行ってみろ
黒猫のほうは、このごろようやく、『本物』の猫になったようで、動かなかったガラスの目玉は生き返り、口は指で押しひらいてのぞいたところで、じじいの気持ち悪い唇などどこにもみえない。
猫に『なった』のは、乾物屋の大旦那だったカンジュウロウというじじいなので、しゃべれば生きていたころと同じ、がさついてひびのいったような声でしゃべる。
ヒコイチと共通の知人である『西堀の隠居』とよばれるセイベイなどは、「カンジュウロウは図太いから、仏の道を通らずに、猫としてこのままやりなおそうって魂胆なんだろう」とわらった。
みゃあ、などとかわいい猫の鳴き声をだし、むかいの黒猫がごろりと横になる。
『―― なあ、ヒコよお、よっく考えろ。こりゃあ、《お友達の》坊ちゃんも喜ぶはなしのタネだろう?』
ふん、と鼻先をむけ、猫がみあげる。
「うるせえなあ ―― おれアべつに、わざわざ集めてまわってるわけじゃあねえよ」
ヒコイチとはちがう世界に生きる『ぼっちゃま』とよばれる男は、文士とよぶ同志たちに金をだして世話をして、《不思議》なはなしがあればなんと、金をだして買い取ってくれる。
『とにかくまあ、夕涼みがてら、ちょいと見に行ってみろって』
「いかねえよ」
かっつ、と投げられた団扇の柄が窓枠にあたり畳に落ちた。
ひらり、と干された布団にのった猫が振り返り、『いってみろって』とわざと尾っぽをゆすってみせると、みゃあとひとこえのこして窓のむこうへと消えた。