② 少女の名は…
執務室では書類確認に一区切りをつけた灯が少女の前にコーヒーの入ったカップを置き、自身もコーヒーを準備すると少女の向かい側のソファに腰を下ろした。
「まずは一口飲むといい。自白剤などは入っていないから安心したまえ。ああいう薬は一般には出回ることはほとんど無いのでね」
灯の言葉にも少女は反応を示さない。俯いたまま、ただ床を見ているように視線を落としている。
その様子を灯は観察しながらコーヒーを飲む。早くも1杯目を飲みきってしまい、すぐに2杯目を入れて向かい側に座り直す。
(ふむ。今までに無いタイプの子だね。コーヒーに口すらつけず、かといって何かを話すわけではない。蒼真も厄介事を持ち込むのは茶飯事だが、今回は極めつけの相手といったところか…)
しかし、灯はこれしきの無視ぐらいでは気は揺れない。会社を立ち上げてからまだ5年と半年ほど。だというのに蒼真は勤めて4年の間に灯の覚えている限りでは6人、目の前のような人間を拾ってきた。今回で7人目であるが、灯は気にしていない。
(蒼真の拾う人間に共通している項目はいくつかある。まずは仕事に熱心であるということ)
目の前の少女がこれに当てはまるかは疑問だが今までに拾われた6人は総じて仕事においては非常に有能な面子である。
有能な人材を拾ってくる蒼真のことを当初こそ疎んでいた灯も3人目辺りからは積極的に関わろうと決めた。得られるものが多いからだ。
(第二に、後ろ暗い何かを抱えているというところだな)
蒼真の拾う人間に共通している項目の中でも特に重要なのは、全員何かしらの問題を抱えており、完全に解決している人間は今のところいない。
それでもしっかり働いて成果を示してくれている限りでは会社の大切な社員。他の正規で入ってきている社員と区別するつもりは灯には無い。
(しかも、こういうことで私が頼りになるとわかったからか拾ってくることに迷いが無くなったな。そのうち、釘はさす必要はあるだろうが今すぐの必要はない。まずは、この子から始めよう)
少女は俯いて固く拳を握りしめている。何かに耐えるように。
「そうだねぇ。まずは私の自己紹介でもしようか。私は虹光灯というものだ。ここ、小さなゲーム会社を営んでいる社長様だが、もっぱらは書類の判付きが主な仕事でね。今日の君みたいな飛び込みの御客様は私としては大歓迎なんだが…。君は、何を『苦』にここに来たのかな?」
わずかに少女の肩が揺れた。『苦』にしていることがあるのは蒼真に連れて来られた人間にある共通項。これを知り、相手を知ることが灯なりの仕事の1つ。
「この部屋は防音設備がしっかりしていてね。よほどの大声でもなければ外には洩れない。私が君と今後も関わるのかはわからないし、こんな相手で良ければ話してはみないかい?身の上話するだけでも人というのは落ち着くものだよ?」
それは、灯にとってはいつものやり取り。迷う相手に寄り添えるかはわからないとは伝えても、話くらいは聞いてるからと。
そこから灯が再びカップの中味を空にして、新しい分を入れた頃。
「ーーーや、ーなえ」
「うん?」
「ひめみや、かなえ…です」
か細い声でそう告げる。それは少女の名前だろうか。不安があり、しかし灯は決して彼女を急かしはしなかった。
落ち着ける空間を作るように、灯は意図して気持ちを少女からは逸らしていた。そばには居るよ。でも、急かしはしないから、と。
「ひめみや、かなえ…さん、か。良ければ漢字を書いてもらえるかい?覚えるから」
適当な紙とペンを置くと少女はゆっくりと名前を書く。
───姫宮叶
丸まった小さい文字でそう書かれた紙を見て、灯は小さく頷く。
「ありがとう、姫宮さん。お話はコーヒーを飲んでからにしよう。新しいのをどうぞ」
自分用に入れた分を姫宮叶の前に置く。彼女はカップに口をつけるとほんの少しだけ口に含んだ。それが静かに飲み込んだのを見てから。
「大変、だったんだね」
「ーーっ…」
小さく息を飲む音。そして、彼女の瞳から溢れる涙。流れ落ちる涙に彼女は困惑するも、灯はハンカチを差し出す。
