十五
その男が意識を取り戻したのは、その次の日の夜の事だった。鴇尾がウトウトと眠気と戦いながら、男の口に水差しを寄せた時、ついうっかり、ほんのちょっとした気の緩みで、水を思いっきり男の顔にぶちまけてしまったのだ。
「ぐっふ、ごっ、ごほっごほっ」
鼻に水でも入ったのか、勢いよく噎せる男にヤベッと舌をだしながら、ずるずると後ずさる。
「ぐっ、がはっ、はぁはぁ……」
ゆっくりと身を起こしながら頭をふる男を、警戒しながらも観察する。ふむ、思ったより元気そうである。
何やら自分の体を触って確かめている男は、次に周りを見渡した。そして蝋燭の灯りの届かぬ所に潜む鴇尾を見つけ、動きを止めた。……と思った次の瞬間には、鴇尾の上にのし掛かっていた。
「ここはどこだ、どこの牢だ?お前は何者だ」
ギリギリと絞めつけられる首に、冷や汗を流しながら、男を助けた事を心底後悔する。
しかしそんな危機的状況にも関わらず、至近距離にある男の面を前にして鴇尾が思うのは、自分の目の色がバレやしないか、という少しばかり呑気な物だった。
この暗さでは見えないだろう、と楽観視する反面、もし見えていたら、と危惧し、極力目を臥せる。――だが平和呆けの鴇尾は知らない、手負いの獣から目をそらすのは、自殺行為であることを。
案の定、男から目をそらした瞬間、鴇尾は思いきり壁に叩きつけられた。
「ぅっ!」
その小さな体を襲った衝撃に、呻きをあげて蹲る。
この糞野郎、恩を仇で返すとはこの事だ、と歯軋りする鴇尾だが、そんな事を思うのは人生二回目である。しかし、今回ばかりは一度目の比ではない程腹立たしく、そしてひどく恐ろしい。
何とか壁に背を預けながらうっすら目を開いた鴇尾は、己に向かって伸びてくる男の手を見つけた。
「おい、お前………っ!」
鴇尾の顔にその手が触れるか、という瞬間、男はいきなり横に飛んだ。
――ダンッ!
男のいた場所に、クロが大きな音をたて着地した。そのすぐ後ろには、ブチも構えている。
「……猫?」
毛を逆立てる二匹に訝しげに呟いた男は、はっと顔をあげ辺りを窺う。
――グルグル
――ヴーー
どこからか聞こえる唸り声と、暗闇に光る無数の目。気づかぬ内に周囲を囲まれていた事に漸く気がついた男は、知らず知らず息を飲んだ。
『おう、鴇尾!大丈夫だったかっ!?とりあえず近くに居た奴等、全員連れてきたぜっ!』
その言葉を聞いて、ほっと息を吐く。もう駄目かと思ったが、なんとか命拾いしたようだ。
『鴇尾、首は大丈夫?まぁっ、跡になってるじゃないっ!』
そう言えば首を絞められたんだと今更ながら思いだし、そっと触れてみる。手で触れても何もわからないが、クロが言うのだ、跡が残ってしまっているのだろう。
あぁこれは玉緒が煩いぞ、とげんなりする。だが仕方ない、油断して男を縛って置かなかった鴇尾が悪いのだ、説教は甘んじて受けるしかないだろう。
『まったくだぜ!油断しすぎだってーのっ』
偉そうに宣うブチに怒りが湧いたが、男が居る手前、下手に会話する訳にはいかない。仕方なく心の中で、罵詈雑言の雨をこれでもかという程、降らせておく。
『おいっ鴇尾!今何か……』
「この傷は、お前が治したのか」
ニャゴニャゴ喚くブチを遮り、話しかけてくる。まあ本人は猫の声など聞ける筈が無いので、遮ったつもりは無いのだろうが。
男は少し冷静になったのか、攻撃を仕掛けて来ない。そんな相手を慎重に伺いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……知り合いが」
小さく小さく、囁くような声に男は首を傾げる。
「……知り合いに、光の異能者がいるのか?結構な深い傷だったと思うが、お前の知り合いとやらは、よほど強い異能持ちらしいな」
首を捻った男は、訝しむかのように鴇尾の方を見ている。それも仕方がないだろう、あんな怪我を綺麗サッパリ治せる者など、全国津々浦々探しても片手で足りる程なのだから。
「どこかに仕える異能者か?この辺りに光の異能者が居るとは聞いた事がないが……。それとも何だ、俺が寝てる内に、どこか遠くまで運んだのか?」
「……ここは日江の国。もし怪我の治療に恩を感じるなら、何も言わず、何も聞かず、何も記憶する事なく、ここから出ていってほしい」
