② あふれてこぼれた涙
しっかりと長めのシャワーを浴びて、貸してもらった服を着て出るとリビングの方から良い匂いがただよってきた。
好奇心に負けてそちらへと足を運ぶと、ちょうど料理を作っていた道江と目が合った。
「よく温まれた?」
「はい。ありがとうございました」
「もうすぐ晩御飯できちゃうからついでに食べていきなさい。親御さんには連絡しといたから」
「えっ?!」
連絡…って、どうして…。だって、私…今日みたいなことは──
自分は心配そうな表情をしていたのだろう。道江は優しく微笑むと──
「安心しなさい。この前の事故の時に会社で知り合った相手だって説明してるから。私から『叶ちゃんとお話したいので今晩ちょっとおかりします。遅くとも日付の変わる前までには家に送り届けますから』って伝えたわ。本当のこと言うと、私もややこしいことになるしね」
それで了承されてしまったあたり、うちの両親はいろいろな面で大丈夫なのだろうか。
「とりあえず、そこに座って待ってなさい。もうすぐできあがるから」
「えっと、お皿出すの手伝います」
「そう?じゃあ、そっから大皿出してくれる?たぶん、もうちょいしたら来ると思うから」
『来ると思うから』──ということは誰かと晩御飯を食べる約束はしていたということか。自分は偶然にもそこへ混ざることになったようだ。
料理の盛り付けを終えてから五分ほどで玄関から来客を知らせるチャイムが鳴る。道江が迎えにいき、五分ほどで件の人物を連れてリビングへと戻ってきた。
そして、件の人物は自分にも知らない相手ではなかった。
「おや?どうして叶ちゃんがいるんだい?」
「まあまあ。その辺りのことは料理食べてからでいいじゃないですか」
「大丈夫なんだろうね?道に姿が見えたから拐ってきたとかじゃあ、ないんだよね?」
「私は不審者ですか!」
来たのは灯だった。その手にはスーパーの袋を持っている。
「まあ、たぶん予想はついているから気にしないよ。しかし、そうなると酒はお預け、という感じかね?」
「叶ちゃんが帰ってからにしましょう。まずは晩御飯を済ませてから、です」
「そうしますか。叶ちゃん、昨日の今日ではあるけどよろしく」
大皿に盛られた豪快な野菜の炒め物。小鉢に用意された酢の物に長めの皿に並べられた魚の刺身達。
「そんじゃ、乾杯!」
「乾杯!」
「か、乾杯…」
大人二人の楽しそうな雰囲気についていけず、軽く当てたコップに口をつける。とりあえず、大皿に盛られた炒め物を自分のところに置かれた小皿に移して一口。
「───おいしい…」
両親と食べている時には砂でも噛んでいるようにしか思えなかった食事も今はとても美味しかった。自分の母の料理もこれぐらいは美味しいはずなのに…。
「うん。相変わらず道江の料理は格別に美味しいね。酒代出すだけで食えるのなら毎日頼みたいというのに…」
「私が過労で倒れるので止めてください。っていうか、灯さんだって料理できるでしょうが」
「ここまで美味しいのはさすがに無理よ。作り慣れてないからね」
「よく言いますよ…。叶ちゃん、貴女はこういう大人になったら───叶ちゃん?」
「…えっ、あ、はい。なんですか?」
2人の話す傍らでボーッとしてしまっていた。遅れて返事をしたのだがこちらを見る2人はなにやら驚いた表情をしている。
「あの、どうかしましたか?」
「どうかしましたか、って…。叶ちゃん。貴女、気づいてないの?」
「何がですか?」
「えっと、ね…」
なにやらオドオドしはじめた道江に代わって、灯は叶を優しく抱きしめる。
「えっと、灯、さん…?」
「──いいんだよ。もう、隠さなくていいの」
「何も、隠してませんよ…?」
「そうなのかな?私には違うようにか見えないよ」
「私は、隠し事なんて──」
───ううん。
本当は違う。だって、この料理は美味しいもの。味気ない、砂のような食べ物じゃないもの。
優しく抱きしめる灯は叶の背中を優しく撫でる。あやすように、何度も、何度も──
「辛かったんだね。でも、言い出して心配をかけたくなかったんだね。でも、今はそんなこと気にしなくていいの。すきなだけ、心の思うがまま、気持ちをさらけ出していいんだよ」
何を言っているのだろうか。こんな気持ち、表に出せるわけがない。だって、表に出してしまったら──認めてしまったら…
───私は二度と立ち直れなくなる…。
「灯、さん…。大丈夫、ですから」
「大丈夫に見えないよ。そんな、叶ちゃんを見てて『大丈夫』なんてとても言えない」
「大丈夫ですよ?」
「そうかい?じゃあ、叶ちゃんはどうして──」
──聞きたくない。聞いたら、戻れなくなる…。
「どうして泣いているんだい?」
「泣いて、なんか…」
「泣いているよ。後から後からあふれてこぼれた涙が…」
──わかっている。止まらないんだもの。
──知っている。辛いんだもの。
だって、昔は美味しかったはずなんだ、お母さんの料理。今食べた料理と同じ、ううん、それ以上に。
なのに、今はわからないの。どんな味だったのか、美味しかったのか、不味かったのかさえ…。
思い出せないの。どんな料理を食べたのか。昨日の夜の、下手したら朝ごはんの味ですら──
「わからない、んです。毎日、何を、食べているのか。思い出せないの、どんな料理を食べたのか…」
美味しかったはずなの。嬉しかったはずなの。なのに、私は何も思い出せないの。お母さんが…どんな料理を作ってくれていたのかすら──
だって、今の食事は押し込むだけ。両親に怪しまれないために胃へと流し込むだけ。
砂のようなご飯と紙でもかんでいるような食パン。味のしないおかずに無味無臭の飲み物。お腹に入ればそれでいいだけの、無感動な動作。
「叶ちゃん。私達なら怒らないしすきなだけ泣きなさい。貴女は自分の中に溜め込み過ぎている。私ですら見ていられない。それぐらいに──」
灯の胸に顔を押しつけながらも涙は流さない。泣いてしまったら、本当に───
そんな叶の頭を、そばに近づいてきていた道江が優しく撫でる。
「無理、しなくていいんだよ?泣きたいなら、思う存分泣いたらいいんだよ」
「───ッ、…ぅ…ぅぅ」
ダメだ。泣いてしまったら、本当に──でも、もう、私は…
「うっ、あ、あぁ…うああぁ…」
弱々しい泣き声。あふれる涙は、今まで塞き止めたからか止まることなく流れていく。優しく抱きしめる腕の中で、優しく撫でる手の感触を頭に感じながら───