ハンカチで涙を拭いていて、やがて彼女は声を殺して泣き崩れる。灯はただ、彼女の前に座って静かに寄り添うようにコーヒーを飲む。
◇◆◇◆◇
お昼時。灯は執務室から出ると社員はそれぞれの昼食を取っている。その一角、銅鐘白亜、赤人道江、藍川蒼真の3人はそれぞれに弁当箱を広げて談笑しながら食事をしている。
「蒼真、私も入って構わないかい?」
「どうぞどうぞ」
近くのイスを持ってきて灯に渡す。席につくと弁当箱を広げて食べ始める。
「社長、あの子は?」
「むっ?あぁ、彼女なら今は眠っているよ。泣き疲れたんだろうね。ぐっすりだよ」
「そうですか…。よかった」
「いいもんなのか?」
「泣けないほど追い詰められた人って感情の吐き出す場所が無いのよ。意外に思うけど、泣けないってけっこう大問題よ?」
「そういうもんか…」
「銅鐘さんは泣くくらいなら奮い起つ人ですもんね?」
「うるせぇよ。まぁ、事実だがな!」
ワハハッ、と高々に笑う白亜につられて他の3人も微笑む。
「しっかし、飛び込みねぇ…。アレって即死出来んの?」
「銅鐘ェ、食事時には話題選びなさいよ…!」
「基本的には轢かれる電車の種類によるわね。特急とか選べば一番速度に乗る場所で電車に接触できれば即死出来るよ」
「社長も真面目に答え返さなくていいですよ」
「しかし、だ。あれぐらいの年頃のやつの自殺って最近多いな。流行ってんのか?」
「流行ってほしくない流行ですね…」
「多感な年頃だからね。いろいろとあるんだろうね」
「…で、社長的にはあの子はどうするんですか?」
弁当をいち早く食べ終えた道江は弁当箱を鞄に仕舞いながら尋ねる。
「どうする、とは?」
「まだ事情とかは聞けてないでしょうけど、あの子は見た目通り学生でしょう。正直、社長がわざわざ関わっていく必要は無くないですか?」
「…だな。成人なら雇えますが、学生は雇えませんよ。蒼真は見捨てたくはないだろうが、会社的にはどうなんすか?」
「そうだねぇ…」
灯の中で損得勘定が始まる。灯も蒼真が拾ってくる相手に悪い人間がいるとは思わない。だが、今回は学生ーー未成年だ。
成人ならば「うちに来ないか?」などと口説いてもいいのだが、今回はそうはいかない相手だ。
「それでも、私は見捨てられないねぇ」
「ーーその根拠は?」
「いくつかあるけど、まずは彼女の着ていた制服かな?」
「制服、ですか?」
意外な言葉に一番驚いたのは蒼真だ。
「あの子の制服はここから数駅隣の月宮学園の制服だろう。月宮といえば元女子校だが、今は男子にも門戸を開く、有数の進学校だよ」
「あぁ!だから見たことあったのね!」
「道江君の言う通り、電車通勤組にはよく見かける学生服だね。進学校としても有名だけど、一番の知名度はーー」
「学園独自の自治会と生徒の自主性を重んじる校風だったか、確か…」
今の話にはあまり精通していなさそうな白亜から正確な答えが出る。
「そうだね。あそこはほとんどのことが生徒間で決めていく、小会社のようなスタイルを有している。だからこそ生徒達は早い段階から世間と同じレベルでの思考をしようとする、という話がある」
「つまり、彼女を見捨てないのは将来性のある投資だと言いたいんですか?」
「一面としては、そうだねぇ」
「一面?」
「ねぇ、道江君。私もそうだし蒼真もおそらくそうだが、君や銅鐘君の方がいろいろとわかると思うのだけど…。人から信頼されることの難しさと信頼されることの嬉しさは誰にでも平等な感情ではないかな?」
「──っ」
灯の言葉に、道江は今度こそ二の句を継げない。その言葉は、今の道江にとってはとても重い言葉だ。
「いろいろと述べてはみたが私が最終的に思うのはそこだよ。あの子はきっと、そういう相手が必要な子だよ」
「…わかりました。私はこれ以上、何も言いません。言えません…」
「俺もだ。蒼真、さっきも言ったが…俺に手伝えることあったら言えよ?」
「はい。そういう時はお願いします」
そこで昼休みを終える音楽が鳴り、蒼真達は再び自分達の仕事へと戻る。