二十五
その風が吹いたのは栄次を何とか菖蒲に乗せ、さあ鴇尾も乗って出発しようか、という時だった。菖蒲の体に手をかけた鴇尾は、ふと頬を撫でたその風に何故か背筋が粟立ち、咄嗟に叫ぶ。
「……っ!?菖蒲っ、行ってっ!」
鴇尾に抱かれ、乗せられるのを待っていたブチが、目を剥いて振り返る。
『何言ってんだっ!?おい……』
「はやくっ、何かっ……っ!?」
必死の形相で叫ぶが、そんな鴇尾を嘲笑うかのように、突然強い風が吹き付ける。ゴウゴウと音を響かせるその風は、栄次と鴇尾を中心に渦を巻いた。その異様さに毛を逆立てたブチが叫ぶ。
『やばいっ、菖蒲いけっ!はやくっ!』
『っ!わかったわ!鴇尾、また会いましょうっ』
激しさを増す風を目の当たりにして、菖蒲も危機感を覚えたのか、栄次を乗せて走り出す。
「金さんっ、皆をつれて栄次をっ!栄次をおねがいっ!」
強風に掻き消されながら、必死で言葉を紡ぐ。どんどん強まる風に、目を開けている事が出来ず、顔を腕で庇いながらもどこからか金さんの声が聞こえた。
『わかった!何匹か置いてくっ!鴇尾、死ぬなよっ』
菖蒲の蹄の音と栄次の叫び声が遠ざかるのを感じ、ふっと力を抜く。先程からのし掛かる風圧のせいで、立っている事すらままならない。地面に押さえつけるように吹く風に、鴇尾はボソリと呟いた。
「乙女を這いつくばらせるなんて、何てゲス」
「はっ!そんな状態で悪態つくなんて、なかなか図太いじゃねぇのよ」
ゴウゴウと唸っていた風もいつの間にか止み、辺りは何もなかったかのような静寂だ。這いつくばった鴇尾は、目の前に仁王立ちする男を睨み、吐き捨てる様に言った。
「……動物達はどこ?」
「あぁん?ああ、ちぃっとばかし邪魔だったんでな、そこらに吹っ飛んで貰ったぜ?」
その緑の目をニンマリと歪め、ひどく楽しそうにする男は、鴇尾の予想が違っていなければ……
「……保賀宇津時、ね」
「おー!俺の名前を知ってるのか、こりゃたまげた。それとも流石、と言うべきか?」
やはり鴇尾の予想通り、その男は保賀宇津時だったようだ。阿山の所に居るのは知っていたが、まさか追跡に出てくるとは思わなかった。どう考えても絶体絶命のこの状況に、打つ手無しの鴇尾の顔には、すでに諦めの色が浮かんでいる。
忍の中でも五本の指に入るとまで言われる相手に、丸腰で味方も居ない鴇尾が敵うわけもない。まあ、動物達が居たとしても、その異能を前にしては為す術もないだろうが。
「さてさてお嬢ちゃん、ちぃっとばかし、おネンネしててくれな」
どこか歌うようなその声を聞いた、と思ったら、ゆっくりと目の前が暗くなり、鴇尾はどうする事も出来ずにゆっくりと意識を手放した。
鴇尾は走っていた。何故かやけに体が軽く、そして視線が低い。次々と過ぎ去る木々を横目に、人には到底出せぬ早さだと気付き、ふと首を傾げる。
――なぜこんなにも早く走れるのか
疑問を抱きながらも、その足が止まる事はない。ひたすら力強く、ひたすらしなやかに走り続ける。
そんな時、どこか知ったような気配を感じ、咄嗟に踏みとどまった。
『ちょっと金さんっ!いきなり止まらないでちょうだいっ!』
背後から聞こえた菖蒲の怒声に、思わず目が点になる。何故別れた筈の菖蒲がここにいて、何故鴇尾を見て金さんと呼んでいるのか。
『ちょっと菖蒲、私金さん何て名前じゃないんだけど』
『はっ!?こんな時に何冗談……ってその声、鴇尾っ!?』
鴇尾が鴇尾でなくて誰が鴇尾たりうるのか。何を言ってるんだと呆れて振り替えってみると、何故か菖蒲がデカくなっている。
いや、菖蒲だけではない、その背にいる栄次もだ。むしろ自分以外の全ての物が大きくなっている状況に、ようやく自らの異変を知る。
『……何故だ、何故私は金さんになっているのだ』
下を見る、そこには獣の手。横を見る、ああ銀さん、同じくらいの大きさになってしまって。前を見る、おお菖蒲に栄次、大きくなったなぁ。
一通り周囲を見渡した鴇尾は、もう認めるしかなかった。何故か自分が、金さんになっている事を。……まだ夢だという可能性は残っているが。
『兄貴、じゃねぇ、鴇尾、なのか?』
『うん、恐らくね』
『あー、何でそんな事になったんだ?っというより、あれから無事だったのか』
『さぁ?さっぱりわからない』
首を傾げる二匹の様子に、元来気が短い菖蒲はまどろっこしいのか、ひどく苛々している。