普段よりも些か早口で言い放ったその声には、少しの懇願の色が見てとれた。そう、この時の鴇尾の心境とは、まさに一か八かの大博打、崖っぷちの心地だった。いやむしろ、この男が庭に落ちた時点で、鴇尾と栄次の運命は絶望的と言ってもよかった。
何せ、この男を捨て置いても阿山にここを嗅ぎつけられ、拾ってもこの男に栄次の存在を感づかれる。どちらにしてもその結果は見えていた。
それなら男を始末してしまえばよかったじゃないか、と思うかもしれない。だが鴇尾は元より、平和ボケの引きこもりなのだ。人を殺す勇気も度胸も、持ち合わせて居なかった。
だからこそ覚悟は決めていた。この男が、鴇尾の出した条件に首を縦に振らなければ、何を犠牲にしてでも栄次だけは必ず逃がす、と。
「成る程な、訳ありって事か。その異能者も、お前も」
何か感づいたように周囲を見渡す男に、小さく舌打ちをする。そりゃ、殺気だった動物に囲まれれば、鴇尾自身の異様さにも気がつくだろう。しかしそれは、考えていたよりも大分と早かった。
これは金さん銀さんを出さねばなるまいか、と唇を噛み締める。金さん銀さんとは、この近くの山に住む、大きな狼の兄弟だ。万が一の為に、この男を拾った時に密かに呼び寄せておいたのだが、幾らなんでも出番が早すぎる。
ぐっと握りしめた手の平に、自らの爪が食い込んだ気がした。
「……まあいい、助けてもらったのは事実だ。恩人を売る真似はしない」
その言葉を聞いて、ふっと体から力が抜ける。思わず小さく息を吐くと、クロが心配そうに顔を覗き込んできた。
『鴇尾、大丈夫?顔が真っ青よ』
そりゃそうでしょうとも、今までこの座敷牢でぬくぬくと育ってきたのだ、荒事に馴れている筈もない。
「お前、名は?ここに囲われてるのか?」
近くの家具や置物を無遠慮に漁る男が話しかけてくる。そんなにチョロチョロ動き回る元気があるなら、早く去ればいいのに、と眉を寄せ、座敷牢の入り口に向かった。
「ん?何だ、そこから出れるのか」
出れるのかじゃない、出ていけ! と内心怒鳴りながら、ぐいっと顎で外を示す。これで鴇尾の言いたい事も伝わるだろう。
「あぁ、出ていけと?何だ、えらく冷たいな」
くつくつと喉を震わせて笑う男に、ダンダンッと床を踏み鳴らす。そんな様子を眺め、口を歪ませ笑った男は瞬きした瞬間、何故か鴇尾の目の前にいた。
いきなり現れた烏面に目を見張り、その鼻と鼻が付きそうな程近い距離に思わず仰け反る。
「あぁ?跡が残ったな……」
「ひぅっ!」
ぬるりとしたモノが首を這い、咄嗟に悲鳴を上げて飛び退く。
『お前っ!鴇尾に何て事しやがる!』
『そうよっ!嫁入り前のうちの子になにするの、この外道っ!』
気を逆立てて間に割り込む猫達に、にやりとした男は、座り込む鴇尾に向かって何かを放り投げる。咄嗟に受け取ってしまったそれに目を向けると、その正体は小さな赤い巾着だった。
なんだこれは? と首を傾げた鴇尾は、男に尋ねてみようと顔を上げる。しかし、先程までそこに居た筈の男は、忽然と姿を消していた。
『あら、これ何だか薬の匂いがするわね。鴇尾、ちょっとあけてみたら?』
鼻を近づけて匂いを嗅いでいたクロに言われ、巾着の口を開けて傾けてみる。手の上にするりと滑り出てきたのは、手の平より小さい二枚貝だった。
『ん?なんだ、軟膏か?』
ピタリと合わさっていた二枚の貝殻を、そろりと開けてみる。ぶち猫の言う通り、そこには軟膏らしき物が入っていた。
しかし果たしてこれは本当に軟膏なのか……何せ渡してきた人物が人物だ、毒だと言われた方が説得力がある。
『ん~、とくに毒らしき匂いはしないけど?』
『そうだな、たぶん大丈夫だぜ、これ』
いや、きっと毒に違いあるまい、あの男が渡してきた物なのだ、良い物な筈がない。まるで蛆虫を見るような目でそれを見ていた鴇尾は、ふとその貝を乗せた己の手の平に、血がついている事に気が付く。
顔に手を寄せてじっくり見ると、綺麗に爪の形に皮膚が抉れている。先程手を握り締めた時に、知らず知らず皮膚を突き破っていたらしい。
『あらっ、酷い傷っ!いつのまに怪我したのよっ』
『おいこら、その手であちこち触るんじゃねぇ!血が付くだろうがっ』
鴇尾の手から流れる血に驚いた二匹が、にゃーごにゃーごと騒ぎだす。そんな二匹を余所に、鴇尾は先程の男の事を考えていた。
もしかしたら、この怪我に気付いて薬を渡してきたのかも、なんて……
「忍、こわ……」
ぼそりと呟いたその言葉は、夜空に丸く輝く月だけが聞いていた。




