他人の命
臆病で何もできない私だけど、他人の気持ちくらいは解っているつもりだ。つまりこの人は、それ以外の言葉を何も発さないが、というか何も発さないからこそ、日常会話同然のことだと感じているのだと私は理解した。
それでもなおモノクルを綺麗にしようと励むザクロに、私の口は無意識に動く。
「あ、あなた…」
私が振り向いた事さえ、ザクロは気がついていない。モノクルを拭き終わり、それを付け直して顔を上げるまでまったくだ。
この人の見ているものは、一体何なのだろう。私は自分のチカラの所為で錯覚していた。
相手にはこの状況がどのように映り、どのように感じているのだろう。暗闇の中、まともに私も見えていないはずであるし、私のこの怒りの表情も、きっとこいつに見えていない。
この人はきっと、微かな光をや空気の流れ、呼吸のリズムなどで状況を見ているのだろう。何とも効率の悪い方法だ、と私は考える。
そしてその真実が私には耐えられなかった。言葉や表情、意思疎通の手段が豊富な人間なのに、それが伝わらないことに。
湧き上がる怒りを抑え、私がザクロに対して気に入らない事を吐き出す。
「他人の…、他人の命を何だと思っているんですか」
未だに丁寧語を使うのは、心のどこかで怯えているから。ザクロを狙う指に自然に力が入るのは、この返答によっては撃つと覚悟したからだ。
私にははっきりと見えている。ザクロの呆れ果てた顔が、色を持たぬ目が。ため息を吐き、ゆっくりと口を開く動きが。
「知らないよ。自分以外の事なんて」
少し大げさに肩をすくめ、あたかも当然のように冷たく言い放つ。悔しさのあまり、再び溢れる涙を見てかは知らないが、フッと笑いザクロは続ける。
「じゃあなんだ、君は他人の代わりに死ねと言われたら死ぬのか。だとしたら僕にはそいつが馬鹿としか思えない」
「違う、そういう意味じゃ…」
「ではどういう意味なのかな。僕にはそう聞こえる。でも強いて言うなら、僕にとって他人の命とは、自分を測る物だ。それを奪う事は我が成長の為であり、それ以外の何物でもない。わかるか?」
わからない、のたった一言が出てこない。脳はそう言えと信号を出しているのに、筋肉がそれを拒む。さっきまでの無意識に動く口、それが戻ってきてほしい。
もちろんそれは戻ってこない。私はもう嫌になっていた。聴力を弱体させ、何も聞こえないようにしたいと考えるようになっていた。
だが指はザクロに向けている。次何か気に入らないことを言ったら、撃つ。
私がそう覚悟した次の瞬間、ザクロは真剣な顔つきになり、案の定私の気に入らないことを言い放った。
「わからないのなら口を慎め。黙って僕の糧となれ」
刹那、私の撃った弾の射線上にザクロの挙げた左手が入る。




