小説家に憧れた人の話
私はずっとどこか、他の誰かとは違うと思っていた。
幼い頃から本を読み、自分の世界に浸っていた。話を作り、誰かに聞かせ、ノートに書く。自分が作り出した世界は特別で、誰かに見せたかった。
小学生の時に、文集に自分の作文が載った。
その時は心臓が飛び跳ねそうなほど嬉しかったことを覚えている。
幸せで、ただただ喜びに胸がいっぱいになっていた。家族にも褒められ、やはり自分の書くものは周りの人とは違うのだと、そう思った。
それが錯覚だと気づいたのは、中学生の時だった。
クラス全員がそれぞれ書く作文が、文集に載るかもしれない、そんな話を教師から聞かされた。
勿論、あの時の感動にまだ酔っていた私は、私の出番だと言わんばかりにペンを走らせた。
だが、書き終わらなかった。
後に見返してみると、それはそれは醜く汚い文章だった。
何の味もしないガムをずっと食べているように、退屈で、つまらなかった。
ある日、いつも一緒に帰っている友達が先に行ってて、と告げた。
先生と話があるからと言っていたが、そこまで長くかかりそうもないと聞くと部屋の前で他の友達と待っていることにした。
しばらくして出てきた友達の手には、原稿用紙が握られていた。
私はすぐにそれが文集に載るものだと察した。
貼り付けた笑顔の裏で、どうしてコイツが、と思った。
悔しくて悔しくて、その文を読んでも別にちっとも、これっぽっちもいいと思わなかった。
それでも、他の人間は自分の書きかけのものより、完成したものを選んだ。
未完成と完成品なら、勿論完成したものを選ぶだろう。
だからこそ、余計に書ききれなかった過去の自分を恨んだ。
帰り道、友達は手の平を合わせてごめんね、と謝ってきた。
私じゃない方がいいだろうと、そう告げてきた。
そんなことない、選ばれたのだからそれほど評価が高かったのだと、私は告げた。
友達は苦笑した。それだけだった。
友達と別れ、私は一人家路を歩いていた。
どうして、どうして、どうして。考えれば考えるほど頭には疑問が浮かぶ。
パッとしないような文章なのに、感動もしない話なのに。
私ではなく、彼ら評価員はその友達を選んだ。
中学三年生になり、一度は離れたその子と同じクラスになった。
担任も同じで、中学生最後のクラスがこれか、と落胆した。
その子は、私より何倍も凄かったのだ。
何の捻りもないように見える話が、他人から見ればきっといい話なのだ。
嫉妬心から、私はその子の話を真っ直ぐ受け止めることが出来なくなっていた。
今度はその子が、夏休みの課題で出た生活体験文をコンクールか何かで発表することになった。
おめでとう、すごいね、そう言って私は褒めたたえた。
それは心からの祝福だった。
私ではきっとこの子には適わないのだ。
死ぬほど頑張って考えた一文は、彼女がスラリと書いた一文に掠めることすら出来ない。
それから私は、自分の物語を紡げなくなった。
何か書こうとする度に、ペン先が震えた。
始める一文すら、頭に浮かんでこないのだ。
彼女のようになりたい、彼女の文才が欲しい。
願って願って、強く願った。
思いつく話は、全て有名な小説家の真似事。
少し展開を変えただけの、作品とも呼べないもの。
立っていた地面が崩れ、深く底の見えない谷底に落ちていく気分だった。
書き溜めていた作品を捨て、お気に入りだったペンも捨てた。
先生に見せた作品の感想も、捨てた。
全てなかったことにした。
私は、小説家である人々の読者でいい。
立派な文章を読み、感動し、余韻に浸る。
それが何より幸せだと、そう思うことにする。
小説家に、私はなれないのだ。