魔したかったんだけど、アーヴィングも体調が悪いって対応してくれた使用人に聞いて……ベル夫人も今は仕事中で捕まらない、と聞いていたんだけど……ベル夫人に会えて良かったよ」


 イアン様はにこにこしながら、私に向かって腕を伸ばして来る。

 伸ばした腕には何かが握られており、私が一瞬躊躇うと、後ろに控えていた侍女のマリーがスっと体を前に出してイアン様の近くに寄った。


「贈り物でしょうか……? お受け取りいたしますね」

「ああ、ありがとう」


 マリーは格子の傍に近付き、そっと内側から格子の施錠を解除してイアン様から花束を受け取ってくれた。

 イアン様はマリーに花束を渡すと、「ありがとう」とお礼を告げてそのまま私に顔を向け、口を開いた。


「お見舞いと言ったら花束だよな、って思い出して……今更だったけど、渡せて良かったよ。もし良かったらアーヴィングにも見せてあげて」

「お気遣い頂きありがとうございます、イアン様」


 私はイアン様の気遣いの気持ちが嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。私の近くに戻って来てくれたマリーが腕に抱えている花束に視線を移した。

 小ぶりな花々が品良く揃えられ、お部屋に飾っても存在を主張し過ぎないような花束で、私は可愛らしい花束に心が癒される。


「──じゃあ、俺は贈り物も渡せたし……そろそろ……。また、アーヴィングに会いに来るからお大事にって伝えておいて!」

「はい……! ありがとうございます、イアン様」


 イアン様は、私と侍女のマリーに手を振るとそのまま去って行った。

 花束を渡して下さるために、わざわざ再度邸に来て下さったのだろう。

 マリーが抱えている花束を見つめたあと、穏やかな気持ちで邸に戻った。


「奥様。花束は一旦客間に置かせて頂きますね。家令のシヴァン様から贈り物は一旦こちらに……、と指示を受けておりますので」

「ええ、大丈夫よ、聞いているから。眺めたくなったら誰かに声を掛けて一緒に着いて来て貰うわね」


 私の言葉に、マリーはほっとしたように表情を緩め、私はマリーと共に客間を後にした。

 外は寒い。

 客間は暖炉に火を入れてある。

 あまり暖かい空気が花束に当たらないようにマリーは窓際に花束を置いてくれており、私は客間を後にした際に閉まる扉の隙間からその花束をじっと見詰めた。



 夕食を終え、夜も更けてきた頃。

 使用人達はまだ一日の仕事は終わっておらず、忙しそうに邸内を動いていた。


「あら、奥様眠れないのですか?」

「ええ、そうなの。だからちょっとお散歩をね」

「夜になって空気も冷えてまいりましたから、風邪などひかないように気をつけて下さいね」

「ふふ、ありがとう。しっかり着込んでいるから大丈夫よ」


 私は、廊下を歩きながら気遣って話し掛けてくれる使用人に笑顔で言葉を返しながら目的地に向かって真っ直ぐ歩いて行く。

 ——目的地、とは?

 あら、何処だったかしら? 何故、私は廊下を歩いているのかしら? と、考えるが頭ではおかしい、と分かっているのに進む足が止められない。

 そうして私は何か、見えない物に突き動かされるような感覚になりながら真っ直ぐその場所へ向かって歩いた。


◇◆◇


「──シヴァン様!」

「──?」


 私は、背後から焦ったように声を掛けられて振り向いた。


 私がこのトルイセン侯爵家に使用人として雇われてどれくらい時間が経っただろうか。

 アーヴィング様のお父君であられる前侯爵様が私の父を家令として雇って下さり、息子である私をそのまま使用人として雇って下さった。

 そうして、時が経つにつれて私も成長し父が亡くなった後は父の跡を継ぎ、トルイセン侯爵様が私を家令として雇って下さった。

 前侯爵様が亡くなり、今はアーヴィング様が現侯爵様となられた。


 アーヴィング様を幼い頃から知っている私としては、アーヴィング様が以前の婚約者であられるルシアナ様と婚約を解消し、現奥様ベル奥様と出会われて、アーヴィング様が昔のように明るくなられた事をつい先日のように思い出せる。

 ルシアナ様と婚約中、冷静に、ただただご自身が侯爵家の当主として必要な事をご自分の感情を押し殺して淡々とこなしているようなご様子だった。

 アーヴィング様から何か決定的な事は聞いていないが、以前書斎に散らばっていたルシアナ様の身辺に関する調査報告書を見れば、ルシアナ様は婚約者が居ながら爛れた生活をしていた事は察せられる。

 だが、それでもアーヴィング様はルシアナ様との結婚を貴族として必要な責務だと考え、婚約を解消するまでには踏み切ってはいなかった。


 それが変わったのは、今の奥様であるベル様とお会いしてからだ。

 夜会でたまたまベル様とお会いしてから旦那様が楽しそうに過ごす事が増えた。

 ご自身にはルシアナ様と言う婚約者様が居られる為、ご自身の気持ちを無意識に封じていたようであったが、度々夜会でお会いするベル様に惹かれる気持ちが止まらなかったのだろう。

 私にすらベル様とお会いした事を楽しげに、嬉しげにお話をするアーヴィング様を見て、アーヴィング様がどうか心から想える方と添い遂げられれば良いのに、と考えてしまうのも自然な事。そう考え始めて暫し。

 ある日、夜会からご帰宅されたアーヴィング様は覚悟を決めたような表情をされていた。

 そして、程なくしてアーヴィング様は正式にルシアナ様との婚約を解消して、ベル様に婚約を申し込まれたのだ。

 アーヴィング様がベル様と結婚して、これから幸せなお二人の時間が続いて行くのだろう、と思っていた矢先。

 アーヴィング様が記憶を失われた。


 驚く事に、アーヴィング様はルシアナ様を愛していた、と記憶しておられるようで、あれだけ愛しげにベル様を見つめられていたアーヴィング様は憎々しげにベル様を見詰めていた。

 ご自分が愛するルシアナ様と引き離された、と始めはそう感じてしまったのだろう。

 だが、私の説明とご自身で冷静さを取り戻したのだろう。次第にアーヴィング様は落ち着きを取り戻し、ベル様とご結婚している事を受け入れた。

 だが、それでもルシアナ様を愛している、と言う間違った記憶を植え付けられているアーヴィング様はルシアナ様を恋しがり、会いたい、会いたい、と頻りに口にされていた。

 だが、実際ルシアナ様とお会いしたアーヴィング様は。

 ルシアナ様がされていた事を頭の隅で覚えていたのだろう。触れられる事を厭い、咄嗟にルシアナ様から距離を取られていた。

 そして、ベル様のお姿が見えない、と知った時のアーヴィング様のお顔を思い出して私はアーヴィング様が自力で記憶を取り戻すのも近いのでは無いか、と感じた。

 偽の記憶を植え付けられても、所詮それは偽物だ。

 ベル様を愛しておられる事を、頭の隅で覚えていらっしゃるのだろう。

 ベル様が見付からない、と知り必死に探し回るアーヴィング様を見てそう感じたのだ。


 そう感じたのに。


「シヴァン様……! 奥様が、お部屋にいらっしゃいません……!」

「──何だと……!?」


 廊下で私を呼び止め、声を震わせる女性使用人に私は急いでベル奥様の自室へと向かった。



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