『取り合えず、今はそんな事どうでもいいでしょっ!きっと鴇尾の異能よ異能っ!それより早くにげなくっちゃ!』
そんな事……と若干ショックを受けながら、確かに菖蒲の言うことも一理ある、と納得する。一理あるはあるのだが、別の問題もあるのだ。
『菖蒲、ちょっとまって、なんか感じない?』
狼の体になったからか、いつもと比べようもなく五感が研ぎ澄まされているのがわかる。その鴇尾の五感に、何か妙に引っ掛かるのだ。
『えー?私は特に……』
『こりゃぁ……あいつだっ!』
菖蒲にはいまいちピンと来なかったようだが、代わりに銀さんが叫んだ。やはり本物の狼、何かに気付いてからは対応が早かった。
『烏野郎の手下だなっ!でてきやがれ』
近くの木に向かって吠える銀さんに、他の狼達も唸り声を上げ警戒する。……鴇尾は呑気に座っていたが。
そんな狼達の反応に自身の存在がバレた事がわかったのか、どこからか声が響く。
「やれやれ、狼に気取られるとは忍失格!拙者、修行がたりぬでごさるっ」
木の葉の茂みから、ウネウネと黒い影が蛇の様に出てきたと思ったら、そこから吐き出されるように男が現れる。自称夜飛の右腕、凰間東助である。
スチャッと相変わらずの効果音をさせ、地面に降り立った東助は、ぐるりと辺りを見渡した。
「ふむ、あのお方は居られぬようですな」
ええまったく、あなた方のせいで、今ごろ本体は阿山の所でしょうよ。と内心毒付くが、勿論東助がわかる筈もない。それに加え、今ここに鴇尾が居るなんて、想像もつかないだろう。
「仕方ありませんな。では栄次殿、此方へどうぞ」
ぬぁっにが栄次殿、此方へ~だ!馬鹿野郎!栄次を渡す訳無いだろうがッ! とまたもや毒付くが、これまた東助がわかる筈もない。しかしグルグルと唸りを上げる狼達と、菖蒲の背中からピクリとも動かない栄次に、自ずと答えはわかったらしい。
「ふむ、あまり力ずくで、というのは主が好まぬのですが……まあ非常事態、ということでお許し頂けるでしょう。あー……所で皆様、そう唸らず、平和的に話し合い……なんて事は……」
主に一匹だけ座っている鴇尾に向かって声をかけてくるが、勿論話し合いなんぞする気はない。ツーンとそっぽを剥いて拒否する狼に、がくり膝をつく東助。そんな二人の様子は、端から見ればなかなか滑稽だった。
「うむー、しかし、あのお方の動物に手荒な真似をするとい……」
「東助、貴様なにをぐずぐずしている」
地面に膝を付きながら頭を抱えていた東助の背後から、突如地を這うような声が聞こえた。目の高さ程の空中に黒い穴が現れ、そこからニョキリと腕が生えてくる。その腕で宙を裂くように、黒い裂け目を作って出てきたのは夜飛だ。しかし普段とは違い、その雰囲気はどこか近付きがたく刺々しい。
「こんな犬ども、とっとと始末してしまえ。」
「し、しかし……」
どこか憎々しげにこちらを見つめるその様子は、とても鴇尾の知る夜飛とはかけ離れていた。しかし、きっとこれこそが本当の夜飛なのだろう。
「いいか、貴様は早くその小僧を翁の所へ連れていけ。そして、一刻も早くあいつを見つけて、始末しろ。いいか、必ず捕まえて始末するんだっ!」
「は、はっ!」
最後は怒鳴るように命令した夜飛は、己の足元に闇の沼を生み出し、そのまま飲み込まれるように沈んで行く。太陽の下で初めてその力をはっきりと見たが、闇の異能とはなんとおぞましいものなのか。
改めてその異様を目の当たりにし、ぞわぞわと総毛立つ。保賀宇津時に対峙した時もそう思ったが、強い異能者とはすべからず常人とは違う生き物のようだ。
『鴇尾、大丈夫か?』
自身の事を棚にあげ、どこか他人事の様に考えていた鴇尾は、銀さんに声をかけられはっとする。気付かぬ内に意識を飛ばしていたようだ。
だがそれも仕方ないだろう、なんせ恋した人が、自分の事を始末しろ、と言っているのを聞いてしまったのだから。
『……うん、平気』
『鴇尾……』
気遣うように伺ってくる銀さんは、鴇尾の恋心に気が付いていたのかもしれない。たが現実とは必ずしも上手くいくわけではない。鴇尾とて、それは良く理解していた。
『似合わない事はするもんじゃないね。ふふっ、私は大丈夫だから、今は栄次の事だけ考えよう』
『……あぁ』
今ここに守るべき者が居たことを、深く感謝する。だってそうすれば、自分の事を考えずに済むのだから。




